2010/02/06

「壊れかけのRadio」 / 徳永英明



上記の動画アップについて、意外に感じられる方々が居るかも知れませんが、徳永英明の10枚目のシングル「壊れかけのRadio」(1990年)です。
これ、どっかのテレビ番組のライブ録画映像(2006年)なんでしょうが、僕がこの曲を始めて耳にしたのは・・・(記憶が定かではない)、確か、まだ中央線の阿佐ヶ谷に住んでいた頃だから十数年前、あるテレビ番組を見ていたらビートたけし(北野武)が「好きな唄だね・・・」と、この「壊れかけのRadio」を歌いだしたんですね。当時は、徳永英明のCDなんて聞いたこともなかったから、「ああ、素敵な歌だなー」と、ところどころ音をはずし声の出ない北野武の歌唱力などは、べつだん気にもならなかった。アレンジのダサさ、北野武の歌のまずさ等々、どれもこの唄の美しさを損なうことができなかった。そんな風に感じた。静けさの内、何かと何かが交わってポロリとできた作品とは、唄とは、大よそそういう「モノ」に成っているんだろう。
もちろん、この動画、この「壊れかけのRadio」のアレンジはたまんない、いわば歌謡曲のアレンジであり、まるで工夫が成されていないと言いますか、心が篭っていない、先日アップしたレッド・ツェッペリンの「天国への階段」と比べますと、楽曲としての「総合的な完成度」はなってない、かなり見劣りします。が、試しにこの両作品の「唄」だけを取り出し、その強度を注視しますと、その出来は、なんら変わらない、いわば同格なんですね。(これは判断ではなく、事実です。)
もし、いや、ツェッペリンと徳永英明を同線列上で語るなどナンセンスだ、というリスナーが居りましたら、たぶんその彼、彼女は、実の所、なにも聞いていない、ミュージシャンもしくはシンガーの「イメージ」を見ているだけ、これを聞いている感じになっているだけであって、さらに言えば、彼ら音楽家の私的な嗜好性やその表層的な音楽スタイルだけを聞いている、聞かされているだけのことであって、なんら主体的には「聞いている」とは言えず、意識的には何も聞き出せていないわけです。
と、むずかしい話になってきた。ただ、こんな事を書かせてしまうのも、「音楽」がそなえる魅力のひとつ、魔力と呼んでもかまいませんが、ただ、あまり「イメージ」で音楽を聴かないでくださいね、「ジャンル」に捉われず、もっと「自由」に成って、聞いてくださいね、ってことを伝えたかっただけであります。

p.s.
たとえば、余談ですが、この両作品の歌詞をのぞいてみると、これを書いた歌い手の意識内容に近づくことができます。


壊れかけのRadio」by 徳永英明

華やいだ祭りの後 静まる街を背に
星を眺めていた 穢れもないままに
遠ざかる故郷の空 帰れない人波に
本当の幸せを教えてよ 壊れかけのRadio

この“壊れかけのRadio”とは「壊れかけの神様」のメタファーともなっています。
神様とは、すでに壊れかけている、壊れつつある、という徳永の認識、そして知覚・・・。


Stairway to Heaven」by Robert Plant

And as we wind on down the road
Our shadows taller than our soul.
There walks a lady we all know
Who shines white light and wants to show
How everything still turns to gold.
And if you listen very hard
The tune will come to you at last.
When all are one and one is all
To be a rock and not to roll.

And she's buying a stairway to heaven.

道をくねくね進むにつれて
私たちの影は魂より高くなる
ほら向こうにみんなが知っている女が歩いている
彼女は白い光を輝かせ教えたくしょうがないのだ
どうやってすべてのものが黄金になるのかを
もしよく耳を澄ませば
最後にはあの調べが聞こえるだろう
皆がひとつになり ひとつが皆になり
岩になるときに 転がりはしない岩になるときに

そして彼女は天国への階段を買う(参照)


天国への階段を買う、という言葉。これは文字通りに受け取れば、プラントが生きた当時の西洋世界、キリスト教への侮蔑、アンチということになりそうですが、感覚的に描かれた全文を読めば、キリスト教以前のケルト文化または古の異文化に対する彼の憧憬が、やや粗雑なカタチで表現されています。

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