2025/08/28

写真集『インスピレーションの庭』発売中!

 

この写真集『インスピレーションの庭』は、9月15日(月)~23日(火)まで開催される高尾駒木野庭園で販売いたします。

直接ご購入希望の方は、下記のメールにてお問い合わせください。郵送、もしくは(近隣の方は)手渡しをします。
 

『A Garden of Inspiration インスピレーションの庭』

判型:210×297㎜

頁数:108頁

写真点数:91点

製本:ソフトカバー

発行年:2025

定価:3,500円(税込)

 
写真集1部・定価3500円+送料430円(レターパックライト) 合計3,930円
(写真集2部まで・送料430円)
 
〜お振込先〜
みずほ銀行
店番号:161
普通預金:1733565 
名義:カイヌマタケシ
 
郵送先のご住所とお名前、お電話番号をお知らせください。
 

 
写真集『インスピレーションの庭』は、1995年から2010年までに撮影した幾つかのシリーズの中から代表的なカットを選び、撮影年月日にはあまり囚われずに、一枚一枚の写真が放つ微妙に異なる響きやメッセージに寄り添い、纏め上げたものですが、音楽のベストアルバム的な離散感は与えないように、ページとページをどのように紡いでゆき、展開させれば、ひとつの大きな世界が立ち現れてくれるのか、随分苦心しました。
昨年発表した2冊の写真集はチャプター毎に区切った、時系列によるオーソドックスな編集スタイルでしたので、今回は少し新しいフェーズに挑戦してみたのです。
ところで、写真家の写真集とは、映画や小説などと比べますと、一般的にはあまり手にする機会のない、決してポピュラーなジャンルとは呼べませんが、それでもこれまでに数多くの写真集が発表されて来ました。ただ、ややもすれば一部のコアな読者層に向けた趣味嗜好性の強い写真集ばかりが出版されて来たような気もします。
「より開かれた可能性と甚深な内容を持った写真集とは?」
それが今回の僕のテーマのひとつでした。そしてこの写真集『インスピレーションの庭』の本望は、皆さんにとっての"直観の庭"となること、これに尽きると思います。
写真集でしか表せない、味わえない魅力というものを、存分に愉しんでいただけたら、大変光栄に存じます。
 

 



2025/08/23

海沼武史写真カタログ/Takeshi Kainuma Catalogue 2025

 






 

海沼武史写真展『而今』2025年9月15日(月・祝)〜23日(火・祝)無休

*本展会場にて、(お一人様一部)ご自由にお持ち帰り下さい。

2025/08/12

海沼武史写真展『而今』 / Takeshi Kainuma Exhibition 2025


 

海沼武史展『而今』
2025年9月15日(月・祝)〜23日(火・祝)無休
開閉時間 9:00〜16:30 入場無料 
 
場所:高尾駒木野庭園
住所:東京都八王子市裏高尾町268-1
TEL :042-663-3611 
 
【トークショウ vol.1】
9月20日(土) 開始14:30〜16:00終了 
 海沼武史 + 蜂須賀公之(作家ナチュラリスト) 
ゲスト・中村明博(額装ディレクター展示設営コーディネーター)
 
【トークショウ vol.2】
9月21日(日) 開始14:30〜16:00終了
 海沼武史 + 内田和男(カウンセラー) 
ゲスト中村明博(額装ディレクター展示設営コーディネーター)
 
※トークショウに関しては、当日中止になる場合も御座いますので、どうかご了承ください。 
 
 
 

 
 
共催:高尾駒木野庭園指定管理者・駒木野庭園アーツ 

 

2025/08/07

写真家の新たなる挑戦 / A new challenge for photographers

 写真は、僕たちの眼前に、現れては消え現れては消えを繰り返す現象世界のある一面を切り取ることを得意とするメディアですが、ただ移り変わるだけの現象世界の彼方、背後には、通常の五感の働きでは知覚し得ない普遍的な事象、ヴィジョンが隠れ潜んでもいることをも予感させることが出来ます

現象を通じて、これを踏み台にし、視覚の可能性を押し開いてゆくことの意欲や意志を持つこと、これが「見る」から「観る」への移行となり、これまで写真家や鑑賞者が見過ごしてきた新たなる視覚の開示へと繋がってゆくのです。
 
この「観る」については、以前このブログやFacebookでも取り上げましたが、宮本武蔵の「観の目つよく、見の目よわく」、これは身体上の目を使って見ることだけに頼らず、心の目で観ようとする、心眼を磨くことの大事さを伝えています。肉眼による知覚はすべて形態上の差異に依存せざるを得ませんが、心の次元には色や形はありませんので、そこで捕まえることの出来る世界とは、肉眼による知覚世界とは全く異なる新しい世界、様相を呈しているはずです。心眼による目付け、この眼差しで「観る」ことは、前世紀には叶わなかった写真家にとっての新たな挑戦であり、撮影行為の新しい試み、冒険です。
 
なぜなら、世界はすでに撮り尽くされ、似たような現象、表層的な、網膜上の差異のバリエーションを、写真家は繰り返し撮影しているだけだからです。
そして現代では、動画による表現が主流となり、世界の(表層的な)出来事の記録、伝達手段として写真に期待された役割りは影をひそめ、情報量の的確さや密度においては動画の方がより優っています。
 
しかし、動画は撮影者および鑑賞者の「観の目」の開花については抑圧的に働きますが、「瞬間」を捉える写真の方は、撮影者の意識次第では、現象世界を別の見方で見ることを促す、「観の目」の誘いとしての機会を十分に提示しうる、形而上の機能を秘めたメディアへと変容を遂げることが可能です。

作品の内に、それを鑑賞する側が「内観」へと向かう為の配慮、スペースを作り出すこと。意図的に作り出すことは出来ませんが、そこに向けて絶えず心や視を意識的に開き、磨いてゆくこと。
AIによる合成写真が興隆すればするほど、この「内観」へと誘う、「心眼」による写真作品の重要度は増すことでしょう。なぜなら、表層上のアレンジや編成しか知らないAIには五感を超えた世界は迫り切れず、AIとは、五感の向こう側の世界を知覚しようとする意欲や機能とは無縁な、心を持たない否芸術的な道具だからです。

美(芸術)とは、この世のものではないのです。
 
 
 

2025/08/03

写真集について / About the photo book

 

写真家の写真集とは、実際、被写体としてそこに何が撮られていても、厳密に言って、この世界には2種類の写真集しかありません。

それは「(まだ)この世界にしがみつきます」というタイプの写真集と、「(もう)この世界から解放されます」という眼差しを持った写真集、このどちらかだけです。
ほとんどの写真集は前者ですが、それは撮影という行為が、対象を必要とし、良くも悪くもこの世界の事物や現象に魅了され、はじめて成立するからです。
 
「この世界とは何か?」
「この世界は本当に実在するのか?」という問いが、なぜか自分の内側で湧き起こり、後者のメッセージへと突き進もうとする写真家、写真集は今のところまだ顕著に現れてはいません。これは写真の世界のみならず、映画や小説というジャンルでも「この世界へのこだわり」を、様々な物語り、ドラマ、仮想の設定を舞台に、そこに無数の人間模様、記憶の乱舞や世界の不条理、葛藤劇、狂気を抉り出し、この閉じた世界内での「やりくり、やり取り」への嗜好に囚われ続けているのが現状です。
ただし、音楽や絵画、論考などの表現世界では、「この世界から飛翔することによってはじめて見出される世界」について、作者の意識が向けられた作品は少なからず存在しています。例えば、ヨハン・セバスティアン・バッハの音楽作品、モネの睡蓮画、円空の木彫作品、リチャード・バックの『イリュージョン』、ニサルガダッタ・マハラジの講話録などは明らかに後者に属しています。
 
芸術のジャンルを問わずに、作品とは作者の思考内容や知覚内容が反映された表現世界なので、僕が近々発表する写真集『A Garden of Inspiration (インスピレーションの庭)』は後者ですし、昨年上梓した『廻向』や『奇蹟』も同様に、この世界の背後、存在の本質へと踏み込もうとする僕の世界観が色濃く入り込んでいるように思います。またそうであることを望んでいます。
出来れば、僕が撮影した写真や、音楽作品でも、僕のそんな想いを念頭に置いて、皆さんに触れていただければ光栄です。 

芸術とは、この有限の世界で不滅なるものを指し示す美しき道標なのです。
 
 
 

2025/07/31

展覧会のお知らせ

 今朝、2004年にニューヨークからこの町に引っ越し、昨年「20周年だった!」ことに気づき、お陰様で友人たちのお力添えで初の写真集を2冊も上梓出来たことが、何やら不思議な運命の計らいだなと感じました。

今年は、裏高尾在住21年目にあたり、ウチから歩いて5〜6分の所にある高尾駒木野庭園で写真展を開催いたします。期間中には、2日連続でトークショウを行う予定です。
山に囲まれた谷間のような小さな町に住み、これまで様々な人たちと出会う機会を得ましたが、その中で特に強い印象を僕に与えてくれた3人の盟友にお声がけし、写真や芸術、自然、人間の本質などについて、ざっくばらんな談笑空間を共に作り出せたらなと思っています。
 
 
海沼武史展「而今」
2025年9月15日(月・祝)〜23日(火・祝)開閉時間 9:00〜16:30
 
【トークショウvol.1】
9月20日(土) 開始14:30〜16:00終了 
 
海沼武史+蜂須賀公之(作家・ナチュラリスト) 
ゲスト・中村明博(額装ディレクター・展示設営コーディネーター)
 
【トークショウvol.2】
9月21日(日) 開始14:30〜16:00終了
 
海沼武史+ 内田和男(カウンセラー) 
ゲスト・中村明博(額装ディレクター・展示設営コーディネーター)
 
備考・トークショウの模様は録画し、後日YouTube動画として配信する予定。
 
※トークショウに関しては、当日中止になる場合も御座いますので、どうかご了承ください。
 
さらに、この展覧会にあわせて新しい写真集『インスピレーションの庭』を発売いたします。
この写真集は、昨年発表した2冊の写真集以前、1995〜2010年に撮影した写真だけでまとめています。イントロダクション(序説)は、蜂須賀公之に書いてもらいました。
そして会場に展示する写真作品は中村明博による額装ディレクションによるもので、展示コーディネートの方も彼に一任しています。
 
円融なる高尾の自然に囲まれ、旧民家内に展示された作品鑑賞から離れ、豊かな植生の庭園内(池泉回遊式庭園、枯山水、露地)を散策するも良し、ささやかながら、皆さんにとって素敵なインスピレーションの時空間となることを期待し、海沼武史展「而今」、どうぞよろしくお願いいたします。
 
 
 

2025/03/31

goblet~reprise リーラとビッグバン


 

「わたしたちはここで学んでいることを通じて、つぎの新しい世界を選びとるのだ。もしここで何も学びとれなかったら、次の世界もまたここと同じことになる。」

(『かもめのジョナサン』リチャード・バック)


ヒンドゥー教では、この現象世界、宇宙の営みを「リーラ(lila)」と呼んでいます。その意は、この宇宙や世界で起こることのすべてが「神の戯れ」であり、宇宙が始まった理由も神のほんのお遊び……? これ、かなり大胆な考え方ですね。

ちなみに宇宙の始まりについて、1948年に物理学者のジョージ・ガモフがビックバン理論を提唱しましたが、それ以前は「宇宙は不変であり定常的に存在していた」という考え方が天文学者の間では支配的であったようです。ただし「天地創造とは神によって成された」と漠然と考えていた人間が(たぶん)ほとんどで、それは聖書や世界中の神話などからも窺い知れます。

このビックバン理論以降は、この宇宙の始まりは神ではなく大爆発(ビックバン)によるものという推論が一般常識となりました。「およそ137億年前に何もないところからとても小さな宇宙の種が生まれました……同時に、急激に膨張(インフレーション)が始まり……」これも十分お伽話みたいですが。

「リーラ」について、もし完全無欠、絶対、無限であり常住不断を象徴する「神」が、破壊と創造の悪循環、時間と空間の法則を、男と女、生と死などの二項対立の世界を作り出した理由は甚だ不明。それはビックバンという一大イベントと同様に、明確な目的や意図を見出せませんよね。

「御心のご意志は人知を超えているのだ」と思考停止することは実に簡単なことですし、では人間がこの世界でじたばたと生き死にを繰り返すことの無意味さを神は良しとしているのか?絶対的な愛の存在である神が!

やはり現代物理学の達成であるビックバン理論やインフレーション理論こそが真実なのか?しかしこの推論では、人間は偶然宇宙に生まれた非力な奴隷に過ぎず、神とは、所詮人間が考えついたアイデアってことになります。

話を戻し、ヒンドゥー教の「リーラ」神の戯れという視座について勝手な補足ーー。この宇宙の営みとは、神そのもの、神本体の戯れではなく、完全無欠、全知全能の神にとって時間や空間、物理的な五感の世界、宇宙規模の遊びなど無用なので、強いて諧謔的に表現すれば「眠りに落ちた神仏の子の戯れ」と言い変えた方が、神仏への定義づけを損なうことなくなんとなく合点がゆきます。

神(真理)本体から分離、独立したいと言う考えがなぜか神仏の子に生まれ(これが欲望の起源かも知れない)、その誤った衝動により"意識"が誕生し、と同時に、意識(自)は自らを確認するために対象(他)を必要とするので、この物理的な大宇宙という対象物を「夢を見る」という方法により創作、想像した、と。

この推論は、釈迦の言葉、彼は唯一神の存在を認めませんでしたが、「この世はマーヤ(幻想)である」の裏づけにもなるし、かなり信憑性は高いような気がします。

繰り返します。神が眠ったり夢を見たり欲望を抱くことはその定義上不可能なので、神から分離することを目論んだ神仏の子が、眠りによって神から離れた自分だけの夢のフィールドで創造主に成りすます。


この宇宙とは、神仏の子である〈意識〉が夢を見続けるための舞台であり、それが目的なので、いわばゴールのない虚無(無明)の彷徨いです。

宇宙物理学者が想定するビッグクランチや熱的死などの宇宙の終焉とは、意識の終焉とも言えますが、夢を見続けようとする意識がやがて夢から目覚める、これも宇宙(幻想)の消滅、なので目覚めようとする意欲と目的を持つ以外、この世界での営みは(夢なので)ほとんど無価値であり無意味かも知れません。

そして目覚めが、たまたま(?)個人の意識上で起こった際に(もちろん意識から分割された個人の意識でしか起こりようがありませんが)、覚者と呼ばれる存在がこの夢の世界に現れます。そした彼らは彼らが生きるその時代、適宜に応じた表現と言葉により真理を伝えようとするのでしょう。


「神がエゴを創造し、またあるときは、エゴの消滅を徐々におこなっていくのも神、というわけです」

これはマハラジの元で学んだラメッシ・バルセカールの言葉ですが、神がエゴを創造したいう発言は、もし神が完全であるなら、完全なものは完全なものしか創造出来ませんので、この物理的な宇宙を必要とした意識、夢見るエゴを作り出すはずはありません。たぶん彼の神という言葉は、古今東西の神話等に登場する神のイメージが紛れ込んでいると思います。身体がエゴの住処であり、意識がエゴの母体となるので、マハラジは「意識以前が真実である。それ以外は存在しない」と、エゴや意識を一掃した場所を指し示そうとしました。


ある人がバスターミーの家の扉をノックする。『誰にご用?』

『バスターミーにお目にかかりたいのですが』

その人にバスターミーは言う。

『お引きとり下さい。お気の毒だが、この家には神だけしかいない』

(『イスラーム思想史』井筒俊彦)

 

goblet~reprise(2020年作) 



 

2025/03/28

letter from farther あなただよ

 


信念ーー。

自分が、何を信じているのか、何を信じようとしているのかを明らかにすることの重要さ、大切さとは、自分の信念が自分の知覚するものや思考内容を方向づけ、それに基づいて自分が自分の世界を作り出し、自分が信じる通りの世界を見、満足または不満を抱き、心はそこに定着され、自分の信念が創作した世界への新しい眼差し、もしくはその世界からの跳躍を困難なものとするからです。


日本最古の書物とされる『古事記』の天岩戸伝説と呼ばれている物語りには、太陽の女神である天照大御神が、自分の弟である須佐男命の度を越した悪戯に呆れ果て、天岩屋戸という洞窟に閉じ籠もってしまったというエピソードがあります。太陽を失った世界は真っ暗闇となり、秩序は乱れ、様々な厄介事が起こり、これを案じた八百万の神々が慌ててニート化した天照大御神をなんとか外に連れ出そうと策を練り、無事成功したよ、世界はめでたく光を取り戻したよと続くのですが、僕は詳細には『古事記』を読み込んでいないのでかなり心許ないですが、この天岩戸伝説と呼ばれているストーリーを、神道を信仰している方々がどのような解釈をなされているのか?また信じていらっしゃるのかは分かりませんが、世界には無数の言い伝え、迷信、神話があり、旧約聖書、インド神話、北欧神話、ゲルマン神話、等々、その内容は、もちろん読み方によっては示唆に富んでいると思いますが、まず共通して言えることは、どれも冗談みたいなシュールさで、嫉妬や復讐、殺戮と凶暴性が渦巻く世界が豪胆に描かれておりまして、読み手に「神とは恐ろしい存在である」と印象づけます。

神話は、この世界で暮らす人間たちの心に、良きにつけ悪しきにつけ多大な影響力を持ち、たとえば日本全国各地に五万とある神社では、この『古事記』に登場する神々が今なお堂々と奉られ、参拝者はそれぞれの思いや願いを込め「ニ拝ニ拍手一拝」という作法により手を合わせます。

一神教と多神教、『古事記』には沢山の神さまが意味深な名前で登場しますが、基本的に神は名前を必要としませんから、複数の神を登場させることは、1、2、3……という数字を予感させ、これは時間と空間の舞台であるこの現象世界内でのみ有効な概念なので、そもそも自他が融和した神の世界に数えるとい行為は起こるはずありません。もし起こるとするなら、1、1、1……

さらに、壮大な神話世界を構成するために様々のキャラの異なる神々を登場させる必要はあったのでしょうが、他の神々の行いに悩み、悲しみ、怒るというこの一連の感情の動きはあまりにも人間的で、誰かとの関係が上手くいかずに不貞腐れて引き篭もる神とは、真実の神の似姿ではなく、人間によってイメージされた神であり、天地創造とは創作された神によるものではないのか?と、大きな疑問を残します。


神話とは何か?

その書物、物語りを通じてこの世を超えた事象、世界への理解と人間を導こうとするのではなく、荒唐無稽さや奇抜さ、「神は恐ろし!」の印象を与える物語りとは、ややもすると世界や人間の本質、宇宙の秘密への接近、存在への理解、洞察、直知の妨げになります。

さしずめ小説とは、往々にして誰かの頭の中の三面記事の連なりですが、世界中に数多の神話が存在し、少なからず人間の心がその影響を被る意味とは何なんでしょうか?

『古事記』に触れ、この世界の諸相を何の先入観も持たずつぶさに眺めれば、実はこの世界そのものがまだ神話の延長としてあるようにも感じます。人々の心は神との直の交流を断たれ、「神は恐ろし、敬して遠ざけるべし」と、怯える子羊のように神をなだめるための供犠、祈祷、祭典を考案し、それに権威と威厳を持たせ、有無を言わせぬ盲信を強要し、あくまでも神をこの世でもっとも恐ろしい存在、対象物として扱ってきましたが、こういった大仰で、形式的、公共的で組織的な形態の数々を、非知覚的である神は望むのでしょうか?

僕たちは今なお微睡んだ神話的な夢の営みに翻弄され続けているのかも知れません。


ある村の、神主不在の荒れ果てた小さな神社の掃除を始めた夫婦がいます。この方たちとは2年ほど前に知り合い、その経緯をいろいろ伺って、しばしお付き合いを重ねていく内、ふと気づいたことがあります。この夫婦は、神社という形、神社という幻想の上で、掃除という行為を通して幻想ではない場所へ一心に向かおうとしているのではないか?と。 

放ったらかしにされ、寂れ果てた神社を、別段誰かに有り難られることもなく、またそんな期待も一切持たず、ただただ歓びに包まれて、形式ばった法衣や斎服とは無縁な無名の者として、ただ掃除をする、掃除をする……。その心の様がなんとも美しく、真っ新な始原の信仰の姿とはこういうものだったんじゃないかと垣間見せてもらったような気がしました。

僕らは世界という夢の舞台で、具体的な行為やこの身体を通じてのみ、本質(真理)に迫ることが出来ますが、言葉や作法、教義、祭礼、神話など、上部のことが余りにも力を持ってしまうと、心が速やかに神の世界へと貫入することの障壁となります。


外的な神社とは、本来、人間が自分の内なる不壊の社に気づき、それに触れるために在るのでは?

これは教会の使命が、心の内なる祭壇を見出し、一人一人が自分の内なる神との交流を復活するためにこそあるのと同様に。

たぶん自分の内側に形なき神を見出した人間は、1、1、1……自分が神の一部であることを知り、物的な神社や教会はもはや必要としないことでしょう。もし望むとするなら、それはただ自分以外の人間のためにです。


古の心も形なし。今の心も形無し。心のみにして形を忘るる時は今も神代、神代今日、今日神代。世の中の事は心程づつの事なり。心が神なれば即ち神なり。黒住宗忠)


 〈質問:世界最大のパワースポットは一体どこにあるのですか?

ニサルガダッタ・マハラジならきっとこう応えると思います。

「あなただよ」


letter from farther1994年作)

 

 



2025/03/27

home out home アダムとイブ以前

 


この世はすべて舞台、男も女もみな役者に過ぎぬ。(シェイクスピア)


「男であるとか女であるとか、そんな外観のことはもうどうだってイイんだよ」と、誰かの思いを捕まえた還暦過ぎの老人が世間の柔らかな風に紛れそう言い放った。 


この物理的な身体の世界では、男性は男を演じ、たまに女を演じる人もいますが、女性は女を演じ、時に自分は男として生まれて来るべきであったと男を演ずる。

しかし心の領域に入れば性差はありません。なぜなら眼に見えない心の次元には形態と言うものが存在しないので。自分が男であるか女であるかの判断基準は、身体の形態や生殖器官の差、外的な知覚による認知を通してなされます。ホルモンや脳の構造の差もあるらしいですが、「自分は男性の身体を持っているが気持ちは女」とか「私が女性の身体として産まれてきたのは何かの間違え」という、個々人の思考内容の底層に隠された信念に基づく願望が、時に男を演じるか、はたまた女を演じるかを決定するケースもあり。

性別に囚われない心、性差からの自由とは、そもそも心には男も女も無いと言う、ちょっと身体の世界から離れた(自由となった)洞察により速やかに達成できますが、人類は、男と女という二項対立、身体的差異を、この地球環境で生き行くため、存続させるために必要な動力(信念)にしたので、心に性別が無いという形而上の視点により始めて見えて来る「世界」については見過ごしがちです。

この眼に見える世界だけを信じ、限定的な知覚のみを信じ、その知覚からの情報を元にした思考内容に、本来は神のように無性無名無色透明の心が追従することは、当然、ある種の歪みを生じさせます。ゴールのない葛藤と緊張を呼び起こすのです。

たぶん人間が作り出した社会の諸問題や地球上の無意味な破壊と創造のループ、暗黒宇宙の非情さとは、すべてここに起因しているかなと思います。

身体(知覚)中心主義の世界の限界と不条理、宇宙の滑稽なまでの無意味性を意識化することは、人類がまだ心中心主義?という知覚を超えた世界観を共有してないという事実を教えてくれます。

 

ところで、旧約聖書『創世記』に描かれたアダムとイブの寓話は広く知られていますが、仮に、エデンの園を無死無生の世界、絶対的楽園、大いなる源の象徴とするなら、このエデンの園からの追放とは、一なるものの分裂、主体と客体、正と負、二項対立や二元論、陰陽思想などの始まりであると解釈することができます。

「善悪の知識の実を食べた2人は目を開け、自分達が裸であることに気付き……。」という記述。たとえば2人が禁断の果実を食べて目を開いたのではなく、楽園では夢を見ることを知らなかったアダムとイヴが、蛇という〈意識〉にそそのかされ、心の目を閉じて、はじめて眠りというものを知った。つまり心眼を手放すことによってこの現象世界という夢を見始めた。これは釈迦の声明である「この世はマーヤ(幻想)である」と同意義です。

映画『マトリックス』のモーフィアスの台詞ではありませんが、「赤いピルを飲めば、君はアダムとイブ以前の世界に戻れる。青いピルを飲めば、ん〜現状維持」。

この世界、この宇宙は夢であり幻想であると言う視点がユニークで斬新なのは、ひとえにこの世界を違った眼で見ることを可能にするからです。


「人間はもともと反逆者にできあがっておるのだが、反逆者が幸福になると思うか?」(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー)


この世界は、エデンの園から離脱した〈意識〉による夢に過ぎないのか。

主体と客体という分裂のない全一の状態にあるエデンの園=の元から脱出しようとする奇怪な願望がなぜか起こり、と同時に意識(蛇+アダム+イブ)が生まれ、意識自身が創造主の座を奪取しようとする攻撃的な欲望がこの世界という夢の母胎であり、その夢の中の創造主として意識が神として君臨する。これが、宇宙の始まり、とかなりぶっ飛んだ仮説。

古今東西の賢者?リチャード・バックやボルヘス、荘子やクリシュナムルティ、ハッラージュとバヤズィード・バスターミー、そして釈迦などなどの慧眼が得た洞察とはこんな感じだったんじゃないかしら。それでこの洞察や見方、仮説によって何を捕まえることができるのか?ちょっと大袈裟ですが、この世界の不条理や狂気、意図、人間が存在する意味、そのすべて明らかになります。

小さく見積もっても、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いた無神論者を標榜するイワンの懊悩は解体されます。笑


「ぼくは神を認めないんじゃないぜ。ぼくには神の創った世界、いわゆる神の世界ってやつが認められないんだ、認める気になれないんだ。」(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー)


加害者と被害者は同時に存在します。どちらかが欠けても「事件」は成立しません。ただ、加害者の欲望的意思が先行します。

世界(他)が消えれば意識(自)も消滅するように、世界(物質)と意識(想念)は同時にしか存在し得ません。

つまりビックバン、宇宙の創世とは、意識の仕業なのです。 


「心は主人なり、形は家来なり。悟れば心が身を使い、迷えば身が心を使う。」(黒住宗忠・17801850


そして最後に、「アダムとイブ以前」とは、時間的な遡行のイメージとして捉えるのではなく、今まさにここに実在する、僕たちの心そのものの姿だと思うのです。


home out home1991年作)

 

 



2025/03/24

blank 音楽の羊水


 

昨年10月に、友人たちのご厚意により2冊の写真集を上梓させてもらい、それ以降、何だかホッとしてしまったのか、以前のような心構えで撮影に臨むことは無くなった。気まぐれに、iPhoneで撮ってみるものの、さんざん撮りまくった被写体ばかりをなぞるように撮っているだけだから、あちら側へぶっ飛ばされるようなワクワク感はもうない。熱くもならない。

まぁそんなもんだ。

それで今年に入り、集中的に音楽と向かい合う日々が続いている。ただし、新しい楽曲を作る気にはならないので、今まで作った作品のリマスタリングをしているだけ。ことさら他に用事もないし、でも一年前と比べると「ずいぶんイコライジング仕様の聴感が出来たなぁ」と感じる。エンジニアリング、独学だからか、ここまで来るのに10年もかかってしまった。

22、3歳からインストルメンタルの音楽を作り始め、これまで何曲作ったのか数える気もないので分からないが、アルバムにしたら20枚ぐらいになるのか?よくもまあ、どこにも発表するあてもなく、ごちょごちょ1人作り続けたものだ。

20代の頃から本気になって写真をやり音楽をやり、当時は「二足の草鞋を履いたら成功できない」的な風潮があって、そんな嗜めの言葉を何度か投げかけられたこともあったが、写真と音楽、その両方の制作を続けられて良かった良かったと、今は思う。

還暦を過ぎ、当然のことながら、身体の死は意識せざるを得ないが、もし写真や音楽を作る以上の楽しみと出会えたら、もちろん創作活動なんぞはスパッと止めてしまうかも知れない。それは、きっと、そういうもんだ。

 

僕の中の誰かが「もう充分作ったよ」と。 


blank1984年作)

 

 


 

2025/03/23

Borges's dream まがりやどかり


 

"Writing is nothing more than a guided dream." 


これはアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの発言ですが、「書くことは、導かれた夢に過ぎない」。

これ、いいですね。

不遜にも自分に寄せてみるなら、写真家として撮影をすることも、音楽を作ることも、確かに共に導かれた夢に過ぎません。ただし、表現者の創作行為のみならず、あらゆる人間の生き方、個々の生、運命とは、導かれた夢ですよね。

ボルヘスはまたこんなことも言っています。

「我々の住む世界は一つの錯誤であり、役立たずのパロディーだ。The earth we inhabit is an error, an incompetent parody.

手厳しいですね。

僕たちが住んでいるこの世界はパロディーだと言うこの発言は、ヒンドゥー教の世界認識「リーラ(lila)・神の戯れ」という教え、観点と重なります。注目すべきところは、この世界をパロディーもしくは神の戯れと断じるには、その認識者がこの世界内で起こる諸現象に自分の知覚が振り回されることなく、この世界の外に出てこちらを見なければ獲得できない視点、認識です。超越論的視点とでも言うのかなぁ。もしくは時間と空間を超えた「空」からの眼差し。

さらに英国の劇作家ウィリアム・シェイクスピアは『テンペスト』でプロスペローにこう言わせています。

「われわれは夢と同じ材料で作られている。我々の儚い命は眠りと共に終わるのだ」

"We are such stuff as dreams are made on; and our little life Is rounded with a sleep."

もしこの台詞の後に続く言葉があるとするなら、それは「そして我々は永遠と共に再び目覚める」。


知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。

 

「ところで、荘周である私が夢の中で蝶となったのか、じつは自分が蝶で、いま夢を見て荘周となっているのか、私にはわからない。

荘周と蝶とは、確かに形の上では必ず区別がある。これがまさに物化(万物の変化)というものだ」(『胡蝶の夢』荘子)


そしてふと、紀元前5〜7世紀の釈迦の「この世界はマーヤ(幻想)である」と言う歌声が、あらゆる場所、あらゆる時代の人間たちによって多様な言い回しでさらなる命を吹き込まれリフレインされているなと思うのです。

 

Borges's dream(2020年作)

 

 



2025/03/21

family あなた(と自分)の元まで


 

この世界に生まれて、奇妙な違和感やたった1人取り残されたような孤絶感を味わったことの無い人は誰も居ないと思いますが、どうでしょう?


「自由でないと鮮明にものが見えません。自由がないと美を感じとることができません。」(ジッドゥ・クリシュナムルティ)


はじめて自分を意識した瞬間、外側に世界や風景が広がり、手で触れる距離には様々の形をした物たちが、そして自分と似たような身体をした人間が動き回り、四方八方から色々な音が聞こえてくる。ときおり自分に向かって話しかける人たち、風を感じ、陽射しの眩しさや、暗闇の訪れと、この世界のすべてが自分と離れて存在しているような感覚、世界と自分が同時に現れた瞬間、はじめて距離を知った切ない瞬間……

自分がここに居ることを意識した瞬間、自分がひとつの小さな身体に閉じ込められたことを知り、外的な世界、多くの人々、空を駆ける鳥たち、草むらの中の昆虫や、長閑に目前を通る小動物たちから分離していることを強く自覚させられて、眠りが来ては、とたん自分と世界が消える。そして眠りから覚めたら、また世界が現れその繰り返しの中で、意識はややもすれば疎外感へと迷い込む。寂しいという感情が生まれ、不可解な恐れや警戒心がただ膨らんでゆく。


「目に見えるものには、みんな限りがあるんだ。だからきみの心の目で見てごらん。」(『かもめのジョナサン』リチャード・バック)


自分の身体を絶えず意識させられて、その身体の機能や状態に振り回されている自分の思考や感情が、知覚による快不快の個人的な感情体験から離れた、「あなたと私は別々の身体」という隔絶感が、なぜか時間と空間のことを知らない歓びと微笑みを含んだ光の洪水の内で、融けてゆく。やがて自分意識は私の身体を超えあなたの元まで広がってゆく。だから今ここで、意識がひとつであり心もひとつ、全一であることを見出せる場所へと自分を放つ。

この外的な世界はいずれ消滅し、内と外はひとつとなり、自分が世界そのものであったことに気づく瞬間がやって来る。


知覚という魔法を横切って、今までこの世界から学んできた怪しげな教えやルールの数々をひとつひとつ思い出し、ためつすがめつ吟味して、永遠という名の秤にかけすべて放り出してしまえ。

「空手でここまで来なさい」と、そう懐かしい声がする。 


やがて自分意識は私の身体を超え懐かしいあなたの元まで広がってゆく。

 

family(1992年作)

 

 


 

2025/03/15

akuru いまだけがとわのいりぐち 

 


「きみの知覚内容はそもそもきみの思考内容だよ」

光輪の藪からふわふわ現れた小指サイズの精霊が、その小ささに見合わぬきっぱりとした声で、記憶の波間をゆれ動く心に、「きみが見ている世界は(きみがまだ気づいていない)きみの意識が作り出したってことさ」

「きみが作り出したものはすべて夢 実在しないよ」と、まるで懐かしい歌を口ずさむかのように話しかけてきた。


僕が作り出したものがすべて僕の意識が生んだ夢なら、この僕の夢の中に現れたきみは誰?


「きみが見ている世界と きみが考えているきみというイメージを作り出したのはきみだけど きみを生んだのは僕だよ」


じゃあ、僕が夢を見ている原因はきみにもあるってことかな。 


「そうだね だからこうしてきみがまだ夢を見ていることに気づいてもらいたくてね ちょっときみの夢に現れたってことさ」


でもどうやって、夢を見ているという自覚のない僕が、夢から覚めることが出来るんだい?


「夢は変化するよね 変化するものは仮想で 真実ではない なぜなら 時間と空間の影響によって変化するものは真理 永遠 実在するとは言えない きみの感情も きみのその身体も この世界も この世界についてのきみの考えも 変化するから真実ではないよ」


自然の奥行きの外側で、小鳥たちのすべての花が揺れている。


「夢をリアルに感じさせているのはきみの身体と五感 それと意識のせいだけど きみの身体はやがて土に還り きみが考えているきみ(イメージ)はやがて消滅する その時 身体とくっついていたきみの自分意識は 個人としての自覚が消え すぐさま意識はたったひとつしかないことに気づくはず きみがまだ信じているきみとは現れたり消えたりするだけのものだから まさに夢みたいなもの」


“Where have all the flowers gone?”


じゃあ輪廻転生ってアイデアも夢なのか……

で、きみは一体誰?


「僕はきみの心 きみの心の始まりさ」


akuru1996年作)

 

 



2025/03/13

サザンカ spring tune

 


ずーっと机の上で、誰かが書いた文章が行儀よく並んでいるだけの本と呼ばれる観念世界上で、心の見方や心理のバリエーション、行動における統計学的な反応パターンや主観的な心理観察レポートの記述をひたすら読み込み、暗記して、知識を蓄えたとしても、たとえばコンビニのレジ打ちのバイトなんかしながらその場所でしか見えない世界と五感を通じての生々しい体験、世の中には様々の背格好を持った心模様が、多彩な嘆きと音色の異なる懊悩が、職業が、またこの社会の構造が生み出したプライドや劣等意識、そしてよーく耳を澄ませば幼児期のトラウマ独奏曲が静かに鳴り響き、挫折感のトーンとその強弱や、環境によって育まれた性格と持って生まれた気性からの影響、屈折の度合いとその微妙な角度や方位の差があって、執筆家のような言語表現力を持たないクライアントの症状告白への真偽を嗅ぎ取る反射神経などなど、実地で、つまり人様の具体的な身体と心たちの土俵の上で、混雑した生の現場で、自身の身体と知性を張り巡らし見聞きして、謙虚に学んで来なかった暗記力抜群の机上の妄想者たちに、果たして精神科医とか臨床心理士などの資格を与えても良いものだろうか?
「これを読めばお絵描きが上手くなる!」的な教則本を読み込むだけでは絵が上手くはならないように、ただひたすら椅子に張り付き本を読み国家資格をゲットした20代30代のガリ勉くん、社会の不条理や低所得者の倹しい暮らしを身近でビシビシ感じて来なかった者に、または時給1000円?の重みを味わったこともない象牙の塔の住人が(笑)、社会が強要または提示した身分の差やお金にまつわる問題、さらに歪みまくった人間関係で精神に異常をきたした弱き心の元へとすっと近づけるのだろうか?

分裂病が「病気」ではなくて、他人との関係において歪められた「生き方」だという考えは、私自身の内部ではとっくに自明のことになっていた。(木村敏)

絵が上手くなりたければ、ひたすらキャンバスに向かい絵を描くしかないが、人間の心理とは、キャンバスのようにはじっとしてはおらず、絶えず動き回る。そんな動的な心を相手にカウンセリングする、治療する、そのスキルを上げてゆくということが、どれほど困難なものであり、また膨大な経験値を必要とするか、切に自覚している精神科医はまだ少ない。

私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないか。(木村敏)

もちろん精神科医として日々クライアントの面倒をみている彼らの仕事はなかなか厄介な、まるで達成感が得られない、刻一刻と自身のプライドを蝕んでゆく可能性大の仕事だから、これに抗う為に、ついつい「この病気は遺伝です。だから治せません。薬物療法でずーっと付き合ってゆく病気です」なんて信じ込もうとする気持ちは分からないでもないが、「私は絵描きです。でも絵を描けません!」と、もしこう仰る方がいたら「んじゃ、絵描きを名乗るなよ!」と突っ込みたくなるもの。

「きみはなぜ精神科医に対してそんな辛辣というか、拘るの?」
だって高給取りじゃーん!ってのは冗談で、たぶん僕が小学4年生の時に、母が精神分裂病と診断され、話せば長くなるので端折って書けば、ある人間の精神の病が引き起こす様々の問題を、苦々しい場面やそれに伴う逃れようのない切なさを、そして堂々と公表できない秘密を持たされた者の哀しみや人格が突如豹変する姿を目の当たりにする恐怖、心理学の本を読み漁ってもその内容は部分的な視座に過ぎず、具体的に何も変えられなかった家庭内で多くの〈疑問〉を若くして持ってしまったからだと思う。

ところでGoogle検索によれば、今から150年前の1875年(明治8年)に日本で最初の精神病院が京都の南禅寺境内に開院され、その後1948年に児童精神科医療が始まったそうである。然るに精神医療とは、まだまだ改良の余地ある未開拓ゾーンであり、発展途上部門だと個人的には思うが、確かに母が入院していた50年以上前と比べれば、向精神薬の種類は増え、そのグレードはかなり良くなったような気もする。電気けいれん療法(ECTという脳に程良い電圧調整も可能となり、アメリカで一時流行ったアイスピック・ロボトミー手術の効能を信じる精神科医はさすがにもう居ない。鬱や狂気の原因を数値や画像で発見したいという使命や欲望が、はたまた治療費請求のためか、高価なMRIを置いてしまうという不思議感はあるが、年若いカップルが手を繋いで気軽に精神科の門を潜ることを可能にした世間的イメージの変化、つまり「お、お、おまえ、精神病院に行くんか!」というかってのハードルの高さは無く、これは良きこと。だが、昭和の時代なら、単に「しようがねーな〜」と放っておかれた少々落ち着きのない子供らをADHDアスペルガー、自閉症と、すぐさま発達障害スタンプを押し薬漬けにする現状は如何なもの?

精神医療とは、目に見えない心の障害を、目に見える身体への取り組みによって解決しようとする(狂気の)試みですが、では精神病院の〈外〉である正常な者たちが過ごしているこの社会、この健常者スペースではこれまで一体何が行われて来たのか?起こってきたのか?
縄張り争いが高じての戦乱戦国の世にはふつ〜にさらし首、リハーサルなしのチャンバラ、斬首刑、釜茹でが……。NHKの大河ドラマなどで取り上げられ美化された武将なども、所詮は現代の暴力団の親分でもたじろぐような大殺戮を指示してきた者たちではないか。そしていまだ海の向こうでは殺し合いが。〈外〉の世界も十分狂っていて残酷極まりない人類の歴史。
100年前、50年前と、確かに鉄格子がチラつく劣悪な環境と残酷な治療法は少しずつ改善され、患者同士の軽い殴り合いはあっても血みどろの殺し合いはない現在の精神病院とは、社会の熾烈な椅子取りゲーム、競争、狂気から一時的または長期的なエスケープを許してくれる、日がな一日ボーっと、いや、一生働かずに冷暖房完備3食看護付きの殿様のような暮らしを補償してくれる薔薇色の駆け込み寺として機能しているようにも見える。
 
この世界のどこに正気のスペースがあるのだろう? 
それは病院の中か?〈外〉か?
狂気とは、確かに直接的には知覚されぬ心から起こり、この物理的な現象世界で多様な表現方法を取る。
僕も十分狂っている。
ならば心を見詰めるしかないではないか。
そこに答えがあり、真実が在る。

(と、オチのないお話でした。)
 
spring tune(1991年作)