2026/03/28

陶芸考②

 

花入 

 (銘)岩窟の花器

 
この花器は、ニューヨークで生活していた頃に作陶されたものです。
20数年ぶりにまた作陶を始め、様々のフォルムを持った花器を現在制作中ですが、毎回毎回轆轤の前ではあらかじめイメージは持たずに、「どんな形が生まれて来るのやら?」と、まるで即興演奏を愉しむかのように、阿保になって臨んでいます。

花瓶-。
別に花を生けることを習慣化している訳でもありませんが、花瓶とは、「花を生けて美し、花を生けなくとも好し」かなと、それが花瓶の理想の姿であると勝手に思い込んでいる節があります。

しかし、伝統とは何だろう?

伝統を守るとは、伝統から守られる為でもあるよなと、話しを脱線させますが、伝統とは、命の通わない形式主義に陥る可能性を孕みつつも、美や人間存在の本質を見失わず、忘れない為の「要石」の役割りを担っています。

ただ、伝統への前のめりな、過剰なる依存心は、ややもすれば他の伝統の様式や意味内容との差異を強調し、葛藤や軋轢を生む要因にもなります。

伝統とは、たぶん、緩やかに付き合いつつ、その形にはあまり縛られず、その伝統を生んだ心たちの想いの方へとそっと近づいてみることが肝要で、その伝統が必要とした説明的、修辞的言語や形については看過し、ただただその伝統の内に在る「愛」に思いを馳せること、これが最も重要なことであるような気がします。

クルアーン(コーラン)の記述者やタナハ(ヘブライ語聖書)の記述者らの熱き信仰は、言葉を知らぬ、また差異や違いを必要としない、認識しない神の国に届くのか?
熱烈なイスラム教徒、ユダヤ教徒、そして仏教徒……、この世を超えた神仏に対する内なる想い、彼らの内部で弾けた絶対存在に対する「愛」それ自体は、どれも同じであり、そこに絶対的な違いはないはず。
 

 

2026/03/25

陶芸考① 〜お茶盌の魅力について〜



陶芸作品の味わい方には、以下4項目が挙げられます。

1.見た目(肉眼で知覚、判断可能なレベルでの外観)
2.使い勝手
3.手による触覚レベルでの「触り感」
4.佇まい(上述1〜3を通過したのち)

写真や絵画などは視覚のみによる鑑賞、そこから生まれる味わいがすべてですが、陶芸の面白さ、魅力とは、直に手で触れることが出来て、使うことにより初めて見出される美の内にあると思います。
つまり広義な意味で視覚芸術全般、たとえば写真や絵画、書、彫刻作品と比べ、より身体的な関わり合いを可能とする陶器は、日々の暮らしの内に濃厚な彩りを与えることとなります。
もちろん陶芸による創作、表現とは、「使うこと」が前提にありますので、その表現の幅、創作における自由度は抑制されます。しかしその抑止、規制が、陶芸家の意識にただならぬ配慮を促し、他の芸術作品の制作とはやや異なった想いを招き寄せ、不可思議な「無私」の波打ち際を鮮やかに示すことにも繋がってゆくのです。
 
美術館や博物館等で、ガラスケースの中にぽつんと置かれ、人の手が触れられない場所で、もう誰にも使われなくなった、鑑賞される為だけのお茶盌はどこか寂しげなものです。