2026/05/14

陶芸考⑩ ~Sake cup~



お猪口 sake cup
(銘)薫風

寿司職人の世界には「飯炊き3年、握り8年」という言葉があります。
陶芸の世界でも「菊練り3年、ろくろ10年」と。
これは、1人前の職人として自立するためには「これぐらいはかかるもんだよ」という、体験に裏打ちされた先人からの教えであり、伝統的な考え方です。

20歳の頃、僕はニューヨークにある日本食レストラン『初花』で1年間働いていましたが、当時の日本人旅行者の働き口といえば、日本食レストランのボーイかキッチンヘルパーぐらいしか見当たらなかったので、止む無く、僕はそこで”寿司職人の見習い”として働き始めました。
まず皿洗いから始まって、その合間合間に、包丁に慣れるためにひたすらキャベツの千切りをし、人差し指を切りまくり。(笑)
次にシャリ炊きと合わせの特訓。そしてベースメントで仕込みの手伝い。魚の鱗落としからエビの皮剥き。やがて毎朝入荷される大量の魚の3枚おろしを任され、済めば延々とツマ用の大根の桂剥き、そしてギョクの成形などなど。
日本の国会議事堂内の『初花』からトレードされた錚々たる職人らに囲まれて、「うわ~、職人の世界ってこんなハードなんだ!!」と、日々、ヒリヒリするような緊張感の中、寿司職人としての知識や技量をひとつひとつ学んでいった。
それで10ヶ月経った頃には、なんと「そろそろカウンターに上がれや」と命じられ、隅でひたすら巻き物と軍艦づくり。そして11ヶ月目にしてカウンターを任され、直接お客さん相手に握りを出すようになっていた。

「飯炊き3年、握り8年」

包丁を握ったこともない未経験者が急ピッチで技術を習得できたのは、たぶん当時の『初花』が連日連夜満席、超忙しかったからだろう。
凄まじく凝縮した時間と、必殺職人たちに囲まれていたからだと思う。もちろん僕も必死だったが……。

そして今にして、あの独特な職人の世界を垣間見、そこに身を置けたことは、少なからずその後の僕の創作に生かされているように感じる。
 

2026/05/07

陶芸考⑨ ~Chawan~


抹茶茶碗 Tea-bowl
(銘)融 竹洞

器づくりをする陶芸家が理想とする心の状態は、たぶん作陶する自分自身も空っぽの器として在ることだと思います

「何か」を注ぎ込むための器。
「何か」を招き寄せ、人が使うことを目的とする器。
 
意識の底層、そのすべての扉を開け放ち、樹々や植物らの呼吸を真似、この大地から浮動するVibesに感応すること。
ひとつの意思を立ち上げて、時間の外側へ。
重力の法則を歪ませ、時空を超えた「何か」へと身も心も預け切ること。
指先の眼は開き、深い眠りに落ちた心は、射し込む古の記憶たちの到来に備える。

「何か」とは?
それはあらゆる存在、生命の源泉であり、神の記憶だろう。

作陶ーー。
その手に眠る記憶のレイヤーを解きほぐし、無限の産声(音楽)に耳を澄まそうとする。
 

 


2026/04/29

陶芸考⑧ ~懐心~

花入 Flower vase
(銘)懐心

財布を持たない動物たち。
お金を知らない小鳥たち。
重そうなリックサックを背負った人々が、目前をのそのそ歩いていた。

退屈のあまりに、養老院を抜け出した親父は、お金や保険証の入ったポーチだけは忘れずに持っていた。
自然光から遠のいて、僕らは個人という観念を抱えて、一体どこを目指すのか?
この夢の世界の進入口を知りながらも、僕らはひたすら歩き続けるのだ。

「また今後ともどうぞよろしくお願いいたします」と、先の尖った靴を履いた製薬会社の営業マンが、白衣を着た精神科ドクターに挨拶をしていた。

心と、心が、すでに融合していることを取り戻す、思い出す為に自分の身体を使うのか?
もしくは心と心がひとつになることを望み、他の身体との接触、セッションを試みるのか?

存在の、"神在り"のベッドに横たわり、眠りに入ることを選んだヤンチャな子供たちが見る夢はいつも孤児の物語り。
人間が、ご先祖さまや血縁、身体からの物理的なデータに過ぎない血の繋がりにこだわる理由は、たぶんそんなところから来ている。自分自身が孤児だという密やかな想い、無意識界に投げ込んだ夢の信念(信仰?)が、この世界に居続ける為の条件、ひとり夢を見続ける為の約束事となった。

仏陀が、高弟から「悟りとは何か?」と問われ、一輪の野花を指差した。
 
 

 


 

2026/04/27

陶芸考⑦ ~石置き~

 

 
stone rest (prototype)
 (銘)紀元盤
 
近くの山や森に分け入り、または川縁あたりを散策し、そこで見かけた小石をウチに持ち帰り、時を見計らっては、居間の窓ガラスから差し込む自然光と黒バックという簡易なセットに置き、撮影をする。
こちらの気が静まっていれば、一個一個の石は徐々に語り始めて、暫し僕に特別な瞬間を与えてくれます。
 
また陶芸をはじめて、新たに石の存在が、その在り様が気になりだした。
石といっても、僕の興味の対象はあくまでもそこら辺にある小さな<石ころ>で、いわゆる銘石や鑑賞石、宝石の類ではありません。
 
写真機を使い石ころを撮影するとは、「見出す」という意識の運動を伴いますが、これは石に限らず、すべての外的対象、被写体への配慮として僕が選んだ写真家としての在り方、スタイルのひとつであり、今回、この陶器による「石置き」という発想がヒョイと浮かび、撮影することの叶わなかった石たちを「ただ観る」、見詰める台座を作陶したのは、まさに必然ではないかと感じる。
 
すべての石たちと交信・交流することが、写真家としての理想ですが、こちら意識のキャパシティを超えた知覚圏外にある石はなかなか思うようには撮れず、ならば「石置き」に置いた石と付き合い始める機会を己の生活空間に設けてみてはどうだろう?
 
いずれにせよ石という存在、被写体は非常に魅力的なもので、その美しさとは、宝石のような表層的な輝きを超えた内奥の、始原の美しさを秘めています。
 
そして石からの語りかけは、非言語的で、言葉で考えることに慣れ切った心や知性に底知れぬ震動を与え、忘れていた眩いばかりの情景やサウンドを喚起する力を内在しています。
 
だからこちらの視覚を頼りに訥々と、おごそかに迫ってゆく。やがて一瞬、あの繋がる瞬間は突如やって来ます。だぶんそれを<詩的体験>と呼ぶことができると思います。
 
表面的な色やカタチ、美しさに捉われることなく、その内側に潜む「美」に感応すること。それは自分自身の、人間の不変性、壮大さの在り処に気づく瞬間です。
 

 


2026/04/25

陶芸考⑥ ~箸枕~


龍の箸置き chopstick rest
 
銘:龍鱗(りょうりん)

*龍の鱗(うろこ)の意。
硬く身を守り、邪気を祓う厄除けや守護のシンボルとされる。
 

 

2026/04/22

陶芸考⑤ ~雑草を生ける~


 花入

(銘)花身一如

 

花瓶や花入れの役割りとは、花たちを美しく生けるための台座、小さな舞台を提供することですが、町の花屋ではついぞ見かけない草花、野草や雑草などは、人間の手や美意識によって作り出された<器>に生けてもらうことは滅多にありません。


野に咲く草花、人間の手を借りずに、四季折々、自由奔放に育つ雑草たちを生ける、生かすことの出来る花瓶や花入れは、果たして存在できるのでしょうか。

 
もし、そんな野草や雑草たちの台座、小舞台としての<器>を作陶することが可能ならば、それは陶芸にとっての新たな取り組みとなるかもしれません。
 
そしてもちろんその花瓶や花入れは、ガラスケースに収まった町の花屋の花たちをも、あの過保護なモデルたちさえも、艶やかに見せることができるのだと思います。

 


 

2026/04/09

陶芸考③ ~掌の眼差し~

京都在住の石井久弥子さんがそのInstagramで子供たちにお茶を振る舞う写真を載せていた。
彼女がお茶をたしなむことは知っていたが、本人がそれについてあまり積極的に話そうとしなかったので、こちらも根掘り葉掘り聞くことを遠慮していた。
ただ、ときおり彼女から送られてくる京都のお土産、品々はちょっとシロートの域を超えた美意識高い系チョイスで、これまでの人生航路で彼女が無理なく身につけてきたであろう審美眼を感じさせてくれた。
そして、そのInstagramの子供たちとの野点写真を見たときに、LINE上で、やや踏み混んだ質問をしていた。

石井久弥子は、どうも小学生の時分からお茶を習いに行っていたらしい。そして実家には魯山人のお皿などがフツーにあったそうな。
大田区の矢口西小学校グラウンドの鉄棒で、逆上がりをする女の子のクリーム色の毛糸のパンツを眺めては、密かときめいていた僕の幼年期とはえらい違いだ。
そして翌る日、ふと思い立ち、「あの子供たちの手のひらサイズに見合った小ぶりのお茶碗でも作ってみようかな」と。

アルカイックスマイルなお茶碗、微笑みかけるお茶碗、やたら人懐っこいお茶碗、それに触れた途端、優しさとか柔らかな気持ちが込み上げて来るような……。
通常の陶芸家では思い付かないアイデアと視座が、なぜか僕の内で瞬いた。

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陶器は、たぶん最終的にはその所有者、使い手によって仕上がってゆく、いい塩梅に変容してゆくのだろう。
特にお茶碗やぐい呑みなど、常日頃掌との関わりを持つ器は、その使い手にそっと近づき、寄り添い、そのヒトの手や生活、心の色に染め上げられることを美しとする。
なので作家性の強い、我の出っ張りすぎた、使い勝手があまり宜しくない陶器とは、たぶん陶器の本来の役割や意図から外れた、そもそも「陶芸」である必要のない、鑑賞用オブジェ、彫刻、またはそれに類した3次元の立体「作品」と位置付けられるかと。
ただし、花瓶や壺など、使い手の叡智を誘い、刺激する陶器もある。

陶芸家-。その指が、見ている夢。
その指が、夢を愛でている。
 
 

 


 

2026/03/28

陶芸考②

 

花入 

 (銘)岩窟の花器

 
この花器は、ニューヨークで生活していた頃に作陶されたものです。
20数年ぶりにまた作陶を始め、様々のフォルムを持った花器を現在制作中ですが、毎回毎回轆轤の前ではあらかじめイメージは持たずに、「どんな形が生まれて来るのやら?」と、まるで即興演奏を愉しむかのように、阿保になって臨んでいます。

花瓶-。
別に花を生けることを習慣化している訳でもありませんが、花瓶とは、「花を生けて美し、花を生けなくとも好し」かなと、それが花瓶の理想の姿であると勝手に思い込んでいる節があります。

しかし、伝統とは何だろう?

伝統を守るとは、伝統から守られる為でもあるよなと、話しを脱線させますが、伝統とは、命の通わない形式主義に陥る可能性を孕みつつも、美や人間存在の本質を見失わず、忘れない為の「要石」の役割りを担っています。

ただ、伝統への前のめりな、過剰なる依存心は、ややもすれば他の伝統の様式や意味内容との差異を強調し、葛藤や軋轢を生む要因にもなります。

伝統とは、たぶん、緩やかに付き合いつつ、その形にはあまり縛られず、その伝統を生んだ心たちの想いの方へとそっと近づいてみることが肝要で、その伝統が必要とした説明的、修辞的言語や形については看過し、ただただその伝統の内に在る「愛」に思いを馳せること、これが最も重要なことであるような気がします。

クルアーン(コーラン)の記述者やタナハ(ヘブライ語聖書)の記述者らの熱き信仰は、言葉を知らぬ、また差異や違いを必要としない、認識しない神の国に届くのか?
熱烈なイスラム教徒、ユダヤ教徒、そして仏教徒……、この世を超えた神仏に対する内なる想い、彼らの内部で弾けた絶対存在に対する「愛」それ自体は、どれも同じであり、そこに絶対的な違いはないはず。
 

 

2026/03/25

陶芸考① 〜お茶盌の魅力について〜



陶芸作品の味わい方には、以下4項目が挙げられます。

1.見た目(肉眼で知覚、判断可能なレベルでの外観)
2.使い勝手
3.手による触覚レベルでの「触り感」
4.佇まい(上述1〜3を通過したのち)

写真や絵画などは視覚のみによる鑑賞、そこから生まれる味わいがすべてですが、陶芸の面白さ、魅力とは、直に手で触れることが出来て、使うことにより初めて見出される美の内にあると思います。
つまり広義な意味で視覚芸術全般、たとえば写真や絵画、書、彫刻作品と比べ、より身体的な関わり合いを可能とする陶器は、日々の暮らしの内に濃厚な彩りを与えることとなります。
もちろん陶芸による創作、表現とは、「使うこと」が前提にありますので、その表現の幅、創作における自由度は抑制されます。しかしその抑止、規制が、陶芸家の意識にただならぬ配慮を促し、他の芸術作品の制作とはやや異なった想いを招き寄せ、不可思議な「無私」の波打ち際を鮮やかに示すことにも繋がってゆくのです。
 
美術館や博物館等で、ガラスケースの中にぽつんと置かれ、人の手が触れられない場所で、もう誰にも使われなくなった、鑑賞される為だけのお茶盌はどこか寂しげなものです。