リウカカント - 風の旅人 traveler in the wind
リウカカント - 頂にて on the top
先週の日曜日、我が家に蜂須賀公之がやって来た。
彼のことだから、また料理を作るのだろうと予感し、最近、中村明博の紹介で知り合いとなったフラワーコーディネーターの美之さん、野草に興味があると聞いていたので、ぐぐっと誘ってみた。
が、彼女はその日、かなり体調が良くなく、「せっかく誘ってもらったのに、、、ごめんなさい」と、電話口で丁寧に断ってきた。
「これは縁が無かったのだな」と、僕は蜂須賀公之からの電話だけをぶらぶらしながら待っていた。
彼がウチに遊びに来るのは、1年ぶりとなる。その時の模様は、勝手に動画にした。
1年に1度しか会わない、会えない男。いいねえ、そんな関係も。お互い、もう十分知り尽くしているからね、このぐらいの距離とスペースが、ふふふ、美しいのだ。
突然、電話が鳴った。
なぜか、美之さんからだった。
「どうしたの?」
「いま、高尾に居ます」
「って、あれ?カラダは大丈夫なの?」
「この機会逃したら、次は無いかなと思って」
彼女は2時間近くかけ、ウラ高尾にやって来ていた。
思い切りのいい人、度胸のある人って好きだな。
それは、多分に自分の小ささを、きちんと受け止めているから、知っているからだ。
ここだけは逃げちゃいけない、ここは無理しなきゃ、という野生的な、根源的でモダンなセンサーが働いている人、そうあろうと努めている人って、素敵だね。
自分の弱さをしかと受け止め、認めた人にしか、何かを表現する資格はない、いや、作家には成れないと思うんだな。
別にモノを表現する側などに立たなくても良いし、表現者が偉いわけでもなんでも無いが・・・。
みーんな、小さいのだし、弱っちい。だから、美しさを、この目で見たいし、顕わにしたいんよ~。
The image of the poet's in the breeze
Canadian geese are flying above the trees
A mist is hanging gently on the lake
Our house is very beautiful at night
by Lou Reed
彼、中村明博の額装デイレクションについて、僕自身がもっとも感銘するところは、作品に対する、彼のその「接し方」にあります。もちろん、この接し方は、作品に対する彼の理解および解釈といものがベースに生まれるものですが、これは作品それ自体への真摯なまなざし、精緻な審美眼というものが無ければ、かなり乱暴で無作法なものとなります。が、彼の額装デイレクションに触れるたび、彼の作品への、絵画や版画、写真への読み、味わい方などを、「この男は一体どこで、どうやって身に付けたのだろう?」という、不可思議な気分に落としてくれます。この世に存在しないだろう濃密で深い湖のブルーの源まで連れていかれるような、華やかで清清しい感情をいつも僕の内に残してくれます。
ある時、彼に「あなたが思う究極の額装とはなんだろう?」と尋ねたことがあります。
「作品を囲うという行為において、実は、究極的に言ってしまえば、紐でもテープでもいいんですよね」と微笑みながら応えてくれた。
ここに、今回アップされた動画には描ききれなかった、彼の額装に対する思想の核心があります。
つまり、作品という「イノチの現場を囲う」ための結界としての役割、機能を立ち上げようとする額縁・・・。
西洋美術史上で生み落とされた額縁、額装というジャンル、これを、東洋の滋賀県の琵琶湖近くで生まれ落ちたある男が、その際際、あの普遍的な処まで「額装それ自体」を、追いつめようとしているのです。