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2026/01/05

~無垢の在り処~

 

あるラジオ番組で、アメリカ在住の映画評論家の町山智浩さんが「アメリカの大手配給会社はもう(興行的に回収の見込める)アニメとホラー映画にしかお金を出さなくなった」と、イーストウッドの映画『陪審員2番』について触れ、アメリカの映画配給の現状について話していた。

映画館の密閉空間が苦手で、レンタルビデオや、今ではもっぱら配信でしか映画を観ようとしない僕がこう言うのも僭越ですが、アニメやホラー映画はどうにも好きになれないジャンル。日本を代表する文芸および映画批評家の蓮實重彦氏は「アニメーションは映画ではない」と断言してますが、僕も何となくそう思います。

ちなみにホラー映画とは、観客を怖がらせることを意図して、演出、撮影、作り出されたものですが、写真家はと言えば、撮影する際には鑑賞者について「どう反応するのか?」などと意識しません。そこが、たぶん広告カメラマンや映画撮影のキャメラマンと写真家の立ち位置、視座の決定的な違いでしょう。

写真家は、対象である被写体に何かしらの「美しさ」を感じないない限りシャッターを押さない、押せない。
誰からもアングルの指示は受けませんし、被写体との刹那の「出会い」にすべてを賭けます。だからフレーミングの気遣いとは、あくまでも写真家が現象世界の内で感じた美しさ、そのシーン、瞬間を明確にするために育成された技術のひとつに過ぎません。

写真家は、何をどう見せるかより、何がどう「見えたのか?」を重要視します。もしくは、その対象、現象の背後に眼差しを向けようとするのです。

カメラという現象世界を映し出す機能を備えた道具によりフィルムやCMOSセンサーに定着される世界観が、映画と写真ではその目指すべき、思いを向けるポイントや位相がかなり違うのです。

不遜に聞こえるかもしれませんが、写真家の写真とは、それを見る側の内的な視覚を目覚めさせることを目的とします。知覚の向こう側、僕たちの身体上の視覚から心眼へと赴こうとするのです。

とても逆説的なアプローチですが、視覚を通じて視覚のその先、「心眼」の領域へ。
ただこれは特殊なことではなく、視覚芸術全般に内在している理念です。

知覚により条件反射的に起こる知的レベルの解釈や判断を停止し、静けさの無白の内へ。心眼とは「沈黙」の中でのみ開花します。

映画表現は、見る側を経過する時間の中へ誘い込み、物理的(映画的)時間と付き合うことを要求します。また目を閉じることは許されず、ある種洗脳性の高い教育的効果を及ぼすので、この現象世界を超えゆくような「瞬間」や視座については抑制的に働きます。

では、なぜ芸術作品は物理的空間、過去現在未来と続く時間の法則からの超脱を目論むのか?
これは仏陀が説いた「生老病死」、肉体という物質が従わざるを得ない運命に対し、"眼に見えない心"が追従する必要がないからです。
つまり身体に備わった視覚から心眼への移行とは、この世界が描く限定的もしくは表層的、偶発的な形態の諸相、差異から、心が自由になることを意味します。もしくは「無限性を想起する」瞬間を与えようとします。

知覚による判断は知性によってなされますが、感情が抱く快不快と同様に、個々の身体による経験値に基づいた記憶、過去に頼っています。ただしその判断基準とは、実は身体に付与された機能と"同一化"した心が抱く恐れが原因なのです。

「恐れ」が、この世界の人間の営みの動機であり、その心を攪乱し続けています。

視覚から心眼への移行とは、時空間の法則により強要され、束縛されていた心が、あらゆる恐れから解放された本然の状態に戻る(目覚める)ことに繋がります。

覚者は、この世界を一体どんな風に見ているのか?
そして有限である写真は鑑賞者に無限を想起する機会を与えることが出来るだろうか?
 
 

 

2026/01/03

~眼差し、写真のポテンシャル~

 

日々の暮らし、身の回りの生活圏内での撮影から生まれた写真と、遠出、見知らぬ土地に行き、撮影された写真とでは、少なからず写真に浸透する撮影者の息遣いや気配、心のトーンは異なるものです。

本格的に撮影を始めた20代の頃は、自分の日常の生活圏外へと、ひたすら歩き回り、特に何かを撮りたいという被写体への拘りも捨てて、まるで獲物を求める狩人のような心理状態、いきなり飛び込んで来る光景に瞬時に反応し、撮影する。
右手にカメラ・ストラップを巻きつけ、絶えずニコンF3を握りしめ歩き回ることが、僕の初期の撮影スタイルでしたが、それはストリートフォトグラファー、もしくはフィールドカメラマンの基本姿勢、構えでありました。

ひたすら歩き続けること。

やがてある時、その撮影スタイルに疑問を抱くようになりました。
いや、撮影の為に様々な場所を歩き続けていた頃から、微かな疑問はありましたが、その疑問だけは見ないようにしていました。それは、僕が「素敵な写真だなぁ」と影響を受けた写真家は皆、「とにかく歩き続けること」このスタイルを重視していたからです。

スイス生まれのロバート・フランクは異国であるアメリカ中を旅し、異邦人の眼として『ジ・アメリカンズ』という革新的な写真集を発表しました。後、彼は撮影することから徐々に離れてゆきましたが、やがてカナダのノヴァ・スコシア州にあるマブーに居を構え、まるで隠者のような暮らしを選びました。

藤原新也は20代30代とインドや東南アジアを放浪し、『全東洋街道』という圧倒的な写真集をものにしています。

森山大道はひたすら町を徘徊し、町が放つ生々しい劇場性に魅せられ、寺山修司のテキストで『にっぽん劇場写真帖 』で鮮烈なデビューを果たします。そして『写真よさようなら』以後はしばらく迷走するも、『Daido hysteric』シリーズによって見事に甦り、終生ストリートフォトグラファーであることを貫き通します。

僕が撮影の為に歩き回っていた最中に抱いた疑問とは、なぜ、自分の生活圏の外へ出向き、自分の暮らしとは全く関係のない、見慣れない、他所の風景と関わるのか?
果たして、関われるのだろうか。
それはあまりにも無責任で、「撮り逃げ」ではないのかと。

そしてある日、当時僕は阿佐ヶ谷に住んでいましたが、近所の空き地、ビルの取り壊され雑草地帯と化した空き地と出会し、驚愕し、その場所に通い詰めることが日課となりました。天候や日時、自分の心の状態によってその草むら(被写体)の見え方が、感じ方があまりにも変化することに気づいたからです。

見慣れていたはずの光景が、突如見知らぬ表情を浮かべ、その本質を現す……。
この一瞬こそが「観る」ことだと。そしてその変化の源、背後には移り変わることを知らない圧倒的な「ヒカリ」の存在が、僕という存在を貫き、この世界の真の所在を明らかにしている。"それ"を、フィルムに定着させること。これは歩き回る撮影スタイルでは得難い「視覚」であると気づかされたわけです。

自分の生活圏内の見慣れた光景に対して日々新しく出会うこと、臨むこと、「観る」こと。それは被写体に対して責任を取ることであり、共に生きることです。また自分の深部に迫ることであり、自分の日々の生活を慈しむことへと繋がってゆきます。この撮影スタイルは「親和性による越境」と呼べるかも知れませんが、僕という個性にとってはとてもしっくり来るものでした。

昨年上梓した写真集『廻向』の1章目の撮影場所は八王子全域ですが、僕の生活圏からやや離れた土地でありながら、自分に与えられた現場、仕事場所という僕の生活には生々しく抵触していました。
2章目は岩手県陸前高田という僕の日々の暮らしとは全く関係のない、出版社から依頼された、指定された場所です。そして最後の3章目、自宅から歩いて4、5分足らずの今の職場、まさに僕の生活圏内の中心に当たる(歩き回ることが禁じられた)場所での撮影。

この3つの章で、写真家の視覚、その強度や深度が最も試される場所は3章目ですが、「試される(厳密に言ったら自分で自分を試しているのですが)」ということは、自分の内に眠っている物理的な知覚を超えた何かが「引き出される」ことでもあります。
旅における撮影は、どうしても表層上の対象物の変転、被写体の彩りの方へと視覚が惹きつけられて、物理的な現象の背後へのフォーカシングは困難なものとなります。

写真家ロバート・フランクが『ジ・アメリカンズ』でたどり着いた場所は、無常性、無常感でした。そしてその写真集の中で、ときおり子供へと彼の視線が向いた理由は、たぶん彼にとって子供たちこそが自由と希望の象徴であり、旅の疲れを癒す存在であり、また無常性を切り裂く救いのイコンだったのではないか、そんな風に思います。

写真家は、この世界の諸相に促され、包み込まれ、いったい何を見ようとしているのか。何を見たのか?
通常の視覚によって見出された、栄枯盛衰、千変万化するだけのこの現象世界に、どんな意味があるというのか。
永遠に存在するものとは?
視覚や意味の向こう側には、どんな世界が広がっているのか
 

 

2025/12/29

~融究に存つ~

 

1なる神の園では、信念を持つ必要はなった。無限と自由、愛だけが在った。

 神の外で、無数の信念が作り出された。


「愛されたい」という想いは、認証願望でもありますが、当然のごとく「自分は愛されていない」という自己評価および自己否認が前提になっています。
ただ、「自分は愛されていない」とは、一体誰が判断出来るのでしょうか?

自分という存在が、他者から愛されているか?もしくは、愛されていないか?この判断は、厳密には確証に至れません。なぜなら自分以外の他人の心の動きは、想像することしか出来ませんし、人間の感情は絶えず動き回り、時の経過と共に変化するからです。

つまり自分が「愛されていない」と判断できるのは自分だけで、その判断、思いが、「愛されたい」という願望の源です。

まず最初に「自己否定」があるのです。

自分自身を愛せない者は、他者からの愛を求めますが、他者も、自分を愛せないゆえに誰かからの愛を求めます。

自己否定から始まる他者からの愛の希求は、いっ時の喜びの瞬間や期間はあっても、永遠に満たされるわけにはいきません。なぜなら、自己の否定は、世界に原因があるのではなく、自分自身による決断だからです。

「自分は愛されるに値しない存在である」

自己愛という言葉がありますが、自分を他者との関係性を排除した上で全的に自分自身を愛することは不可能です。なぜなら、愛とは「関係性」の賜物だからです。

「自分は愛されるに値しない存在である」という思いが、あらゆる人間存在の意識の根底にあります。
自己否定とは、劣等意識であり、自己嫌悪、罪責感とも言い換えることができますし、いわゆる選民思想や優越感などは、その裏面には必ず自己否定やこれに類する自己判断、自己判定が動いているのです。

これは何故か?

自分と他者との関係とは、横に広がろうとする関係性ですが、縦軸の関係もあります。これは天もしくは神と繋がろうとする関係性です。

他者を愛する。
何の見返りを期待せず、愛する。
相手からは何も求めずに、特定の個人のみに向かうのではなく、自分が知覚したすべての存在を愛する。
無償の愛と呼ぶのでしょうか?
もし意識を絶えずそこに向けようと努めるなら、自分の内側にあるその荒唐無稽な脈打つ愛が、無限への想起と繋がり、意識の根底にある執拗なる自己否定、「自分は愛されるに値しない存在である」を溶解させることでしょう。

自己否定とは、ある種の「裁き」です。では、誰が自分を裁くことが出来るのでしょうか?(もちろんこの視座は外的な法的世界でのことではなく、あくまでも心的次元のことです。)

裁かれる者と裁く者が同一人物であることは本来その関係構造上、不可能なことですが、この自己矛盾を回避する為に、僕たちは「空想上の神」を捻出しました。そして裁く者の役割りをその空想上の神に与え、自己ジャッジという機能を作り出しました。しかし「裁く神」とは、神という言葉が示す定義上、裁く働きを持っている存在は決して「神」とは呼べませんので、裁く神とは意識が作り上げた「概念」にすぎません。

では、創作された神イメージ、「裁く神」つまり「裁く自分」と「裁かれる自分」という自己矛盾、誤認識を、なぜ必要とするか?

自己否定のカラクリを明視しようとする試みは、人間存在の心の盲点を修復する行為となります。

自己を否定するという心の動き、その根源的な原因を明るみにし、言葉によって説明することはかなり厄介なことですが、無謀にも結論だけ述べてしまえば、「自己否定」という衝動は、この世界や社会との、個別意識における遭遇や関わり合いによって生じたことではなく、この世界に産まれることを選んだ者たちの「信念」なのです。

その信念を持たない人間はそもそもこの時空間によって構成された世界には産まれません。

自己否定を知らない心、魂は、たぶんこの世界に生まれる必要がないからです。つまり、自己否定の由来、その理由とは、全体性、神(超越的存在)の否定ではないのかと、推察できます。

繰り返しますが、自分の心、存在性を否定、裁くことが出来るのは、自分以外にはありません。

僕たちはこの世界の、仏陀が説いた輪廻転生という夢の中の流離人であり、「確かにここに自分は存在している」という自己実感の条件として、ひたすら自己否定を続けることを選んだのかも知れません。
 
 
 

2025/12/25

〜愛について〜


 

「愛とは何か?」
 
この問いの回りには、愛の感情を誘発した相手の姿形を看過し、自分の内に湧き起こる「愛それ自体」への観察、そしてその考察へ向かおうとする意思を禁じる何かがあります。
 
愛とは、相手(対象)によって触発された感情なので、具体的な行為による経験にこそ価値があり、そもそも「愛それ自体」を考察の対象にすることは観念上の遊戯であると。
 
愛の対象、彼または彼女のイメージ、外的な形象やそこから生まれる知覚内容などから離れ、自分の内に芽生えた、「愛そのもの」を観照しようとすることの意図とは何だろう?
たとえば、人間が抱く憎しみについて省察してみてはどうか?
これは考えるまでもなく、憎しみとは愛の不在に過ぎないので、人間の業や狂気、愚かさなどを描く文学や映画の表現世界にあたれば良いです。

闇が光の不在であるように、愛と光は近似的な関係、働きを持つので、愛について考えることはそのまま光の原理、その本質を思考することへと繋がってゆきます。
自分の内側で沸き起こった「愛それ自体」の考察または観照は、ある壮大な世界への扉を開くことになりますが、やがて心は自らの出自(アイデンティティ)を想起することになります。

数年前から、長期に渡った体調不良を契機に、僕は柄にもなく愛について考えるようになりました。
それ以前は、外的な対象(相手)との出会いをきっかけにして、自然発生的に湧き起こった感情や思いを、この知覚の舞台で直接的に身体表現することだけが実りある行為だと思っていました。
知性による「愛それ自体」を考察の対象にするのはいかがなもの?
自分の内側を観察して、愛を誘発した相手の姿形を手掛かりに、愛の感情認識だけの世界に入って行くことは単なる自己満足、妄想?それは相手(対象)を無視した「愛」に対する冒涜ではないのか?と、まぁ、皆さんもそうだと思いますが、漠然とそんな風に考えていました。

愛について考えること、考え続けることは、否が応でも「神(超越的存在)」について考えることへと移行します。
なぜなら、愛の感情の発源地はそこに在るからです。
つまり、愛とは、自然発生的にこの世界が獲得した概念、アイデアではなく、神からの「贈り物」として、僕たちの心の中に置かれたのではないのか?

ちなみに僕は、この地上に現存する組織的、形式的宗教にはまったく興味がありません。
通常、そのような輩は無神論者と呼ばれていますが、無神論者とは、安易な信仰を解せぬ実証主義、現実主義者です。ただ、神について考えることを不毛であると思考(観照)停止するなら、愛の本質への貫入は断念せざるを得ませんし、これによって得られる人間存在への飛躍的な視座を手にする機会を放棄することでもあります。

なぜなら、様々な宗教が提示し、イメージ化している神や仏ではなく、「抽象としての(1としての)神」を措定し、これを軸に思考を展開することは、未整然の知覚内容がパズルのように整いはじめ、自意識の巧妙さや出鱈目さをクールに外から観察できるようになるからです。
この世界創造の原因とその目的、意識誕生の意味について、そしてまた決して移り変わることのない愛の出自、由来についての理解に迫ることが出来るのです。

たぶん、『君たちはどう生きるか』と問うことには意味がなく、この現象世界と人間の本質を一望できる可能性を秘めた、愛についての考察と観照とは、実にスリリングな内的な冒険となるでしょう。

この世界は、時間と空間に限定された形態への一時的な愛の「影」に満ち溢れています。
身体上の五感によって知覚認知される、時の経過と共に過ぎ去ってゆく愛と喜び、楽しみの向こう側には、広大無辺な実相世界が広がっています。
それぞれの知覚と思考を踏み台にして、この見慣れた世界から飛び立つことは、いつでも、そして誰にでも可能なことなのです。

(未推敲)
 
 

2025/08/07

写真家の新たなる挑戦 / A new challenge for photographers

 写真は、僕たちの眼前に、現れては消え現れては消えを繰り返す現象世界のある一面を切り取ることを得意とするメディアですが、ただ移り変わるだけの現象世界の彼方、背後には、通常の五感の働きでは知覚し得ない普遍的な事象、ヴィジョンが隠れ潜んでもいることをも予感させることが出来ます

現象を通じて、これを踏み台にし、視覚の可能性を押し開いてゆくことへの意欲や意志を持つこと、これが「見る」から「観る」への移行となり、これまで写真家や鑑賞者が見過ごしてきた新たなる視覚の開示へと繋がってゆきます。
 
この「観る」については、以前このブログやFacebookでも取り上げましたが、宮本武蔵の「観の目つよく、見の目よわく」、これは身体上の目を使って見ることだけに頼らず、心の目で観ようとする、心眼を磨くことの大事さを伝えています。肉眼による知覚はすべて形態上の差異に依存せざるを得ませんが、心の次元には色や形はありませんので、そこで捕まえることの出来る世界とは、肉眼による知覚世界とは全く異なる新しい世界、様相を呈しているはずです。心眼による目付け、この眼差しで「観る」ことは、前世紀には叶わなかった写真家にとっての新たな挑戦であり、撮影行為の新しい試み、冒険となります。
 
なぜなら、世界はすでに撮り尽くされ、似たような現象、表層的な、網膜上の差異のバリエーションを、写真家は繰り返し撮影しているだけだからです。
そして現代では、動画による表現が主流となり、特にジャーナリズムの世界では写真に期待された役割りは後退しました。
 しかし動画は、撮影者および鑑賞者の「観の目」の開花については抑圧的に働きます。
なぜなら、ある瞬間だけを切り取る写真は、撮影者の意識次第では、現象世界を別の見方で見ることを促す、「観の目」の誘いとしての形而上の機能を秘めたメディアへと変容を遂げることが可能だからです。

作品の内に、それを鑑賞する側が「内観」へと向かう為の配慮、スペースを作り出すこと。意図的に作り出すことは出来ませんが、そこに向けて絶えず心や視を意識的に開き、磨いてゆくこと。
AIによる合成写真が興隆すればするほど、この「内観」へと誘う、「心眼」による写真作品の重要度は増すことでしょう。なぜなら、表層上のアレンジや編成しか知らないAIには五感を超えた世界は迫り切れず、AIとは、五感の向こう側の世界を知覚しようとする意欲や機能とは無縁な、心を持たない否芸術的な道具だからです。

美(芸術)とは、この世のものではないのです。
 
 
 

2025/08/03

写真集について / About the photo book

 

写真家の写真集とは、実際、被写体としてそこに何が撮られていても、厳密に言って、この世界には2種類の写真集しかありません。

それは「(まだ)この世界にしがみついています」というタイプの写真集と、「(もう)この世界から解放されます」という眼差しを持った写真集、このどちらかだけです。
ほとんどの写真集は前者ですが、それは撮影という行為が、対象を必要とし、良くも悪くもこの世界の事物や現象に魅了され、はじめて成立するからです。
 
「この世界とは何か?」
「この世界は本当に実在するのか?」という問いが、なぜか自分の内側で湧き起こり、後者のメッセージへと突き進もうとする写真家、写真集は今のところまだ顕著に現れてはいません。これは写真の世界のみならず、映画や小説というジャンルでも「この世界へのこだわり」を、様々な物語り、ドラマ、仮想の設定を舞台に、そこに無数の人間模様、現象学的記憶や世界の不条理、葛藤劇、狂気を抉り出し、この閉じた世界内での「やりくり、やり取り」への嗜好に囚われ続けているからです。
ただし、音楽や絵画、論考などの表現世界では、「この世界から飛翔することによってはじめて見出される世界」について、作者の意識が向けられた作品は少なからず存在しています。例えば、ヨハン・セバスティアン・バッハの音楽作品、モネの睡蓮画、円空の木彫作品、リチャード・バックの『イリュージョン』、ニサルガダッタ・マハラジの講話録などは明らかに後者に属します。
 
芸術のジャンルを問わずに、作品とは作者の思考内容や知覚内容が反映された表現世界なので、僕が近々発表する写真集『A Garden of Inspiration (インスピレーションの庭)』は後者であり、昨年上梓した『廻向』や『奇蹟』も同様に、この世界の背後、存在の本質へと踏み込もうとする僕の世界観が色濃く入り込んでいますし、またそうあることを望みます。
出来れば、僕が撮影した写真や、音楽作品でも、僕のそんな想いを念頭に置き、皆さんに触れていただければ光栄です。 

芸術とは、この有限の世界で不滅なるものを指し示す美しい道標なのです。
 
 
 

2025/03/31

goblet~reprise リーラとビッグバン


 

「わたしたちはここで学んでいることを通じて、つぎの新しい世界を選びとるのだ。もしここで何も学びとれなかったら、次の世界もまたここと同じことになる。」

(『かもめのジョナサン』リチャード・バック)


ヒンドゥー教では、この現象世界、宇宙の営みを「リーラ(lila)」と呼んでいます。その意は、この宇宙や世界で起こることのすべてが「神の戯れ」であり、宇宙が始まった理由も神のほんのお遊び……? これ、かなり大胆な考え方ですね。

ちなみに宇宙の始まりについて、1948年に物理学者のジョージ・ガモフがビックバン理論を提唱しましたが、それ以前は「宇宙は不変であり定常的に存在していた」という考え方が天文学者の間では支配的であったようです。ただし「天地創造とは神によって成された」と漠然と考えていた人間が(たぶん)ほとんどで、それは聖書や世界中の神話などからも窺い知れます。

このビックバン理論以降は、この宇宙の始まりは神ではなく大爆発(ビックバン)によるものという推論が一般常識となりました。「およそ137億年前に何もないところからとても小さな宇宙の種が生まれました……同時に、急激に膨張(インフレーション)が始まり……」これも十分お伽話みたいですが。

「リーラ」について、もし完全無欠、絶対、無限であり常住不断を象徴する「神」が、破壊と創造の悪循環、時間と空間の法則を、男と女、生と死などの二項対立の世界を作り出した理由は甚だ不明。それはビックバンという一大イベントと同様に、明確な目的や意図を見出せませんよね。

「御心のご意志は人知を超えているのだ」と思考停止することは実に簡単なことですし、では人間がこの世界でじたばたと生き死にを繰り返すことの無意味さを神は良しとしているのか?絶対的な愛の存在である神が!

やはり現代物理学の達成であるビックバン理論やインフレーション理論こそが真実なのか?しかしこの推論では、人間は偶然宇宙に生まれた非力な奴隷に過ぎず、神とは、所詮人間が考えついたアイデアってことになります。

話を戻し、ヒンドゥー教の「リーラ」神の戯れという視座について勝手な補足ーー。この宇宙の営みとは、神そのもの、神本体の戯れではなく、完全無欠、全知全能の神にとって時間や空間、物理的な五感の世界、宇宙規模の遊びなど無用なので、強いて諧謔的に表現すれば「眠りに落ちた神仏の子の戯れ」と言い変えた方が、神仏への定義づけを損なうことなくなんとなく合点がゆきます。

神(真理)本体から分離、独立したいと言う考えがなぜか神仏の子に生まれ(これが欲望の起源かも知れない)、その誤った衝動により"意識"が誕生し、と同時に、意識(自)は自らを確認するために対象(他)を必要とするので、この物理的な大宇宙という対象物を「夢を見る」という方法により創作、想像した、と。

この推論は、釈迦の言葉、彼は唯一神の存在を認めませんでしたが、「この世はマーヤ(幻想)である」の裏づけにもなるし、かなり信憑性は高いような気がします。

繰り返します。神が眠ったり夢を見たり欲望を抱くことはその定義上不可能なので、神から分離することを目論んだ神仏の子が、眠りによって神から離れた自分だけの夢のフィールドで創造主に成りすます。


この宇宙とは、神仏の子である〈意識〉が夢を見続けるための舞台であり、それが目的なので、いわばゴールのない虚無(無明)の彷徨いです。

宇宙物理学者が想定するビッグクランチや熱的死などの宇宙の終焉とは、意識の終焉とも言えますが、夢を見続けようとする意識がやがて夢から目覚める、これも宇宙(幻想)の消滅、なので目覚めようとする意欲と目的を持つ以外、この世界での営みは(夢なので)ほとんど無価値であり無意味かも知れません。

そして目覚めが、たまたま(?)個人の意識上で起こった際に(もちろん意識から分割された個人の意識でしか起こりようがありませんが)、覚者と呼ばれる存在がこの夢の世界に現れます。そした彼らは彼らが生きるその時代、適宜に応じた表現と言葉により真理を伝えようとするのでしょう。


「神がエゴを創造し、またあるときは、エゴの消滅を徐々におこなっていくのも神、というわけです」

これはマハラジの元で学んだラメッシ・バルセカールの言葉ですが、神がエゴを創造したいう発言は、もし神が完全であるなら、完全なものは完全なものしか創造出来ませんので、この物理的な宇宙を必要とした意識、夢見るエゴを作り出すはずはありません。たぶん彼の神という言葉は、古今東西の神話等に登場する神のイメージが紛れ込んでいると思います。身体がエゴの住処であり、意識がエゴの母体となるので、マハラジは「意識以前が真実である。それ以外は存在しない」と、エゴや意識を一掃した場所を指し示そうとしました。


ある人がバスターミーの家の扉をノックする。『誰にご用?』

『バスターミーにお目にかかりたいのですが』

その人にバスターミーは言う。

『お引きとり下さい。お気の毒だが、この家には神だけしかいない』

(『イスラーム思想史』井筒俊彦)

 

goblet~reprise(2020年作) 



 

2025/03/28

letter from farther あなただよ

 


信念ーー。

自分が、何を信じているのか、何を信じようとしているのかを明らかにすることの重要さ、大切さとは、自分の信念が自分の知覚するものや思考内容を方向づけ、それに基づいて自分が自分の世界を作り出し、自分が信じる通りの世界を見、満足または不満を抱き、心はそこに定着され、自分の信念が創作した世界への新しい眼差し、もしくはその世界からの跳躍を困難なものとするからです。


日本最古の書物とされる『古事記』の天岩戸伝説と呼ばれている物語りには、太陽の女神である天照大御神が、自分の弟である須佐男命の度を越した悪戯に呆れ果て、天岩屋戸という洞窟に閉じ籠もってしまったというエピソードがあります。太陽を失った世界は真っ暗闇となり、秩序は乱れ、様々な厄介事が起こり、これを案じた八百万の神々が慌ててニート化した天照大御神をなんとか外に連れ出そうと策を練り、無事成功したよ、世界はめでたく光を取り戻したよと続くのですが、僕は詳細には『古事記』を読み込んでいないのでかなり心許ないですが、この天岩戸伝説と呼ばれているストーリーを、神道を信仰している方々がどのような解釈をなされているのか?また信じていらっしゃるのかは分かりませんが、世界には無数の言い伝え、迷信、神話があり、旧約聖書、インド神話、北欧神話、ゲルマン神話、等々、その内容は、もちろん読み方によっては示唆に富んでいると思いますが、まず共通して言えることは、どれも冗談みたいなシュールさで、嫉妬や復讐、殺戮と凶暴性が渦巻く世界が豪胆に描かれておりまして、読み手に「神とは恐ろしい存在である」と印象づけます。

神話は、この世界で暮らす人間たちの心に、良きにつけ悪しきにつけ多大な影響力を持ち、たとえば日本全国各地に五万とある神社では、この『古事記』に登場する神々が今なお堂々と奉られ、参拝者はそれぞれの思いや願いを込め「ニ拝ニ拍手一拝」という作法により手を合わせます。

一神教と多神教、『古事記』には沢山の神さまが意味深な名前で登場しますが、基本的に神は名前を必要としませんから、複数の神を登場させることは、1、2、3……という数字を予感させ、これは時間と空間の舞台であるこの現象世界内でのみ有効な概念なので、そもそも自他が融和した神の世界に数えるとい行為は起こるはずありません。もし起こるとするなら、1、1、1……

さらに、壮大な神話世界を構成するために様々のキャラの異なる神々を登場させる必要はあったのでしょうが、他の神々の行いに悩み、悲しみ、怒るというこの一連の感情の動きはあまりにも人間的で、誰かとの関係が上手くいかずに不貞腐れて引き篭もる神とは、真実の神の似姿ではなく、人間によってイメージされた神であり、天地創造とは創作された神によるものではないのか?と、大きな疑問を残します。


神話とは何か?

その書物、物語りを通じてこの世を超えた事象、世界への理解と人間を導こうとするのではなく、荒唐無稽さや奇抜さ、「神は恐ろし!」の印象を与える物語りとは、ややもすると世界や人間の本質、宇宙の秘密への接近、存在への理解、洞察、直知の妨げになります。

さしずめ小説とは、往々にして誰かの頭の中の三面記事の連なりですが、世界中に数多の神話が存在し、少なからず人間の心がその影響を被る意味とは何なんでしょうか?

『古事記』に触れ、この世界の諸相を何の先入観も持たずつぶさに眺めれば、実はこの世界そのものがまだ神話の延長としてあるようにも感じます。人々の心は神との直の交流を断たれ、「神は恐ろし、敬して遠ざけるべし」と、怯える子羊のように神をなだめるための供犠、祈祷、祭典を考案し、それに権威と威厳を持たせ、有無を言わせぬ盲信を強要し、あくまでも神をこの世でもっとも恐ろしい存在、対象物として扱ってきましたが、こういった大仰で、形式的、公共的で組織的な形態の数々を、非知覚的である神は望むのでしょうか?

僕たちは今なお微睡んだ神話的な夢の営みに翻弄され続けているのかも知れません。


ある村の、神主不在の荒れ果てた小さな神社の掃除を始めた夫婦がいます。この方たちとは2年ほど前に知り合い、その経緯をいろいろ伺って、しばしお付き合いを重ねていく内、ふと気づいたことがあります。この夫婦は、神社という形、神社という幻想の上で、掃除という行為を通して幻想ではない場所へ一心に向かおうとしているのではないか?と。 

放ったらかしにされ、寂れ果てた神社を、別段誰かに有り難られることもなく、またそんな期待も一切持たず、ただただ歓びに包まれて、形式ばった法衣や斎服とは無縁な無名の者として、ただ掃除をする、掃除をする……。その心の様がなんとも美しく、真っ新な始原の信仰の姿とはこういうものだったんじゃないかと垣間見せてもらったような気がしました。

僕らは世界という夢の舞台で、具体的な行為やこの身体を通じてのみ、本質(真理)に迫ることが出来ますが、言葉や作法、教義、祭礼、神話など、上部のことが余りにも力を持ってしまうと、心が速やかに神の世界へと貫入することの障壁となります。


外的な神社とは、本来、人間が自分の内なる不壊の社に気づき、それに触れるために在るのでは?

これは教会の使命が、心の内なる祭壇を見出し、一人一人が自分の内なる神との交流を復活するためにこそあるのと同様に。

たぶん自分の内側に形なき神を見出した人間は、1、1、1……自分が神の一部であることを知り、物的な神社や教会はもはや必要としないことでしょう。もし望むとするなら、それはただ自分以外の人間のためにです。


古の心も形なし。今の心も形無し。心のみにして形を忘るる時は今も神代、神代今日、今日神代。世の中の事は心程づつの事なり。心が神なれば即ち神なり。黒住宗忠)


 〈質問:世界最大のパワースポットは一体どこにあるのですか?

ニサルガダッタ・マハラジならきっとこう応えると思います。

「あなただよ」


letter from farther1994年作)

 

 



2025/03/27

home out home アダムとイブ以前

 


この世はすべて舞台、男も女もみな役者に過ぎぬ。(シェイクスピア)


「男であるとか女であるとか、そんな外観のことはもうどうだってイイんだよ」と、誰かの思いを捕まえた還暦過ぎの老人が世間の柔らかな風に紛れそう言い放った。 


この物理的な身体の世界では、男性は男を演じ、たまに女を演じる人もいますが、女性は女を演じ、時に自分は男として生まれて来るべきであったと男を演ずる。

しかし心の領域に入れば性差はありません。なぜなら眼に見えない心の次元には形態と言うものが存在しないので。自分が男であるか女であるかの判断基準は、身体の形態や生殖器官の差、外的な知覚による認知を通してなされます。ホルモンや脳の構造の差もあるらしいですが、「自分は男性の身体を持っているが気持ちは女」とか「私が女性の身体として産まれてきたのは何かの間違え」という、個々人の思考内容の底層に隠された信念に基づく願望が、時に男を演じるか、はたまた女を演じるかを決定するケースもあり。

性別に囚われない心、性差からの自由とは、そもそも心には男も女も無いと言う、ちょっと身体の世界から離れた(自由となった)洞察により速やかに達成できますが、人類は、男と女という二項対立、身体的差異を、この地球環境で生き行くため、存続させるために必要な動力(信念)にしたので、心に性別が無いという形而上の視点により始めて見えて来る「世界」については見過ごしがちです。

この眼に見える世界だけを信じ、限定的な知覚のみを信じ、その知覚からの情報を元にした思考内容に、本来は神のように無性無名無色透明の心が追従することは、当然、ある種の歪みを生じさせます。ゴールのない葛藤と緊張を呼び起こすのです。

たぶん人間が作り出した社会の諸問題や地球上の無意味な破壊と創造のループ、暗黒宇宙の非情さとは、すべてここに起因しているかなと思います。

身体(知覚)中心主義の世界の限界と不条理、宇宙の滑稽なまでの無意味性を意識化することは、人類がまだ心中心主義?という知覚を超えた世界観を共有してないという事実を教えてくれます。

 

ところで、旧約聖書『創世記』に描かれたアダムとイブの寓話は広く知られていますが、仮に、エデンの園を無死無生の世界、絶対的楽園、大いなる源の象徴とするなら、このエデンの園からの追放とは、一なるものの分裂、主体と客体、正と負、二項対立や二元論、陰陽思想などの始まりであると解釈することができます。

「善悪の知識の実を食べた2人は目を開け、自分達が裸であることに気付き……。」という記述。たとえば2人が禁断の果実を食べて目を開いたのではなく、楽園では夢を見ることを知らなかったアダムとイヴが、蛇という〈意識〉にそそのかされ、心の目を閉じて、はじめて眠りというものを知った。つまり心眼を手放すことによってこの現象世界という夢を見始めた。これは釈迦の声明である「この世はマーヤ(幻想)である」と同意義です。

映画『マトリックス』のモーフィアスの台詞ではありませんが、「赤いピルを飲めば、君はアダムとイブ以前の世界に戻れる。青いピルを飲めば、ん〜現状維持」。

この世界、この宇宙は夢であり幻想であると言う視点がユニークで斬新なのは、ひとえにこの世界を違った眼で見ることを可能にするからです。


「人間はもともと反逆者にできあがっておるのだが、反逆者が幸福になると思うか?」(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー)


この世界は、エデンの園から離脱した〈意識〉による夢に過ぎないのか。

主体と客体という分裂のない全一の状態にあるエデンの園=の元から脱出しようとする奇怪な願望がなぜか起こり、と同時に意識(蛇+アダム+イブ)が生まれ、意識自身が創造主の座を奪取しようとする攻撃的な欲望がこの世界という夢の母胎であり、その夢の中の創造主として意識が神として君臨する。これが、宇宙の始まり、とかなりぶっ飛んだ仮説。

古今東西の賢者?リチャード・バックやボルヘス、荘子やクリシュナムルティ、ハッラージュとバヤズィード・バスターミー、そして釈迦などなどの慧眼が得た洞察とはこんな感じだったんじゃないかしら。それでこの洞察や見方、仮説によって何を捕まえることができるのか?ちょっと大袈裟ですが、この世界の不条理や狂気、意図、人間が存在する意味、そのすべて明らかになります。

小さく見積もっても、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いた無神論者を標榜するイワンの懊悩は解体されます。笑


「ぼくは神を認めないんじゃないぜ。ぼくには神の創った世界、いわゆる神の世界ってやつが認められないんだ、認める気になれないんだ。」(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー)


加害者と被害者は同時に存在します。どちらかが欠けても「事件」は成立しません。ただ、加害者の欲望的意思が先行します。

世界(他)が消えれば意識(自)も消滅するように、世界(物質)と意識(想念)は同時にしか存在し得ません。

つまりビックバン、宇宙の創世とは、意識の仕業なのです。 


「心は主人なり、形は家来なり。悟れば心が身を使い、迷えば身が心を使う。」(黒住宗忠・17801850


そして最後に、「アダムとイブ以前」とは、時間的な遡行のイメージとして捉えるのではなく、今まさにここに実在する、僕たちの心そのものの姿だと思うのです。


home out home1991年作)

 

 



2025/03/24

blank 音楽の羊水


 

昨年10月に、友人たちのご厚意により2冊の写真集を上梓させてもらい、それ以降、何だかホッとしてしまったのか、以前のような心構えで撮影に臨むことは無くなった。気まぐれに、iPhoneで撮ってみるものの、さんざん撮りまくった被写体ばかりをなぞるように撮っているだけだから、あちら側へぶっ飛ばされるようなワクワク感はもうない。熱くもならない。

まぁそんなもんだ。

それで今年に入り、集中的に音楽と向かい合う日々が続いている。ただし、新しい楽曲を作る気にはならないので、今まで作った作品のリマスタリングをしているだけ。ことさら他に用事もないし、でも一年前と比べると「ずいぶんイコライジング仕様の聴感が出来たなぁ」と感じる。エンジニアリング、独学だからか、ここまで来るのに10年もかかってしまった。

22、3歳からインストルメンタルの音楽を作り始め、これまで何曲作ったのか数える気もないので分からないが、アルバムにしたら20枚ぐらいになるのか?よくもまあ、どこにも発表するあてもなく、ごちょごちょ1人作り続けたものだ。

20代の頃から本気になって写真をやり音楽をやり、当時は「二足の草鞋を履いたら成功できない」的な風潮があって、そんな嗜めの言葉を何度か投げかけられたこともあったが、写真と音楽、その両方の制作を続けられて良かった良かったと、今は思う。

還暦を過ぎ、当然のことながら、身体の死は意識せざるを得ないが、もし写真や音楽を作る以上の楽しみと出会えたら、もちろん創作活動なんぞはスパッと止めてしまうかも知れない。それは、きっと、そういうもんだ。

 

僕の中の誰かが「もう充分作ったよ」と。 


blank1984年作)

 

 


 

2025/01/02

実験音楽について / Experimental music


 〜実験音楽についての雑感〜

音楽作品を深く味わおうと思う時、人は自ずとその瞳を閉じ、心を鎮め、ひたすら耳を澄まそうとするものですが、1952年にジョン・ケージが発表した作品《4分33秒》は、音楽を鑑賞しようとする者たちの心的な態度、まず耳を澄ます"以前"の、音楽に対するこれまでの固定観念を白紙に戻そうとする試みであり、問いかけでした。

そもそも前衛芸術、アバンギャルド(avant-garde)
とは、伝統的な様式や既存の価値観に挑戦する姿勢を指す概念ですが、ジョン・ケージやクセナキスが提示した中国の易、チャンス・オペレーション、UPIC(ユーピック)や確率論などを用いた作曲法とは、19世紀までの西洋音楽の歴史には存在しなかった新しい作曲技法であり、これは「音楽とは何か?」という根本的な問いを含みつつも、音楽鑑賞における「耳を澄ます」以前の状態、鑑賞者がすでに持っている、持たされていた観念的な呪縛、思い込み、知覚の制約などを解き放とうとする実験でもありました。

そして、「美しい音楽は人を心地よくする」
的な考えや感覚から解放された作曲家および鑑賞者は、さらに次の段階へと進み、その一見制限なき自由な音楽作品、これまでに無かった音の響きや連なりに触れて、この世界における音楽の役割、その根源的な意味を明らかにしようとしたのです。

"空の下で、樹のことばを、聴くように見、見るように聴く。"(
長田弘)

ところで、20世紀に作曲され、
演奏された数多の実験音楽について感じる個人的物足りなさは、当の作曲家たちが、ほとんどの前衛もしくは実験的な音楽作品が、壊すだけ壊して、音楽鑑賞の真の醍醐味、自由となったその聴感を通して再び「耳を澄ますこと」の大事を放棄したように感じるところです。新しい方法論、アイデアによって生み出された音楽作品と言う結果について、その作曲技法だけに注目がゆき、音楽という時間芸術が呼び覚ますであろう音の向こう側への繊細なる感受を蔑ろにして来たような気がするのです。

ジョン・ケージが思い描いた夢、音楽は、
楽器による演奏という形態に拘らなければ、実はこの現象世界の事物や生き物たちが偶然に鳴らす無数の音たちによって満ちており、瞬間瞬間、今まさに上演されています。
またクセナキスの、
クラッシック演奏者たちに多大な技量と心理的な緊張を強いる作品群は、AIによりさらに複雑緻密に計算され、採譜され、自動演奏可能な時代となりました。

では、人間が作曲する、音楽を作り、聴く意味とは?

"音楽の究極の目的とは、神を思い出す為の手段となること。"(
不詳)

無白を得て、あらゆる音の先、
音楽の始原への感受の内に溶け込んだ作曲家または鑑賞者は、一体これからどこに向かうのでしょうか?

この世界に生まれたすべての音、人間が作り出した音楽は、
ゆくゆくは、すべてあの光り輝く始原の沈黙によって飲み込まれてしまうかも知れません。音楽とは、いわば、ひとつの、苦し紛れの〈予期〉なのです。

それでは、芸術作品の究極の目的とは何でしょう? 
それは、美の開示であり、神(源泉)への想起となります。
音楽作品とはその為の手段のひとつです。
そして、
やがてその目的が遂げられたなら手段は不要となるのです。