2026/04/29

陶芸考⑧ ~懐心~

花入 Flower vase
(銘)懐心

財布を持たない動物たち。
お金を知らない小鳥たち。
重そうなリックサックを背負った人々が、目前をのそのそ歩いていた。

退屈のあまりに、養老院を抜け出した親父は、お金や保険証の入ったポーチだけは忘れずに持っていた。
自然光から遠のいて、僕らは個人という観念を抱えて、一体どこを目指すのか?
この夢の世界の進入口を知りながらも、僕らはひたすら歩き続けるのだ。

「また今後ともどうぞよろしくお願いいたします」と、先の尖った靴を履いた製薬会社の営業マンが、白衣を着た精神科ドクターに挨拶をしていた。

心と、心が、すでに融合していることを取り戻す、思い出す為に自分の身体を使うのか?
もしくは心と心がひとつになることを望み、他の身体との接触、セッションを試みるのか?

存在の、"神在り"のベッドに横たわり、眠りに入ることを選んだヤンチャな子供たちが見る夢はいつも孤児の物語り。
人間が、ご先祖さまや血縁、身体からの物理的なデータに過ぎない血の繋がりにこだわる理由は、たぶんそんなところから来ている。自分自身が孤児だという密やかな想い、無意識界に投げ込んだ夢の信念(信仰?)が、この世界に居続ける為の条件、ひとり夢を見続ける為の約束事となった。

仏陀が、高弟から「悟りとは何か?」と問われ、一輪の野花を指差した。
 
 

 


 

2026/04/27

陶芸考⑦ ~石置き~

 

 
stone rest (prototype)
 (銘)紀元盤
 
近くの山や森に分け入り、または川縁あたりを散策し、そこで見かけた小石をウチに持ち帰り、時を見計らっては、居間の窓ガラスから差し込む自然光と黒バックという簡易なセットに置き、撮影をする。
こちらの気が静まっていれば、一個一個の石は徐々に語り始めて、暫し僕に特別な瞬間を与えてくれます。
 
また陶芸をはじめて、新たに石の存在が、その在り様が気になりだした。
石といっても、僕の興味の対象はあくまでもそこら辺にある小さな<石ころ>で、いわゆる銘石や鑑賞石、宝石の類ではありません。
 
写真機を使い石ころを撮影するとは、「見出す」という意識の運動を伴いますが、これは石に限らず、すべての外的対象、被写体への配慮として僕が選んだ写真家としての在り方、スタイルのひとつであり、今回、この陶器による「石置き」という発想がヒョイと浮かび、撮影することの叶わなかった石たちを「ただ観る」、見詰める台座を作陶したのは、まさに必然ではないかと感じる。
 
すべての石たちと交信・交流することが、写真家としての理想ですが、こちら意識のキャパシティを超えた知覚圏外にある石はなかなか思うようには撮れず、ならば「石置き」に置いた石と付き合い始める機会を己の生活空間に設けてみてはどうだろう?
 
いずれにせよ石という存在、被写体は非常に魅力的なもので、その美しさとは、宝石のような表層的な輝きを超えた内奥の、始原の美しさを秘めています。
 
そして石からの語りかけは、非言語的で、言葉で考えることに慣れ切った心や知性に底知れぬ震動を与え、忘れていた眩いばかりの情景やサウンドを喚起する力を内在しています。
 
だからこちらの視覚を頼りに訥々と、おごそかに迫ってゆく。やがて一瞬、あの繋がる瞬間は突如やって来ます。だぶんそれを<詩的体験>と呼ぶことができると思います。
 
表面的な色やカタチ、美しさに捉われることなく、その内側に潜む「美」に感応すること。それは自分自身の、人間の不変性、壮大さの在り処に気づく瞬間です。
 

 


2026/04/25

陶芸考⑥ ~箸枕~


龍の箸置き chopstick rest
 
銘:龍鱗(りょうりん)

*龍の鱗(うろこ)の意。
硬く身を守り、邪気を祓う厄除けや守護のシンボルとされる。
 

 

2026/04/22

陶芸考⑤ ~雑草を生ける~


 花入

(銘)花身一如

 

花瓶や花入れの役割りとは、花たちを美しく生けるための台座、小さな舞台を提供することですが、町の花屋ではついぞ見かけない草花、野草や雑草などは、人間の手や美意識によって作り出された<器>に生けてもらうことは滅多にありません。


野に咲く草花、人間の手を借りずに、四季折々、自由奔放に育つ雑草たちを生ける、生かすことの出来る花瓶や花入れは、果たして存在できるのでしょうか。

 
もし、そんな野草や雑草たちの台座、小舞台としての<器>を作陶することが可能ならば、それは陶芸にとっての新たな取り組みとなるかもしれません。
 
そしてもちろんその花瓶や花入れは、ガラスケースに収まった町の花屋の花たちをも、あの過保護なモデルたちさえも、艶やかに見せることができるのだと思います。

 


 

2026/04/09

陶芸考③ ~掌の眼差し~

京都在住の石井久弥子さんがそのInstagramで子供たちにお茶を振る舞う写真を載せていた。
彼女がお茶をたしなむことは知っていたが、本人がそれについてあまり積極的に話そうとしなかったので、こちらも根掘り葉掘り聞くことを遠慮していた。
ただ、ときおり彼女から送られてくる京都のお土産、品々はちょっとシロートの域を超えた美意識高い系チョイスで、これまでの人生航路で彼女が無理なく身につけてきたであろう審美眼を感じさせてくれた。
そして、そのInstagramの子供たちとの野点写真を見たときに、LINE上で、やや踏み混んだ質問をしていた。

石井久弥子は、どうも小学生の時分からお茶を習いに行っていたらしい。そして実家には魯山人のお皿などがフツーにあったそうな。
大田区の矢口西小学校グラウンドの鉄棒で、逆上がりをする女の子のクリーム色の毛糸のパンツを眺めては、密かときめいていた僕の幼年期とはえらい違いだ。
そして翌る日、ふと思い立ち、「あの子供たちの手のひらサイズに見合った小ぶりのお茶碗でも作ってみようかな」と。

アルカイックスマイルなお茶碗、微笑みかけるお茶碗、やたら人懐っこいお茶碗、それに触れた途端、優しさとか柔らかな気持ちが込み上げて来るような……。
通常の陶芸家では思い付かないアイデアと視座が、なぜか僕の内で瞬いた。

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陶器は、たぶん最終的にはその所有者、使い手によって仕上がってゆく、いい塩梅に変容してゆくのだろう。
特にお茶碗やぐい呑みなど、常日頃掌との関わりを持つ器は、その使い手にそっと近づき、寄り添い、そのヒトの手や生活、心の色に染め上げられることを美しとする。
なので作家性の強い、我の出っ張りすぎた、使い勝手があまり宜しくない陶器とは、たぶん陶器の本来の役割や意図から外れた、そもそも「陶芸」である必要のない、鑑賞用オブジェ、彫刻、またはそれに類した3次元の立体「作品」と位置付けられるかと。
ただし、花瓶や壺など、使い手の叡智を誘い、刺激する陶器もある。

陶芸家-。その指が、見ている夢。
その指が、夢を愛でている。