2026/05/19

陶芸考⑪ ~手捏ねと轆轤~

抹茶茶碗 Tea-bowl
(銘)うつほ

陶芸における粘土成形には大きく分けて2つあります。
代表的なものとしては、轆轤(ろくろ)を回しながら粘土成形してゆく方法と、手捏ね(てづくね)という手や指先だけで粘土をこね成形してゆく手法があります。
 
手捏ね(てづくね)による作陶は、多様な手の動きやその痕跡が残せますので、穏やかさ、歪み、使い手が器物に触れたさいの触り心地や人肌の柔らかさのような感覚を伝えることに秀でます。
轆轤の場合は、均等性や形の精緻さを表現することを得意とし、作り手の技量が明確に表れますが、その形状は限られた特定のパターンに陥りやすいです。
 
では、陶器とそれを使う側との距離感についてはどうでしょうか?
これは僕の印象ですが、手捏ねによる成形の方がより使い手に近づこうとしています。
均一性を目指さない手捏ねによる作陶は、作り手の心の形や色合い、躊躇いや思いの機微がより深く定着されるのです。指先の微妙なチカラ加減、強弱、リズム、細やかさが、陶土に直に伝わるからでしょう。

いずれにせよ、陶工が自分の器物に「何を求めたのか?」が肝要であり、使う側はそれを感じ取ろうと直接触れてみること、そこに陶芸ならではの醍醐味があるように思います。なので本来、陶芸の鑑賞とは、視覚ではなく「触覚の眼」で為されるもの、博物館等のガラスケースに収まった名碗、名物の類も、視覚による鑑賞だけではその豊かさには決して近づけません。
特にお茶碗や湯呑み茶碗、ぐい呑みなどのように、手の平との強い関わりを持つ陶器類は、轆轤より手捏ねによる作陶の方が、手の平から伝わる作者の想いや景色、光彩などが深くこちら側に迫って来ます。
つまり、お茶碗やぐい呑みなどの陶器は触ってみなければその良し悪しは分からない。これは人間との付き合いによく似ています。他者の外見、外観は付き合うきっかけを与えてくれますが、その関係の継続の決め手はその人の内見、相手の心模様、内観の膨らみや甚深さによるものだからです。
 
陶芸、陶器とは、触り、使い、付き合ってみてこそ、その美しさにぶつかり、共鳴し、自分の外側へと連れ出され、生命の形なき源泉へと誘うものです。
ここに、触覚によって開かれ、触感が呼び起こす、他の芸術作品には叶わぬ陶芸ならではの魅力があるように思います。
 

2026/05/14

陶芸考⑩ ~Sake cup~



お猪口 sake cup
(銘)薫風

寿司職人の世界には「飯炊き3年、握り8年」という言葉があります。
陶芸の世界でも「菊練り3年、ろくろ10年」と。
これは、1人前の職人として自立するためには「これぐらいはかかるもんだよ」という、体験に裏打ちされた先人からの教えであり、伝統的な考え方です。

20歳の頃、僕はニューヨークにある日本食レストラン『初花』で働いていました。
当時の日本人旅行者の働き口といえば、日本食レストランのボーイかキッチンヘルパーぐらいしか無かったので、寿司職人の"見習い"という条件で使ってもらうことになりました。
まず皿洗いから始まり、その合間合間、包丁に慣れるためにひたすらキャベツの千切りをし、人差し指を切りまくったものです。(笑)
次にシャリ炊きと合わせの特訓。ベースメントで仕込みのお手伝い。魚の鱗落としからエビの皮剥き。やがて毎朝入荷される大量の魚の3枚おろしを任され、延々と大根の桂剥き、そしてギョク作り、などなど。
日本の国会議事堂内の『初花』からトレードされた錚々たる職人さん(板前さんだけでも7名)に囲まれ「うわ~、職人の世界ってこんなハードなんだ!!」と、日々、ヒリヒリするような緊張感の中、寿司職人としての知識や技量をひとつひとつ学んでいった。
そして10ヶ月経った頃には、なんと「そろそろカウンターに上がれや」と命じられ、まな板の隅でひたすら巻き物と軍艦づくり。やがて11ヶ月目にしてカウンターを任され、直接お客さん相手に握りを出すようになっていた。

「飯炊き3年、握り8年」

包丁を握ったこともない未経験者が急ピッチで技術を習得できたのは、たぶん当時の『初花』が連日連夜満席、超忙しかったからだろう。
凄まじく凝縮した時間と、必殺職人たちに囲まれていたからだと思う。もちろん僕も必死だったが……。

そして今にして、あの独特な職人の世界を垣間見、そこに身を置けたことは、少なからずその後の僕の創作に生かされているように感じる。

 

2026/05/07

陶芸考⑨ ~Chawan~


抹茶茶碗 Tea-bowl
(銘)融 竹洞

器づくりをする陶芸家が理想とする心の状態は、たぶん作陶する自分自身も空っぽの器として在ることだと思います

「何か」を注ぎ込むための器。
「何か」を招き寄せ、人が使うことを目的とする器。
 
意識の底層、そのすべての扉を開け放ち、樹々や植物らの呼吸を真似、この大地から浮動するVibesに感応すること。
ひとつの意思を立ち上げて、時間の外側へ。
重力の法則を歪ませ、時空を超えた「何か」へと身も心も預け切ること。
指先の眼は開き、深い眠りに落ちた心は、射し込む古の記憶たちの到来に備える。

「何か」とは?
それはあらゆる存在、生命の源泉であり、神の記憶だろう。

作陶ーー。
その手に眠る記憶のレイヤーを解きほぐし、無限の産声(音楽)に耳を澄まそうとする。