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2025/02/17

堀内幹の「カゼノチ」


 

この楽曲「カゼノチ」は、堀内幹のレパートリーの中では珍しくインストゥルメンタル音楽となります。

この作品で彼が使用した楽器は、アコースティック・ギターをサワリ付きフレッドレスに改良した彼自らの手によるオリジナル弦楽器ですが、彼はこの楽器を"無間棹"と命名しています。

どこか異国の響きを放つ民族楽器のようでもあり、調性を目指した西洋の楽器が切り捨ててきた掠れ音や奇妙な倍音、息切れの音や摩擦音、濁音など、いわゆるノイズと呼ばれている音や響きを積極的に取り返そうとしているかのようです。


これまでこのブログで堀内幹の歌、その歌詞が描く世界像について僕が感じたことを書いてきましたので、西洋のアコースティック・ギターだけでは表せない音や響きを強く求めた彼の指向性、その聴感の質や幅については言わずもがな。


ちなみにこの「カゼノチ」は、スタジオでの1発録りですが、アイヌの歌い手・床絵美がコーラスとして参加しています。曲の始まりと終わりの方にNYでフィールドレコーディングされた環境音が入っていますが、それ以外はすべて彼が弾く1本の無間棹と彼の声のみで構成され、出現した音響世界です。

 

堀内幹『one』リマスター 

 

(このブログ内の堀内幹ラベル

 

2025/02/16

堀内幹の「借りものの歌」


 

堀内幹の「借りものの歌」というタイトルが付された歌詞の世界へどのように近づいて行くべきか、いや、僕はすでにその世界を訪ね、その静かな森の奥で多くの時間を過ごしてきましたから、多分どんな言葉から切り出せば文意が整ってくれるのか思案していたのだと思います。

すると、ふと、"無垢"という言葉が浮かんできました。続いて、ウィリアム・ブレイクの詩集『無垢の歌 Songs of Innocence 』の" Piping down the valleys wild(羊飼いは笛を吹きながら荒野を降り)"という詩がイメージを連れ響いてきたのです。


神さまと

同じ色さ

遠ざかる

風の中で


彼は「神」という言葉を自身の歌の中で使うことを酷く警戒する人間だと思いますが、この「借りものの歌」ではいきなり「神さま」と記します。そして直ぐにそれは「(自分たちも神と)同じ色さ」と明かす。

さらに神さまと同じ色であることを告げた、教えてくれたあの「風」はもう遠ざかってしまうのか?と自問します。


借り物の

歌を歌い

皆と同じ

空を見てる


シンカソングライターである堀内幹は作詞作曲演奏と、全て自分1人で熟しますが、全曲オリジナル・ソングであるにもかかわらず、ここで「借りものの歌」、自分が歌っている、自分が作った歌も借りものの歌だよと、まるで囁いているかのようです。

たとえば、ある民族が口頭伝承により伝え残してきた民族の歌とは作者不詳であり、個人の歌ではなく受け継がれた歌ですが、この歌たちは「皆と同じ」空を見せるよ、と。


森の奥で

繰り返し

回ってる

回ってる


一体、森の奥で何が回っているのか?

彼はそれを見詰めながら、決して言葉では明言しません。

なぜなら、それは眼には見えない「*」であり、言葉にすると逃げ去ってしまうから。

此処に、民族の意匠をもう必要としない堀内幹がこちらを見て笑いかけています。


借り物の

歌でいい

何も違わぬ

ひとつも違わぬ


長い間、ひとり歌を作り続け歌ってきた者が、遂には自分の歌さえも借りものであると、何か個人的な荷を手放そうとします。

そして「羊飼いは笛を吹きながら荒野を降り」、歌を記し、荒野に放ち、やがてあの澄み切った神が住む空の元へと還る。


Piping down the valleys wild

Piping songs of pleasant glee

On a cloud I saw a child

And he laughing said to me.


この世界は、民族の歌、民族言語、歌唱法など、その歌が生まれたベースである生活様式を捨て、「歌の源」から遠ざかり、忘れ去ることを選んで来ました。

無数の個人的な歌が混沌と渦巻く現代社会の表層的な暮らしの中で、堀内幹はきっとこう言うことでしょう。

「それは私の中で失われた訳ではない。なぜならそれは私の内側で脈々と流れ、息づいているから」と。

この確信が、実は「借りものの歌」のコアであり、隠された軸になっているような気がします。


何も違わぬ

ひとつも違わぬ

 

2025/02/14

堀内幹の「コブシの花びら」


 

〜堀内幹の「コブシの花びら」について〜


この「コブシの花びら」という歌は、一見、バラードの風合いですが、日本の音楽では珍しい三拍子のリズム、スローテンポのワルツの拍子を持たせています。そこに堀内幹ならではの大らかさやユーモア、奥行きなどが表れています。


では、その歌詞、まず「月が消えたら」と始まります。

月が消える、この歌の舞台は夜であることを告げ、月明かりのない不吉な暗闇の中では通常の視覚は奪われますので、いわば盲いた状態。そこに彼はすぐさま明かりの代替として白いコブシの花を見せます

身体上の眼が効かなくなれば、コブシの花を知覚することなど叶いませんので、堀内幹が取り出したこのコブシの花とは、五感を超えた存在、もしくは意識または心を凝らさなければ見えてこない何か、ある神秘的な象徴であることが示唆されます。


月が消えたら

コブシの花びら

風を掴んで 飛んでゆく


「風」という言葉は、堀内幹の歌詞世界ではかなり使用頻度の高い言葉ですが、彼にとって「風」とは、異界と現界を繋ぐ役割を担ったガイド、精霊的な存在であるように思われます。


川の向こうで

揺れる帽子は

闇を泳ぐ 子供たち


月が消えた夜に見えた幻影なのか?

川、帽子、闇を泳がざるを得ない子供たちへの哀悼……


春待ち人は

コブシで消した

今日もずぶ濡れの微笑みを 


春を待つ人とは、寒い冬の中にいる人、その凍えた心を、コブシ(ヒカリ、温もり)で消すよ、と。

ずぶ濡れの悲しみではなく、これを微笑みとする。

月明かりが消えても、コブシの花をさっと差し出す彼の優しさによる視覚の変移、技量。別の見方、感じ方を示そうとする彼の心の機微。


流れた血の上

祈る背の上

コブシの花びら

舞い落ちる


流れた血、累々たる屍から流れる赤い血の上に、無念の死を遂げた者たち心の上に、または地に額をつけ祈る者たちの背の上にこそ、あのコブシの花びらは舞い落ちるのだ、という堀内幹の確信、願い。


月が消えたら

コブシの花びら

風を掴んで

飛んで行く


つまりこの「コブシの花びら」という歌は、ある種の鎮魂歌であり、コブシの花とは、月明かりのない真っ暗闇の世界で、肉体の眼が効かなくなったがゆえに心眼は開き、このもうひとつの「視」によって見出されたヒカリの花ではないのか。そしてその白い花びらは世界の嘆きの場所へ舞い落ち、ガイドである精霊的存在である「風を掴んで」、死者の魂を、彷徨える魂らを黄泉へと安らかに運ぶ、その「飛んで行く」情景を、泉鏡花や宮沢賢治とはまた違った幽玄性を持たせ、描いた歌であるように感じます。


p.s


あらたまって確かめたことはありませんが、幹ちゃんはあの太古の花を予感させるコブシの花が大好きなんだと思います。


2025/02/13

堀内幹の「祈り」


 〜堀内幹の「祈り」その歌詞について〜


この「祈り」という歌は、15年ほど前に発売された堀内幹のアルバム『one』に収録されていますが、今回(経緯を書くと長くなるので、)あらためてリマスターをし、制作当時は「野暮だよなぁ」と禁じていたその歌詞についての解説?をしたいと思います。


まず、この歌詞は


この大地に 手をつき

この大地に 頭をつけ 

身体を 私を あなたを

投げ出して



と、始まります。

この歌詞から連想されるイメージは、チベットの五体投地、信仰と大地への帰依の姿形ですね。

彼は10年ほど前に都会での暮らしを後にし、長野県へと引っ越し、農業従事者としての生活を始めましたが、彼はミュージシャンとしての活動を続けながら片手間に農業というスタイルは取れず、無農薬の米作りに全ての時間を注ぎ込むという徹底した態度で望んでいます。それは彼なりの五体投地であり、大地への回帰のための実践であるようにも映ります。


そして次に来る歌詞、


知らないことが

いつしか知らないことが

知っていることと

混ざり合って

降って来る 降って来る



ソクラテスの「無知の知」とは、簡単に言うなら、「自分は知らないということを知っている」ですが、では、何について自分は知らないのか?

 

山のように 積み重なって

空に昇り 雨になって 

降って来る 降って来る


たとえば、真理について、この世界の果てについて、この世界が存在する理由、意味や意図について、個人的な体験をともなった「知」を得、生きた者、生きている存在は覚者以外には居ませんよね。

つまり「自分はなにも知らない」とは、真理を予感した魂の聡明な表明ですが、その「知らないこと」が、「知っていること」、唯一自分がここに存在しているという意識、その個別意識に目がけて「真理(知らないこと)」が到来し、降って来る。混ざり合うとは、ある種の恩寵の喩えであり、啓示を彷彿させます。


そして、次の歌詞で、ここに堀内幹の優しさが表れるのですが、


ただ 息を 

少しだけ 深くすれば

いいんだ いいんだ



なぜなら、「自分は何でも知っている」という自負心を手放せない者たちにとって真理の到来とは苛烈な体験となるからです。


重なり合って 折れた身体

枯れた柳の枝が 揺れている

風がやって来た

届け 

届け 祈りよ



彼がその歌詞によって描く世界には、この「祈り」という歌だけではありませんが、しばし人間界の地獄絵図のイメージが描かれます。

たとえば、戦場に置かれた者たちが眼にするであろう光景「折れた身体が重なり合って」。事が終幕した後の無常空間「枯れた柳の枝が揺れている」。狂気の場所で渦巻く叫び声と諦念をともなった異様な沈黙、堀内幹は自らをそこに同化させつつ、その奥深いところから自身の「祈り」を露わにします。絶望感が揺らめく煉獄と化した大地、これを変容させる真理や本来の魂の姿とは何か?

(地獄の描写とは、現代の歌世界では異例なことですが、たとえばウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』さらに1472年に出版されたダンテの『神曲』、我が国では千年以上前に書かれた『往生要集』、もっと遡れば『ヨハネ黙示録』と、文学の世界、言葉による表現の世界ではさほど特殊なことではありませんよね。)


この「祈り」という録音芸術としての音楽作品は、堀内幹の声、彼が弾くギター、歌詞、メロディー、ビート等が重なり合ってはじめて成立する世界なので、殊更歌詞だけを引っ張り出して言及することはあまり本質的なことではありませんが、少しでも彼の歌、彼の音楽世界を味わう為のヒント、きっかけになればと思い、数十年の時を経て、ざっと書かせてもらいました。

    

2011/04/02

堀内幹 / デスマスク




「昼の明るさに、夜の闇の深さがわかるものか。」
これは有名なニーチェの言葉ですが、こんな風に言い換えても良いのですね。

夜の深さを知らない魂に
夜の闇に突き落とされたことのない心に
昼の明るさがわかるというものか
いや、陽光の切実さというものが・・・
生の明るさを、真に知ることはないだろう

そしてノヴァーリスの言葉-。
「苦痛を避ける者には、愛する意志がかけている。」

著名な者たちの言葉を引用して、堀内幹を“額装”しようとしているのではありません。
今、この時期だからこそ、彼の歌声を送り届けてみたかったのです。

僕たちは、まだ、「生」を知らない。

2010/10/07

on 堀内幹 radio / FM Taman 76.3 M㎐ Okinawa

2010/9/26 am10:00-am11:00



先日、沖縄本島最南端にあるFM局「FMたまん」にて堀内幹のCD『one』が紹介されたと、このブログでご紹介させてもらいましたが、その音源を(カセットテープ!でした)いただいたので、皆さんに聴いていただきたいと思います。
ただ、その音質が、遠い沖縄からの電波を、ここ東京の裏高尾の山の麓にてなんとか傍受したような、ミステリアス、ちょっと近頃では耳にできないアナログ感が炸裂しております。申し訳ない。
それと、これは急遽お知らせが入ったラジオ生番組だったので、堀内幹をおさえることができず、代わりに僕が出演することになってしまいました。

トーク、めちゃくちゃ下手です。緊張しました。
阿寒に行く準備をしていた前日です。

 
下記の文章は『堀内幹 / one 』のCDレビューです。
どうぞ読んでみて下さい。



今月最も個性が際立っていたのが、堀内幹『one』。
基本的にギターの弾き語りなのだが、時にトルコのサズやペルシャのタールのような、あるいは津軽三味線のようにも聴こえたりするギター・ストローク(サワリを付けフレットレスに自分で改造した無間棹なるギターか(?)がとてもパワフルだし、語るように絶叫するヴォーカル・スタイルにもついつい引き込まれてしまう。
日比谷カタンのペイガニズムと三上寛のパッションと因幡修次の縄文性を併せ持ったシンガー・ソングライターってとこか。要注目。

(松山晋也 「CDジャーナル」 2010年10月号から)


96年から東京でライブを始めた堀内幹は、初のスタジオ録音CD『one』(9monote 9MNT001)を発表。
アコースティック・ギターに加え、それを三味線や琵琶のようにサワリ付でフレットレスに改造した楽器の自称”無間棹”でも弾き語る。
リフレインする曲にブルースの流れも感じたが、しっとりした曲も荒ぶる魂がみなぎる曲もスケールが大きく、打楽器みたいに演奏する骨太のヘヴィな音に激しくえぐられる。
町田康が切迫感を増した如きデリケイトな野武士をイメージする歌声も吹きすさび、言葉の意味性以上に瞬間瞬間の鳴りのインパクトが強烈で、鈍く光る音の美しさに息を呑むのだ。
写真家でもある海沼武史のプロデュースも功を奏し、広大な野外でのレコーディングにも聞こえるダイナミックな音作りと、声と弦の響きの一つ一つに意思が脈動する仕上がりも素晴らしい。
二つ折りの紙ジャケット仕様の約46分8曲入り。

(行川和彦 「ミュージック・マガジン」 2010年10月号から)


*余談ですけど、僕の先輩に15年以上お付き合いさせてもらっているアブストラクトのペインターがおります。
ひとりの絵描きとして、僕は先輩の仕事、作品を敬愛し続けておりますが、彼は大の音楽好きでもあり、それこそ60年代70年代の本物のロックを聴き込んできた方です。
僕より一回り近く年上であるその先輩が、先々月、うちに遊びに来てくださったんですが、そのとき、こんなことを仰っていました。

「ブログ、たまにのぞいて見ているよ。それでさ、日川キク子さんってほんとすごい人だね!あと、堀内幹さん。彼はなんだかジミヘンみたいなサウンドを彷彿させるね。彼のライブ、見てみたいなあ」と。

ジミヘンみたいなサウンド、先輩はあまり説明しない方なので、ちょっと補足させていただくと、・・・堀内幹は、ジミ・ヘンドリックスの音楽から感じられるようなエネルギー、バイブレーションに近いなにかを放射している、という意味です。

 

2010/09/10

堀内幹「デスマスク」について / deathmask

最近、僕はこのRiwkakantのブログで、むかし書いた散文などを載せていますが、それもこれも堀内幹の「デスマスク」という作品のせいです。
皆さんは、彼の「デスマスク」を聴き(僕も今回はじめて耳にしたのですが)、どのように感じられましたか? 僕にとってはかなり衝撃的なものでした。
ちなみに、堀内幹の「デスマスク」という動画は、先月の8月3日に吉祥寺の「MANDA-LA2」というクラブにて、フォトグラファー熊谷絵美によってライブ録音され、「幹ちゃんのライブ見てきたよ~」と、彼女から送られてきたファイルを少しばかり編集し、ご紹介させてもらったものです。
ですから、僕も、皆さんと同じように、彼の生の演奏ではなく、動画を通じて、はじめて「デスマスク」という唄に触れるわけです。それで、このブログとYouTubeにこの動画をアップする了解を得ようと、堀内幹に電話を入れてみたところ、「ところでデスマスクという曲はいつ頃書かれたものなの?」と訊ねれば、「15年ぐらい前かな・・・」と。

ぶらぶらさせたカラダは
音をたてて老いてゆく
もっと明かりをくれないか
美しく腐るから

22、3の若者が、こういった言葉たちを浮上せずにはいられなかった、その心境というか、追い詰められ方というのは、尋常なものではありません。
中原中也の「汚れつちまつた悲しみ」云々が、とても可愛らしく響いてくるような場所へ、彼、堀内幹は、人知れず赴いてしまった。そこで、彼は“詩人”として誕生したのですが、時代は、彼にポエトリーリーデイングなどという表現方法を許さなかった。ゆえ、堀内幹によって掴まれた崖っぷちの言葉たちは、メロデイーを与えられ、彼自身が、これを歌わざるを得なかったのだと思います
中原中也の言葉も、「異臭を放った宝石」と歌ったタテタカコの言葉たちも、透明な叙情性の内にて張りつめ、震えていますが、堀内幹はより生々しい場所へと赴いたのだと思います。
たぶん、彼は22.3で夭折できたのかもしれない。いや、彼の心はすでに壊れているのか? もし、今もなお持ち堪えているなら、凄まじい気力と体力、身体力が要求されるはずです
僕は、堀内幹のスタジオ録音盤『one』というアルバム制作のお手伝いさせてもらいましたが、「デスマスク」という作品からこの『one』へと至るまでの15年間、人が、もし“表現者”であるならたぶん避けては通れないきびしい道程を、彼の歩みを思い浮かべて、すこし恐くなりました。

皆さんは、音楽になにを求めるのでしょうか? 音楽とは、人間にとっての娯楽に過ぎないのでしょうか? たとえば、文学になにを求めるのでしょうか?
“表現者”に、なにを期待するのでしょうか?
僕たちは、たとえばピストル自殺したゴッホの絵を見て、驚嘆します。なぜ、驚嘆するのでしょうか?
ピカソの仕事、その多作ぶりについて「彼は天才だ!」と嘆息もします。なぜ、嘆息するのでしょうか?
彼らの「生」にとって止むに止まれぬ行為、表現・・・、歌も、絵も、そして文学も、娯楽ではないです。
プログラマーが01を相手にするように、土木業者がアスファルトを、もしくは大地に挑むように、“表現者”とは、自身の魂を相手に熾烈な挑戦を強いられた者たちではないでしょうか。
ただ、それだけのことです。

「ほんのたわむれだと信じて、息が止まるまで殺されると思わず、さからいひとつせず、お前の膝を枕に眠ってくれるような、そんな神仏のような殺し方がお前に出来るかね。・・・」 川端康成 『散りぬるを』より

2010/09/02

堀内幹の旅路 / Kan Horiuchi's blood


七尾旅人がTwitterで書いていた。
「堀内幹さんに会ってまた改めて強く思ったが、シンガーソングライターって埋もれた怪物がごろごろいる。
SSW(シンガーソングライターの略)はシーンを基盤にしない。
基本、結託しないので、何年も孤立し続け無名のまま怪物的な芸に達した人たちが全国にいる」と。

堀内幹、いや、僕は幹(かん)ちゃんと呼んでいるから、彼は孤立した存在ではない。単独的であり、孤高かもしれないけれど、孤立はしていないと思う。
幹ちゃんは確かにミュージシャンとして“怪物的”な能力を持っているけれど、怪物くんではない。(笑)

1937年、結核のため30歳という若さで死去した中原中也という詩人については皆さんよくご存知かもしれませんが、中也の「山羊の歌」にはこんな詩が収録されています。

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる


そして、映画「誰も知らない」挿入歌でもあったタテタカコの「宝石」という作品は、たぶん25,6歳の頃に書かれたのでしょうか。

氷のように枯れた瞳で
僕は大きくなっていく
誰にも寄せつけない
異臭をはなった宝石



昨日、9月1日に全国で一斉に発売された堀内幹、初スタジオ録音盤『one』には収録されていませんが、幹ちゃんが15年ほど前に、22,3歳ですでに書いてしまった「デスマスク」という作品を、今夜は皆さん聴いていただきたいと思います。

2010/07/04

『堀内 幹 Kan Horiuchi / one 』 先行予約開始 !!

2010年9月1日発売 (9MNT001) - here

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年明け早々の1月4日(月)---。
堀内幹が2本のギターを携え、裏高尾の麓にある僕の自宅兼作業場にお越しになられ、その2階にあるhigh tail studioにて、一気呵成に録音された彼の、その眩いばかりの祈りのカタチが、ようやく世に放つことが叶いました。
彼の凄まじい熱量を、一つの「CD作品」というイノチの塊を、ようやく皆さんの元へ送り届けることができます。


彼は、この10年もの間、「ライブにしか音表現の真実は無い」と、ひたすらライブ活動に専念し、ひとり果敢に生の現場にて数多の聴衆の前で歌い続け、今なおその揺るぎ無い意志はぶれることを知りませんが、この『堀内 幹 / one 』は 、彼の初めてのスタジオ録音盤となります。そして、堀内幹のライブを目撃し続けてきたファンにとってこのCDは、やや戸惑いの反応をなされる方々もいるかもしれません。ただ、ライブでの体験と、純粋に音だけ、CD鑑賞における体験とは別物であることも忘れないでください。僕もいちミュージシャンとして、10年以上も人前で演奏してきましたが、ライブとは、その場の状況や雰囲気によって出来不出来がかなり左右されるものであり、純粋なる音体験、シビアな音との対峙はかなり困難な場でもあります。なぜなら、視覚的な情報が氾濫し、聞き手の集中力を削ぐからです。人は、音を集中的に聴き込もうとする際には目を閉じます。
もちろん、ライブの現場における触覚的な感受、予期せぬ事件性、生々しい身体的体験がライブ演奏の魅力ですが、CD、かつてはレコードと呼ばれていましたが、録音物とは、ライブにおける「出来不出来は蓋を開けてみるまで分からない」的な曖昧な態度は禁じられ、言い訳ナシ、つまりスタジオワークとは逃げ場の無い、誤魔化しの効かぬ、ミュージシャンのもうひとつのぎりぎりのライブ(生)の姿を定着し得る世界であり、ライブ演奏とはまた異質の厳粛さと緊張を強いられるシビアなフィールドであるように感じています。そして、本来の楽しみ、張りつめた娯楽とは、こういった生への実践、プロフェッショナルとしての自覚、謙虚さ、または真摯さの内から思いがけず炸裂するものなのです。

僕たちは、ジョン・レノンやボブ・マーリーのライブ演奏を生で見たことはありません。しかし、彼らの残したす音源を通して、音源のみで、彼らと出会っている、出会うことが可能でありました。

『堀内 幹 / one 』全8曲。すべて、テイク1~2。
聴衆のいないスタジオにて、その窓の向こうに広がる高尾の山を前にして、彼は一体、誰に向かって歌ったのか? どこに向けて、何に向かい歌っていたのか?

ミュージシャンにとって、もし奇跡が起こる瞬間があるとするなら、それはたぶん途方も無く静かな場所で起こると思ってます。

言葉に成らない、リピートのきかぬ、たった1回限りの向こう側の響きの神秘(マジック)を、物質という硬化なプラスチック盤に録音、記録すること、その奇跡に賭けること。



photo : 熊谷絵美 Emi Kumagai
design : 千葉健太郎 Kentaro Chiba

2010/06/01

荒野にて / Toko Emi and Kan Horiuchi

photo by Takeshi Kainuma

(余談ー)
先日、床絵美に誘われ、ライブを見た 新宿にて 『タテタカコ × OKI 』 日曜日 終電に間に合うように帰宅 その中央線にて 長い長い帰り路だ 下記の写真は 上記の、21世紀というなんにも無い時代 その荒野にて 新たなルートを 海図なき航海に旅立とうと、いや、旅立っているの? 二人のミュージシャン、堀内幹と床絵美、その付録 です ほんのりイイ感じで酔つぱらった床絵美が チンシもっこう睡眠中の僕をぬすみ写メ 遊び半分でアップ!
が、上記二人のポートレイトは遊びではない。


2010/03/07

堀内幹の「祈り」 / the Prayer of Kan Horiuchi



年始から、堀内幹(ほりうちかん)のソロCD制作のお手伝いをし、こちらの方でもすこしご案内させてもらいましたが、今回アップした動画は、じつは、マスタリング・エンジニアに渡すための音源の最終微調整をしていた昨夜、突如、このブログをご覧になっている皆様方に堀内幹の「祈り」というスタジオ音源をいち早く、ぜひ聴いていただきたい!と、いつものように熱病発作は起こり、それですぐさま彼の了解をえ、最初は24bit48kHzの音源をMP3ファイルに変換した“音”だけを載せるつもりでしたが、音楽のみをこのブログ・ページ貼り付ける方法がよく分からず、ならば「Windows Media Playerに読み込んで・・・」のはずが、アルバム『one』の宣伝にもなればと、ちょこっと撮りためてあった映像などを付けてみました。ですが、基本的には、音だけ、音楽だけに意識をこらし、聴いてみてくださいね。(「祈り」は本来6分15秒の曲ですが、動画の方は4分03秒、つまり途中でフェードアウトしています。)
たぶん、現在の日本のミュージックシーンにおいて(なんてもんがあるの?)、堀内幹というミュージシャンは、もっとも真摯で、凄まじい熱気をはらんだ方だと、僕は思っています。

2010/01/27

滲有無 / the Pit of the Soul


忙しい日々が続いている。
朝6時半起床。7時20~40分頃には家を出、その日の現場までの距離、町並みを、足早に撮影する(これは携帯電話で)。そして誘導棒をふり、案山子のように、成す術がないね、頭を下げ、人や車を招く。奪われてしまうのは個人名だが、慣れてしまえばこれはこれで清清しい時間。ある種の精神修養につながる。
そして、昼休み。毎日、カミさんが作るオニギリ2個、ポットに容れた温かいお茶とともに、これを15分ぐらいで済ませ、残りの45分間を撮影にあてる。
毎日、毎日、現場のロケーションが変わるから、この仕事に就いていなければまず足を運ばないような地区、町を散策することができる。ふと、視えて来れば、撮影、撮影…。
休憩を終え、またずっと立ちっぱなし。配置につき、人や車、工事車両を誘導する。辺りが真っ暗になる頃、午後5時~6時には開放となり、帰り道、美しい、艶やかな夕暮れの町を、オレンジ色に染まる空を、撮影しながら帰る。(これはキャノンのPowerShot G10で)。
家に着き、夜7時に夕食。30分程で済ませ、7時半頃には2階の仕事部屋に入る。PCに向かい、この2週間ほど、堀内幹の、high tail studioで録音したスタジオ音源のエンジニアリング、およびミックスダウン、サウンドスケープの作業。
前々回、このブログで紹介した堀内幹のアルバム『one』、彼の演奏はまったく問題ないが、僕にはまだ遣り残したことが。ちょっと納得がゆかず、ずっと懸かりっきり。
人のサウンドをいじるとはどういうことか?
人の歌声や演奏を、ただ録音するだけなら誰でもできる。ボタンひとつで、機械がしてくれる。僕はなにも関与する必要はない。いや、サウンドスケープ、ミックスダウン・・・これらの作業は、嫌がうえでもその演奏者の「存在」と相対することになる。その柔らかな秘密に触れることとなる。それが、時として苦しい。だが、うまくゆけば、歓びに繋がる。
「作品」を生むとは、ひとりではできない。寄り添うて、寄り添うて、和して同じない友愛の軌跡のうちに、たぶん育まれてゆくものなのだろう。
夜11時~12時までには就寝、明日の仕事(週休1日)に備える。