この楽曲「カゼノチ」は、
この作品で彼が使用した楽器は、アコースティック・
これまでこのブログで堀内幹の歌、
ちなみにこの「カゼノチ」は、スタジオでの1発録りですが、
堀内幹『one』リマスター
(このブログ内の堀内幹ラベル)
この楽曲「カゼノチ」は、
この作品で彼が使用した楽器は、アコースティック・
これまでこのブログで堀内幹の歌、
ちなみにこの「カゼノチ」は、スタジオでの1発録りですが、
堀内幹『one』リマスター
(このブログ内の堀内幹ラベル)
堀内幹の「借りものの歌」
すると、ふと、"無垢"という言葉が浮かんできました。続いて、
神さまと
同じ色さ
遠ざかる
風の中で
彼は「神」
さらに神さまと同じ色であることを告げた、教えてくれたあの「風」
借り物の
歌を歌い
皆と同じ
空を見てる
シンカソングライターである堀内幹は作詞作曲演奏と、全て自分1
たとえば、
森の奥で
繰り返し
回ってる
回ってる
一体、森の奥で何が回っているのか?
彼はそれを見詰めながら、決して言葉では明言しません。
なぜなら、それは眼には見えない「*」であり、
此処に、民族の意匠をもう必要としない堀内幹がこちらを見て笑いかけています。
借り物の
歌でいい
何も違わぬ
ひとつも違わぬ
長い間、ひとり歌を作り続け歌ってきた者が、
そして「羊飼いは笛を吹きながら荒野を降り」、歌を記し、荒野に放ち、
Piping down the valleys wild,
Piping songs of pleasant glee,
On a cloud I saw a child,
And he laughing said to me.
この世界は、民族の歌、民族言語、歌唱法など、
無数の個人的な歌が混沌と渦巻く現代社会の表層的な暮らしの中で
「それは私の中で失われた訳ではない。
この確信が、実は「借りものの歌」のコアであり、
何も違わぬ
ひとつも違わぬ
〜堀内幹の「コブシの花びら」について〜
この「コブシの花びら」という歌は、一見、
では、その歌詞、まず「月が消えたら」と始まります。
月が消える、この歌の舞台は夜であることを告げ、
身体上の眼が効かなくなれば、
月が消えたら
コブシの花びら
風を掴んで 飛んでゆく
「風」という言葉は、
川の向こうで
揺れる帽子は
闇を泳ぐ 子供たち
月が消えた夜に見えた幻影なのか?
川、帽子、闇を泳がざるを得ない子供たちへの哀悼……。
春待ち人は
コブシで消した
今日もずぶ濡れの微笑みを
春を待つ人とは、寒い冬の中にいる人、その凍えた心を、コブシ(
ずぶ濡れの悲しみではなく、これを微笑みとする。
月明かりが消えても、
流れた血の上
祈る背の上
コブシの花びら
舞い落ちる
流れた血、累々たる屍から流れる赤い血の上に、
月が消えたら
コブシの花びら
風を掴んで
飛んで行く
つまりこの「コブシの花びら」という歌は、
p.s
あらたまって確かめたことはありませんが、幹ちゃんはあの太古の花を予感させるコブシの花が大好きなんだと思います。
〜堀内幹の「祈り」その歌詞について〜
この「祈り」という歌は、15年ほど前に発売された堀内幹のアルバム『one』に収録されていますが、今回(経緯を書くと長くなるので、)あらためてリマスターをし、制作当時は「野暮だよなぁ」と禁じていたその歌詞についての解説?をしたいと思います。
まず、この歌詞は
この大地に 手をつき
この大地に 頭をつけ
身体を 私を あなたを
投げ出して
と、始まります。
この歌詞から連想されるイメージは、チベットの五体投地、信仰と大地への帰依の姿形ですね。
彼は10年ほど前に都会での暮らしを後にし、長野県へと引っ越し、農業従事者としての生活を始めましたが、彼はミュージシャンとしての活動を続けながら片手間に農業というスタイルは取れず、無農薬の米作りに全ての時間を注ぎ込むという徹底した態度で望んでいます。それは彼なりの五体投地であり、大地への回帰のための実践であるようにも映ります。
そして次に来る歌詞、
知らないことが
いつしか知らないことが
知っていることと
混ざり合って
降って来る 降って来る
ソクラテスの「無知の知」とは、簡単に言うなら、「自分は知らないということを知っている」ですが、では、何について自分は知らないのか?
山のように 積み重なって
空に昇り 雨になって
降って来る 降って来る
たとえば、真理について、この世界の果てについて、この世界が存在する理由、意味や意図について、個人的な体験をともなった「知」を得、生きた者、生きている存在は覚者以外には居ませんよね。
つまり「自分はなにも知らない」とは、真理を予感した魂の聡明な表明ですが、その「知らないこと」が、「知っていること」、唯一自分がここに存在しているという意識、その個別意識に目がけて「真理(知らないこと)」が到来し、降って来る。混ざり合うとは、ある種の恩寵の喩えであり、啓示を彷彿させます。
そして、次の歌詞で、ここに堀内幹の優しさが表れるのですが、
ただ 息を
少しだけ 深くすれば
いいんだ いいんだ
なぜなら、「自分は何でも知っている」という自負心を手放せない者たちにとって真理の到来とは苛烈な体験となるからです。
重なり合って 折れた身体
枯れた柳の枝が 揺れている
風がやって来た
届け
届け 祈りよ
彼がその歌詞によって描く世界には、この「祈り」という歌だけではありませんが、しばし人間界の地獄絵図のイメージが描かれます。
たとえば、戦場に置かれた者たちが眼にするであろう光景「折れた身体が重なり合って」。事が終幕した後の無常空間「枯れた柳の枝が揺れている」。狂気の場所で渦巻く叫び声と諦念をともなった異様な沈黙、堀内幹は自らをそこに同化させつつ、その奥深いところから自身の「祈り」を露わにします。絶望感が揺らめく煉獄と化した大地、これを変容させる真理や本来の魂の姿とは何か?
(地獄の描写とは、現代の歌世界では異例なことですが、たとえばウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』さらに1472年に出版されたダンテの『神曲』、我が国では千年以上前に書かれた『往生要集』、もっと遡れば『ヨハネ黙示録』と、文学の世界、言葉による表現の世界ではさほど特殊なことではありませんよね。)
この「祈り」という録音芸術としての音楽作品は、堀内幹の声、彼が弾くギター、歌詞、メロディー、ビート等が重なり合ってはじめて成立する世界なので、殊更歌詞だけを引っ張り出して言及することはあまり本質的なことではありませんが、少しでも彼の歌、彼の音楽世界を味わう為のヒント、きっかけになればと思い、数十年の時を経て、ざっと書かせてもらいました。
先日、沖縄本島最南端にあるFM局「FMたまん」にて堀内幹のCD『one』が紹介されたと、このブログでご紹介させてもらいましたが、その音源を(カセットテープ!でした)いただいたので、皆さんに聴いていただきたいと思います。
ただ、その音質が、遠い沖縄からの電波を、ここ東京の裏高尾の山の麓にてなんとか傍受したような、ミステリアス、ちょっと近頃では耳にできないアナログ感が炸裂しております。申し訳ない。
それと、これは急遽お知らせが入ったラジオ生番組だったので、堀内幹をおさえることができず、代わりに僕が出演することになってしまいました。
トーク、めちゃくちゃ下手です。緊張しました。
阿寒に行く準備をしていた前日です。
下記の文章は『堀内幹 / one 』のCDレビューです。
どうぞ読んでみて下さい。
*余談ですけど、僕の先輩に15年以上お付き合いさせてもらっているアブストラクトのペインターがおります。
ひとりの絵描きとして、僕は先輩の仕事、作品を敬愛し続けておりますが、彼は大の音楽好きでもあり、それこそ60年代70年代の本物のロックを聴き込んできた方です。
僕より一回り近く年上であるその先輩が、先々月、うちに遊びに来てくださったんですが、そのとき、こんなことを仰っていました。
「ブログ、たまにのぞいて見ているよ。それでさ、日川キク子さんってほんとすごい人だね!あと、堀内幹さん。彼はなんだかジミヘンみたいなサウンドを彷彿させるね。彼のライブ、見てみたいなあ」と。
ジミヘンみたいなサウンド、先輩はあまり説明しない方なので、ちょっと補足させていただくと、・・・堀内幹は、ジミ・ヘンドリックスの音楽から感じられるようなエネルギー、バイブレーションに近いなにかを放射している、という意味です。

2010年9月1日発売 (9MNT001) - here
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年明け早々の1月4日(月)---。
堀内幹が2本のギターを携え、裏高尾の麓にある僕の自宅兼作業場にお越しになられ、その2階にあるhigh tail studioにて、一気呵成に録音された彼の、その眩いばかりの祈りのカタチが、ようやく世に放つことが叶いました。
彼の凄まじい熱量を、一つの「CD作品」というイノチの塊を、ようやく皆さんの元へ送り届けることができます。
彼は、この10年もの間、「ライブにしか音表現の真実は無い」と、ひたすらライブ活動に専念し、ひとり果敢に生の現場にて数多の聴衆の前で歌い続け、今なおその揺るぎ無い意志はぶれることを知りませんが、この『堀内 幹 / one 』は 、彼の初めてのスタジオ録音盤となります。そして、堀内幹のライブを目撃し続けてきたファンにとってこのCDは、やや戸惑いの反応をなされる方々もいるかもしれません。ただ、ライブでの体験と、純粋に音だけ、CD鑑賞における体験とは別物であることも忘れないでください。僕もいちミュージシャンとして、10年以上も人前で演奏してきましたが、ライブとは、その場の状況や雰囲気によって出来不出来がかなり左右されるものであり、純粋なる音体験、シビアな音との対峙はかなり困難な場でもあります。なぜなら、視覚的な情報が氾濫し、聞き手の集中力を削ぐからです。人は、音を集中的に聴き込もうとする際には目を閉じます。
もちろん、ライブの現場における触覚的な感受、予期せぬ事件性、生々しい身体的体験がライブ演奏の魅力ですが、CD、かつてはレコードと呼ばれていましたが、録音物とは、ライブにおける「出来不出来は蓋を開けてみるまで分からない」的な曖昧な態度は禁じられ、言い訳ナシ、つまりスタジオワークとは逃げ場の無い、誤魔化しの効かぬ、ミュージシャンのもうひとつのぎりぎりのライブ(生)の姿を定着し得る世界であり、ライブ演奏とはまた異質の厳粛さと緊張を強いられるシビアなフィールドであるように感じています。そして、本来の楽しみ、張りつめた娯楽とは、こういった生への実践、プロフェッショナルとしての自覚、謙虚さ、または真摯さの内から思いがけず炸裂するものなのです。
僕たちは、ジョン・レノンやボブ・マーリーのライブ演奏を生で見たことはありません。しかし、彼らの残したす音源を通して、音源のみで、彼らと出会っている、出会うことが可能でありました。
『堀内 幹 / one 』全8曲。すべて、テイク1~2。
聴衆のいないスタジオにて、その窓の向こうに広がる高尾の山を前にして、彼は一体、誰に向かって歌ったのか? どこに向けて、何に向かい歌っていたのか?
ミュージシャンにとって、もし奇跡が起こる瞬間があるとするなら、それはたぶん途方も無く静かな場所で起こると思ってます。
言葉に成らない、リピートのきかぬ、たった1回限りの向こう側の響きの神秘(マジック)を、物質という硬化なプラスチック盤に録音、記録すること、その奇跡に賭けること。
