この写真集『インスピレーションの庭』は、9月15日(月)~23日(火)まで開催される高尾駒木野庭園で販売いたします。
『A Garden of Inspiration インスピレーションの庭』
判型:210×297㎜
頁数:108頁
写真点数:91点
製本:ソフトカバー
発行年:2025
定価:3,500円(税込)
この写真集『インスピレーションの庭』は、9月15日(月)~23日(火)まで開催される高尾駒木野庭園で販売いたします。
『A Garden of Inspiration インスピレーションの庭』
判型:210×297㎜
頁数:108頁
写真点数:91点
製本:ソフトカバー
発行年:2025
定価:3,500円(税込)
写真は、僕たちの眼前に、
写真家の写真集とは、実際、
(つくしのブログからの転載より)
海沼武史の写真集は、もうお手元に届いたことと思います。
この2冊の写真集について、私なりに感じたことを書いてみたいと思います。
横の『廻向∼transfer∼』と縦の『奇蹟 Lumière 』の2冊は、たまたま横位置の写真と縦位置および正方形の写真に分けたかのように見えるが、この二つには深い意味があって分けられていた。
横位置の本『廻向』は、横軸の世界が、そして縦位置の本『奇蹟』には縦軸の世界が流れていたことに気がついた時、私は鳥肌がたった。
『廻向∼transfer∼』は、この世界の営みだ。
チャプターⅠは、早朝や夕暮れの八王子の風景。
人々の営みの中で起こるあらゆる思いを、マジカルアワーが優しく包みこんで、私たちに静かに語りかけてくる。
チャプターⅡは、震災直後の陸前高田での光景。
悲しみと美しさが、見る人の心を押しては返す波のように行ったり来たりさせる。
チャプターⅢは、閉ざされた場所に立ち、そこでいつも見ている世界が映し出されている。
ある人はこれを「祈りだ」といった。
横軸とは、水平線。
エドウィン・アボットのフラットランド的に言えば、平面世界。
私たちはこの物理的平面世界の中であてもなくさまよう。
水平の世界に苦しむ私たちは出口を見出せず、チャプターⅢで天を仰ぐ。
そこに祈りがあった。
『奇蹟 Lumière 』は、縦軸。水平から垂直への移行。
『廻向』で仰がれた空は、『奇蹟』でいきなり青空に変わる。
そのタイトル通り「光」を捉えている。
『奇蹟』は、光、愛、神への賛歌とも言える。
天から降り注がれる神からのギフトが、青空、光をとらえた小仏川、光を食す植物たちやモノ、石たちに変換されて現れている。
そこに人間の苦悩はない。神はその苦悩を知らない。ただただ喜びが歌われている。
あとがきに「空とは物理的な現象世界で知覚しうる最大サイズの被写体」とある。
空が形なき被写体であるのに対し、チャプターⅤは「その空が明瞭な輪郭を纏い、『美しい存在』として自身を現す一瞬を定着させようとした」と。
まさに光が形をまとった姿。
『奇蹟』の最後は『廻向』に寄り添っている。
『廻向』は人が天を仰ぎ、『奇蹟』は神のその手が人に触れようとしている。
ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井に描かれたミケランジェロの『アダムの創造』のあの有名なシーンを思い起こさせる。
縦軸と横軸が交わったところにこの2冊の写真集を見る。
そこはすべてが融合し実相世界が垣間見えるところだ。
一見あまり人を喜ばせないかのようなこの2冊の写真集。
それを意識的に覗いていくことによって、それを見ている人自身の内面が現れて、知らないうちに解放されていくのかもしれない。
何度も見返したくなる不思議な写真集である。
『廻向~transfer~』
判型:210×297㎜
頁数:122頁
製本:ソフトカバー
発行年:2024
限定80部(非売品)
『奇蹟 Lumière 』
判型:297×210㎜
頁数:140頁
製本:ソフトカバー
発行年:2024
限定80部(非売品)
"この世界は、否定や拒絶によってではなく、祝福することにより、光の内で昇華する。"(マグマン大使)
今朝、2冊の写真集のデザインおよびレイアウトをお願いしたカミさんであるアーチストの築紫に「ちなみに作業はどのくらいまで進んでいるの?」と訊ねたら「ん〜、8割ぐらいかなぁ」と。
彼女とはもう30年以上暮らしているが、ときおり大喧嘩をする。
大喧嘩と言っても、物が飛び交うような派手なものではなく、互いの言い分をその場の昂った熱い雰囲気に乗せて交互に言い合う絶叫系で、どうしても「どっちが悪いのだ?」に終始する。まさに傍聴人のいないお茶の間裁判。
「で、何部ぐらい刷れそう?」
「70部ぐらいかな〜」
今回の写真集のアイデアが瞬いた時、「50部、世に出せたらもう充分。いやいや、30部でも御の字、有り難いこと。この世界に30冊しかない写真集、なんかカッコええ」と、そんな風に考えていたし、「もしお金が集まらなければ写真集にする必要は無いってことだしな。まして友人や知人らに求められもしない、その心に望まれもしない写真集なんか出してもしょうがない」なんて、今までの僕からすればアリエヘン感情が、思いも寄らぬ考えが起こっていた。「でも、編集作業の方は、今回写真集が出るにせよ出ないにせよ、これを機に完結させないとな!」
ちなみに、自分の音楽や写真にまつわることで、誰かにものを頼まざるを得ない時は、いつもハラハラドキドキする。あ、音楽制作に関しては今のところ全て自分1人でこなせる枠内にあるので、誰かに何かをお願いすることは無いが、写真の事となると、たとえば写真展の際に画廊や会場側がDMを用意できない場合は、いつも築紫にデザインをお願いしている。で、なぜか、必ず1度は喧嘩となる。で、今回はすでに2度ばかり……。
昔、美意識高い系という言葉が流行ったが、たぶん僕の友人たちは僕について「美意識高い系の完璧主義者」と思っているんでしょうね。
でも、本当は「失敗したってイイじゃん。やるだけやったら肩叩き合いじゃね?基本はさ」なんだけど。
仕事から戻ると、築紫から「ちょっと表紙のデザイン案、見てよ」と言われ、また危うく口論が勃発しそうになったが、さすがにお互いの感情パターンに乗らずに済んだ。
いや、喧嘩したってイイじゃん。ゼェゼェハーハーしたってイイじゃん。すべてがスマートに丸く治まるなんてことはなかなかこの世界ではあり得ないし、上部の仲良しこよしよりハートのシンクロの方が素敵。と、今日は子供っぽい文章となりました。
〜音楽についての雑感〜
「究極の音楽とは、音楽が始まる前の煌めくような自在さと、音楽が終わった後の深い静けさ、沈黙の豊かさを気づかせる為に存在する。」(ある作曲家の言葉)
よくコンサートで、オーケストラが演奏を始める前に各楽器の奏者らが音合わせをする1〜2分の時間があります。その際に会場内に鳴り響くサウンドは方向性を持たず、てんでばらばらで、無調音楽とも呼べない、それでも生楽器が持つ艶やかな生きた音色が蠢く瞬間ですが、僕はその様々な楽器が放つ音群の響き、大勢の演奏者の音合わせを聴いている時間がとても好きです。
そしてチューニングが終わり、指揮者が登壇し、拍手が湧き起こり、作曲家が描いた音楽作品を、奏者らはスコアと指揮棒を見つめ、指揮者は奏者らの意識が自分に集中していることを確かめ、始まりのタイミングに注意を払い、そして客席にいる鑑賞者たちも無闇に音を立てぬよう、コンサート会場では、そこに参加した全員がその身体と心を集中させる。
そして演奏が始まる。
音楽、オーケストラ、演奏家たちの協働によって生み出される壮大な響き……。そこで繰り広げられる時間芸術である音楽作品は、作曲家が「あーでもない、こーでもない」と、苦心の末作り出したもの。
だが、一体なぜ、ある個人の頭の中で生まれた音楽に、多くの人間が、楽器奏者一人一人がなぞり、従わなければならないのか?
「自分の内側にすでに描かれたスコア、それに触れる者は神を知ることになるだろう。」
これは誰の言葉だったか……。
まず音を出す。そしてその音を聞く。次なる音がやって来る。音を追い、音に合わせ、音と重なり、さらなる音を紡いでゆく。
この、何処からやって来るのか定かではない音を掴み、音を楽しむという自立的な歓び、この無邪気で独りよがりの冒険を捨ててまで、他人が描いた世界観、作品を再現するために練習に励むとはどういうことか。
もちろん誰かの曲を演奏する歓びというものはあるだろう。作曲家が作り上げた音楽作品を自分の身体に染み込ませた演奏技術によって再現し、聴く歓び。だから楽譜とは再現されることを可能にする経典。演奏とは写経のようなものか?
音楽をする行為とは、音楽を聴くという行為と地続きだから、実は演者も聴者も同等ですが、そもそも音楽とは人間が内的な自由を想起する、内なるスコアに触れる為のもの。人間の本来の姿、本質が、「自由」であったことを想起するためのトリガーのひとつだ。それは、数多の経典と類似した目的を持っている。つまり、音楽作品や経典は、目的ではなく手段としてのみ、その存在理由がある。
フィリピンの作曲家ホセ・マセダは多分その事に気づき、彼なりのアプローチで作曲家としての実践を続けたが、自分の音楽を具体化するために「多数の演奏者を必要とした」という意味では、やはりクラッシック畑の人、オーケストラの消滅を吟味する所までは行かなかった。
21世紀は、飛躍的なテクノロジーの進展により、録音技術、電子楽器、コンピュータなどが誕生し、それこそたった1人で作曲と演奏とエンジニアリングを兼用することを可能にした。さらにインターネットの普及により地球の裏側でごちゃごちゃやっている見知らぬ人々の音楽を聴くこともできる。
だが、音楽を作る、作曲するとは?音楽を聴くとは?この問いを問い詰め、手段として存在している音楽の本来の目的を意識化し、音楽を制作している者や音楽を聴いている者はまだ僅かだ。
「音楽の究極的な目的は、神の栄光と魂の浄化に他ならない。」(ヨハン・ゼバスティアン・バッハ)
※昨年の8月、鬱のド暗闇の底で苦しみ喘いでいた僕の前に彗星の如く現れ(笑)、ものの見事に引っ張り上げてくれた方が、昔作った僕の音楽について自身のブログに書いています。ご興味のある方はこちらへ。
〜西行について〜
12世紀の歌僧西行の辞世の句に「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」とあります。
「虚空ノ如クナル心ノ上ニオイテ、種々ノ風情ヲ色ドルト云ヘドモ更ニ証跡ナシ」と断じている者の心、証跡ナシとは、現象世界(種々の風情)が確かに実在しているという証拠となる痕跡はないと、そんな彼の千里眼から生まれた言葉であることを踏まえ先の辞世の句の内に入ってゆくと、この和歌の裏面には子供のような無邪気さと笑いに包まれている西行の姿が見えて来るようです。己の死について思い巡らしながら、実はまったく自分が死ぬことについて気にもしていない、彼特有の輝くようなユーモアが。
西行は、四季折々の風情を詠んだ歌人として知られていますが、「自分が歌を詠むのは、遥かに尋常とは異なっている」という明恵上人に洩らしたこの言葉、感慨には、この世界の全ての現象、事象は移り変わり、そこに恒常不変なるものはないという空観(emptiness)があるようです。
では、なぜ歌を詠むのか?
それは花や雪、月という無常なる対象を通して不滅なるモノや事を歌の中で、歌を通して甦らせようとしたからでしょう。なぜなら、歌うことが、まさに彼にとって至福の瞬間だったからです。
僕が西行をとても身近に感じるのは、たぶん似たような視座を抱えて写真に取り組んで来たからかも知れません。
西行の心象とは、この世に生きる、あらゆる人間がやがて通らざるを得ない天上の歌が遍満する欄干のない橋だと思います。
〜芸術作品と真理について〜
芸術作品の限界とは、それが人間の知覚機能に依存している点です。
たとえば、眼の見えない者にとってダ・ヴィンチの「モナリザ」は存在しません。耳の聞こえない者にバッハの「フーガの技法」は存在しない。さらにアフリカやアマゾン奥地の村で生まれ育ちそこから一度も他所へ出たことない人間たちにモナリザやバッハは存在しません。
つまり「アートワールドの観衆に提示するために制作された種類の人工物」である芸術作品とは、ある限られた世界、限られた人間、限られた知覚者たちにしか歓びをもたらすことが出来ないのです。
もし絶対的、普遍的真理があるとするなら、それは芸術愛好家にとっても、アフリカやアマゾンの原住民にとっても、等しく享受され得るものでなければ真理、真実とは言えません。真理とは、環境の違いや人種の差、身体能力もしくは身体的な障害や知覚レベル、思考能力、経験値などの差、物理的な条件等々はまったく意に介せず、あらゆる人間に公平にもたらされるものでなければならないのです。故に、芸術作品とは、真理そのものではありませんが、その作品を鑑賞する者の意識に、知覚を通じて真理を呼び覚ます役割は担っています。
真理は、時代や状況の推移に影響を被ることなく、永遠であり、人間の思考や感情、知覚の制限なども受けないはずなのです。
では、話しを飛躍させて、真理にとって人間の、あらゆる生命体の死とは何か?
時間と空間が混ざり合ったこの地球、宇宙で起こる〈死〉とは、人間の知覚に依れば「事実」かも知れません。が、絶対的な真理からすれば、これは「真実」とは言えません。なぜなら、真理とは永遠の謂いであり、死は水平の時間軸上の現象であり、空間という場(これは量子の世界でも同じ)を必要とするからです。
ではなぜ死があるように見えるのか?もしくは死を知覚するのか?
それは、人間の知覚自体が永遠なるものではなく、あくまで真理を垣間見るためのジャンプ台、限定された道具だからです。
時間や空間を必要とする人間の芸術作品とは、たぶん真理を映し出す鏡、美しい影なのでしょう。
真理を指し示す〈標〉としての芸術作品。
ただ、芸術作品を特別視、重要視しなくとも、あの空、あの山、海も川も、そしてたぶんあなたも僕も、あらゆる森羅万象が織りなす形象すべてが真理からすれば標であり鏡と言えます。
この夢幻的世界、この世界内では、身体に縛られた時空間上の知覚を通じて真理に触れる、呼び起こす機会を人間に鮮やかに提示することが本来の芸術家の仕事ですが、実は最も大切なことは、芸術作品という現象世界に現れた知覚の産物ではなく「芸術体験」の方です。
自分たちの内と外を無効にする〈真理〉を体験すること。なぜなら、それは時間と空間から解放される瞬間であり、死や人間であることからも〈自由〉になることだからです。
では、どこに悲しみがあるのか?
芸術作品とは、〈真理〉への接近、これを可能とする非二元的代替物であり、芸術体験とは、まさに真理を知る、思い起こす再生の瞬間なのです。
(と、一気呵成に書いてみたが、まとまんねー)
〈写真集のメイキングレポート〉と題して、その時々に思いついたことをつらつら書いていますが、昨夜「今度ブログに親父の写真を載せようかと思ってんだよね」と、只今写真集のデザインワークに専心中のつくしに何気なく振ったら、「え?!写真集に入れない写真を載せてもイイの?」と返され、「あれあれ?ブログのメイキングレポートに付けた写真は写真集には載せんけど」。
今回の2冊の写真集には人物写真、ポートレートは1枚も出てきませんが、なんとなくこのブログ、経過報告的な文章に人物写真をアップしてしまうのは、たぶん、言葉にするとダサいな、まぁ、人から人、人と人、その関係性から生まれる何かだから。
このブログのメイキングレポート⑥で使用した写真は土建屋の社長で、ときおりウチに絶品生卵のお裾分けに来る人。
メイキングレポート⑨の女性の方は、今年の6月に逝去されたつくしのお母さん。「葬儀用に必要!」と言われ、ふと「なんか随分前に撮影したよな〜」と思い出し、慌てて写真ストックの中から引っ張り出し、無事葬儀に使われたもの。
自分が撮った写真が葬式に使われるのはかなり変な気分だけれど、「あぁ、確かはじめて葬式に使われたポートレートは親父の写真だったよなぁ」と懐かしくなり、先日イルフォードの印画紙の箱の中に無造作に放り込まれた過去のストックを物色してみたら、あらら、1枚のプリントが出てきた。
だいたい葬式に使われるポートレートは総じて不吉で、別に故人の顔写真を最期に飾る必要なんてあるんだろうかと訝しく思うタチなので、来るべき葬儀のためにある人間のポートレートを撮るなんてことはあり得ない。「なになにの為に撮っておこう」と言う感覚がそもそも僕には無いし、それはとても悲しい撮影動機のような気もする。もっとも日本の葬式の在り方、その仕組みや段取りについてもめちゃ懐疑的……。
ただ、自分が撮ったポートレートが葬式に使われるのは、親父の時にはまったく気づかなかったけれど、つくしの母さんが亡くなって、葬儀場で遺影として改めてその写真に触れた際にはあまり嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、光栄に思った。
故人を偲んで、というのはまるで違う。
追悼はあくまでも個人的なものであり、自分の意識のある内は故人と共に在り、だからその人間の一等美しい表情を胸に置いておきたい。
⁂今回の写真集のデザイン担当つくしのブログはこちら。
〜ブックデザインについて〜
本の装丁、写真集の表紙、中のレイアウト等は、僕がアイデアだけ出して、あとはカミさんにお任せします。
ブックデザインや本の体裁は、こだわろうと思えばいくらでもこだわれるのですが、予算の都合上、高級志向はほぼ放棄。
たとえば、写真が印刷される紙はマットにするのか、それとも半光沢?その紙の種類は?質感、手触り、厚さは?ブックカバーは付けるのか?箱入りの豪華本にするのか、思い切って桐の箱に入った写真集は?と、キリがありませんが、今回の僕の2冊の写真集に関して言えばそれはあまり本質的なことではなく、逆に、与えられた条件下でどうやったら効果的なモノを作り出せるのか、そのイメージの到来に心開いている方が面白い。
ちなみに世の中のパッケージデザインに触れてひどく感心したことが2度ほどあります。
ひとつは、ニューヨークに住んでいた頃、友人の奥さんを通じて「ティファニーブルー」を始めて目にした時。
2度目は、カミさんの友人からのフランス土産アラン・デュカスのチョコレート、ロゴがデボス加工されたピエール・タションのパッケージデザインに触れた時。
この2つは、いわゆる本の装丁、ブックデザインではありませんが、中身、内容、意味を包み込む身体、入り口やドア、お店の看板に相当すると言う意味では同じこと。素晴らしい仕事、感覚だなぁと感嘆しました。
友人や仕事仲間、理解者からの寄付金を募り、今回のような形で写真集を作らせていただくのは、これが最初で最後となりますが、写真集の内容が内容だけに、またその経緯ゆえ、装丁とかパッケージデザインという外装、外ズラにこだり過ぎるのはちょっと違う、カッコ悪いなと感じるのは、たぶんに10代の頃に聴いていたロック音楽の影響によるもの。
確か70年代後半のカリフォルニアを舞台にしたアメリカ映画の中に、ときおり新聞配達員が新聞の束をドサっと玄関先に投げ込む、朝の訪れを伝えるシーンがあります。早朝の柔らかな空気と瑞々しい朝日が射す庭付きの一軒家が立ち並ぶ長閑な通りを、新聞配達員が走りながら、郵便ポスト下の芝生の上に小気味よく新聞を放り投げるシーン。日本では見かけない光景ですが、そんな潔さで、皆さんの元へ2冊の写真集が届けられたら「なんかいいなぁ」と、勝手に思っています。
引き続き、写真集のための写真の並べ方、編集について書きますが、そもそも編集とは、肝心の1枚1枚の写真に力が無ければ、いくらどう並べ替えたところであまり実りはないです。
写真集のための編集作業とは、あくまでも1枚1枚の写真を丁寧に選び抜き、どのような展開、ページめくりをすれば撮影者の世界観が読者により伝わり易くなるのか、ここが肝心なところです。
1枚1枚の写真のトーン、感情、音色を読み、数珠玉のように繋いで、そこから生まれるハーモニーに乗り、時に切断し、これはリズムとなり、ある一定の緊張感を保ちながら、それぞれの写像が無意味な潰し合いや凡庸な意味深さは回避し、偶然性には心開き、そこに直感を呼び込み、遊び心やユーモアも大事にする。そして総体として、あまり押し付けがましくならないようにその写真家の歩みを描くことに、その醍醐味はあります。
ただし、こういった写真集、編集の嗜好性は、僕の好みと言えば好みなのです。
たとえば、写真編集の妙技と言いますか、僕が今まで腐るほど見た様々の写真家たちの写真集の中で1番「見事だな〜」と感じたのは、ロバート・フランクの『アメリカ人 "Les Americains" 』(1958年)ですが、フランクの写真表現自体は、私的な物語り性を濃厚に帯びてしまうので、僕の写真表現のスタイルとは異なります。
僕がいわゆる写真を使っての物語り、物語性にあまり興味がないのは、人類はそれこそ天文学的な数の物語をすでに持っているという歴史的事実と、物語りは時間の存在を容認してはじめて成立するという物語の条件についてやや違和感を持っているからです。
写真とは一瞬の出来事の記録、表現なので、この一瞬、刹那とは、〈永遠〉を開示しうる唯一の時間となります。写真は映画と違い、過去から未来へと経過する横軸の時間を切断する「斬り込み」を可能とするメディアなので、瞬間と瞬間を繋ぎ、時間経過があるように見せかけつつ、目指すべきは〈永遠〉であり、これを垣間見せる瞬間を写真は提示できると考えるからなのです。
あ、もちろん物語りの内に〈永遠〉がよぎる瞬間はあります。
昨夜は、写真集の編集作業が大詰めを迎え、「ん、このまま行った方が良いな」と、夜12時ぐらいまでPCモニターの前で粘り、僕がらみの作業をあらかた終わらすことができた。
これはモノづくりをして来た人、いや、職業人には分かると思うが、「今がダッシュ!」というゴーサインはたぶんに本能的なもの。が、その合図はこれまでの長い経験によって裏打ちされている(と、思いたい)。
写真の編集、画像の微調整は、その日のコンディション、眼の状態だったり、光源、自然光や部屋の明かり、写真の内容等、諸々の影響を受ける。
昨夜は、よく見えた。もちろんそれがやって来るまで実はずっと泥棒や張り込みデカのように待っていたのだが。
で、満足感と疲労感がジョイントする布団の中で、ふと若い頃の暗室作業を思い出していた。
当時は、昼間にフィルム現像、夜は紙焼きと、かなりシンドイ地味な作業をしていたな~と。
暗室用レッドライトの不気味な暗がり中で、フツーに明け方近くまでプリントをしていた。ザ体力!今じゃ考えられない。そんな写真にまつわる作業を15年ぐらい続けて、デジタルの時代が到来し、フィルム現像タンクや超どぎつい化学薬品、さらに暗闇の中での液体まみれの作業から解放された時には、実はせいせいした。
もちろん、そのモノクロフィルム、ベタ焼き、白黒プリントは散々やって来たので、そこで養われた微細な視覚はアナログ、音で言ったらレコード体験?そーいった経験を通過した上でのデジタルだから、アナログ経験を通過していない人たちよりアナログの恩恵が身体に染み込んでいるんで感覚的には多様でしなやか。(笑)
デジタルに移行して、写真をPhotoshopでごちゃごちゃ弄らないのもモノクロのプリント、紙焼きをして来たがゆえ。さらにデジタルに移行し、あまりモノクロ写真を撮らなくなってカラー写真ばっかもまたそれが理由。
写真は、この世に誕生してまだ200年ぐらいの新参モンだが、その写真がどのような工程で上がって来たのか、アナログ工程か、それともデジタル?ここら辺にはさほど執着していない。どっちだって良いのだ。上がり、写真がどうかだけ、ポイントは。時代の道具を使って時代を越えるような予感をその作品の中に込められるかどうかだけ、1番重要なのは。
p.s あ、普段は夜の10時ぐらいさっさと寝ます。