写真は、僕たちの眼前に、
現象を通じて、これを踏み台にし、 視覚の可能性を押し開いてゆくことへの意欲や意志を持つこと、 これが「見る」から「観る」への移行となり、 これまで写真家や鑑賞者が見過ごしてきた新たなる視覚の開示へと 繋がってゆきます。
この「観る」については、以前このブログやFacebookでも 取り上げましたが、宮本武蔵の「観の目つよく、見の目よわく」、 これは身体上の目を使って見ることだけに頼らず、 心の目で観ようとする、心眼を磨くことの大事さを伝えています。 肉眼による知覚はすべて形態上の差異に依存せざるを得ませんが、 心の次元には色や形はありませんので、 そこで捕まえることの出来る世界とは、 肉眼による知覚世界とは全く異なる新しい世界、 様相を呈しているはずです。心眼による目付け、この眼差しで「 観る」ことは、 前世紀には叶わなかった写真家にとっての新たな挑戦であり、 撮影行為の新しい試み、冒険となります。
なぜなら、世界はすでに撮り尽くされ、似たような現象、 表層的な、網膜上の差異のバリエーションを、 写真家は繰り返し撮影しているだけだからです。
そして現代では、動画による表現が主流となり、世界の( 表層的な)出来事の記録、 伝達手段として写真に期待された役割りは影をひそめ、 情報量の的確さや密度においては動画の方がより優っています。
しかし、動画は撮影者および鑑賞者の「観の目」 の開花については抑圧的に働きますが、「瞬間」 を捉える写真の方は、撮影者の意識次第では、 現象世界を別の見方で見ることを促す、「観の目」 の誘いとしての機会を十分に提示しうる、 形而上の機能を秘めたメディアへと変容を遂げることが可能なのです。
作品の内に、それを鑑賞する側が「内観」へと向かう為の配慮、 スペースを作り出すこと。意図的に作り出すことは出来ませんが、 そこに向けて絶えず心や視を意識的に開き、磨いてゆくこと。
AIによる合成写真が興隆すればするほど、この「内観」 へと誘う、「心眼」による写真作品の重要度は増すことでしょう。 なぜなら、表層上のアレンジや編成しか知らないAIには五感を超 えた世界は迫り切れず、AIとは、 五感の向こう側の世界を知覚しようとする意欲や機能とは無縁な、 心を持たない否芸術的な道具だからです。
美(芸術)とは、この世のものではないのです。

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