2025/03/31

goblet~reprise リーラとビッグバン


 

「わたしたちはここで学んでいることを通じて、つぎの新しい世界を選びとるのだ。もしここで何も学びとれなかったら、次の世界もまたここと同じことになる。」

(『かもめのジョナサン』リチャード・バック)


ヒンドゥー教では、この現象世界、宇宙の営みを「リーラ(lila)」と呼んでいます。その意は、この宇宙や世界で起こることのすべてが「神の戯れ」であり、宇宙が始まった理由も神のほんのお遊び……? これ、かなり大胆な考え方ですね。

ちなみに宇宙の始まりについて、1948年に物理学者のジョージ・ガモフがビックバン理論を提唱しましたが、それ以前は「宇宙は不変であり定常的に存在していた」という考え方が天文学者の間では支配的であったようです。ただし「天地創造とは神によって成された」と漠然と考えていた人間が(たぶん)ほとんどで、それは聖書や世界中の神話などからも窺い知れます。

このビックバン理論以降は、この宇宙の始まりは神ではなく大爆発(ビックバン)によるものという推論が一般常識となりました。「およそ137億年前に何もないところからとても小さな宇宙の種が生まれました……同時に、急激に膨張(インフレーション)が始まり……」これも十分お伽話みたいですが。

「リーラ」について、もし完全無欠、絶対、無限であり常住不断を象徴する「神」が、破壊と創造の悪循環、時間と空間の法則を、男と女、生と死などの二項対立の世界を作り出した理由は甚だ不明。それはビックバンという一大イベントと同様に、明確な目的や意図を見出せませんよね。

「御心のご意志は人知を超えているのだ」と思考停止することは実に簡単なことですし、では人間がこの世界でじたばたと生き死にを繰り返すことの無意味さを神は良しとしているのか?絶対的な愛の存在である神が!

やはり現代物理学の達成であるビックバン理論やインフレーション理論こそが真実なのか?しかしこの推論では、人間は偶然宇宙に生まれた非力な奴隷に過ぎず、神とは、所詮人間が考えついたアイデアってことになります。

話を戻し、ヒンドゥー教の「リーラ」神の戯れという視座について勝手な補足ーー。この宇宙の営みとは、神そのもの、神本体の戯れではなく、完全無欠、全知全能の神にとって時間や空間、物理的な五感の世界、宇宙規模の遊びなど無用なので、強いて諧謔的に表現すれば「眠りに落ちた神仏の子の戯れ」と言い変えた方が、神仏への定義づけを損なうことなくなんとなく合点がゆきます。

神(真理)本体から分離、独立したいと言う考えがなぜか神仏の子に生まれ(これが欲望の起源かも知れない)、その誤った衝動により"意識"が誕生し、と同時に、意識(自)は自らを確認するために対象(他)を必要とするので、この物理的な大宇宙という対象物を「夢を見る」という方法により創作、想像した、と。

この推論は、釈迦の言葉、彼は唯一神の存在を認めませんでしたが、「この世はマーヤ(幻想)である」の裏づけにもなるし、かなり信憑性は高いような気がします。

繰り返します。神が眠ったり夢を見たり欲望を抱くことはその定義上不可能なので、神から分離することを目論んだ神仏の子が、眠りによって神から離れた自分だけの夢のフィールドで創造主に成りすます。


この宇宙とは、神仏の子である〈意識〉が夢を見続けるための舞台であり、それが目的なので、いわばゴールのない虚無(無明)の彷徨いです。

宇宙物理学者が想定するビッグクランチや熱的死などの宇宙の終焉とは、意識の終焉とも言えますが、夢を見続けようとする意識がやがて夢から目覚める、これも宇宙(幻想)の消滅、なので目覚めようとする意欲と目的を持つ以外、この世界での営みは(夢なので)ほとんど無価値であり無意味かも知れません。

そして目覚めが、たまたま(?)個人の意識上で起こった際に(もちろん意識から分割された個人の意識でしか起こりようがありませんが)、覚者と呼ばれる存在がこの夢の世界に現れます。そした彼らは彼らが生きるその時代、適宜に応じた表現と言葉により真理を伝えようとするのでしょう。


「神がエゴを創造し、またあるときは、エゴの消滅を徐々におこなっていくのも神、というわけです」

これはマハラジの元で学んだラメッシ・バルセカールの言葉ですが、神がエゴを創造したいう発言は、もし神が完全であるなら、完全なものは完全なものしか創造出来ませんので、この物理的な宇宙を必要とした意識、夢見るエゴを作り出すはずはありません。たぶん彼の神という言葉は、古今東西の神話等に登場する神のイメージが紛れ込んでいると思います。身体がエゴの住処であり、意識がエゴの母体となるので、マハラジは「意識以前が真実である。それ以外は存在しない」と、エゴや意識を一掃した場所を指し示そうとしました。


ある人がバスターミーの家の扉をノックする。『誰にご用?』

『バスターミーにお目にかかりたいのですが』

その人にバスターミーは言う。

『お引きとり下さい。お気の毒だが、この家には神だけしかいない』

(『イスラーム思想史』井筒俊彦)

 

goblet~reprise(2020年作) 



 

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