2025/03/28

letter from farther あなただよ

 


信念ーー。

自分が、何を信じているのか、何を信じようとしているのかを明らかにすることの重要さ、大切さとは、自分の信念が自分の知覚するものや思考内容を方向づけ、それに基づいて自分が自分の世界を作り出し、自分が信じる通りの世界を見、満足または不満を抱き、心はそこに定着され、自分の信念が創作した世界への新しい眼差し、もしくはその世界からの跳躍を困難なものとするからです。


日本最古の書物とされる『古事記』の天岩戸伝説と呼ばれている物語りには、太陽の女神である天照大御神が、自分の弟である須佐男命の度を越した悪戯に呆れ果て、天岩屋戸という洞窟に閉じ籠もってしまったというエピソードがあります。太陽を失った世界は真っ暗闇となり、秩序は乱れ、様々な厄介事が起こり、これを案じた八百万の神々が慌ててニート化した天照大御神をなんとか外に連れ出そうと策を練り、無事成功したよ、世界はめでたく光を取り戻したよと続くのですが、僕は詳細には『古事記』を読み込んでいないのでかなり心許ないですが、この天岩戸伝説と呼ばれているストーリーを、神道を信仰している方々がどのような解釈をなされているのか?また信じていらっしゃるのかは分かりませんが、世界には無数の言い伝え、迷信、神話があり、旧約聖書、インド神話、北欧神話、ゲルマン神話、等々、その内容は、もちろん読み方によっては示唆に富んでいると思いますが、まず共通して言えることは、どれも冗談みたいなシュールさで、嫉妬や復讐、殺戮と凶暴性が渦巻く世界が豪胆に描かれておりまして、読み手に「神とは恐ろしい存在である」と印象づけます。

神話は、この世界で暮らす人間たちの心に、良きにつけ悪しきにつけ多大な影響力を持ち、たとえば日本全国各地に五万とある神社では、この『古事記』に登場する神々が今なお堂々と奉られ、参拝者はそれぞれの思いや願いを込め「ニ拝ニ拍手一拝」という作法により手を合わせます。

一神教と多神教、『古事記』には沢山の神さまが意味深な名前で登場しますが、基本的に神は名前を必要としませんから、複数の神を登場させることは、1、2、3……という数字を予感させ、これは時間と空間の舞台であるこの現象世界内でのみ有効な概念なので、そもそも自他が融和した神の世界に数えるとい行為は起こるはずありません。もし起こるとするなら、1、1、1……

さらに、壮大な神話世界を構成するために様々のキャラの異なる神々を登場させる必要はあったのでしょうが、他の神々の行いに悩み、悲しみ、怒るというこの一連の感情の動きはあまりにも人間的で、誰かとの関係が上手くいかずに不貞腐れて引き篭もる神とは、真実の神の似姿ではなく、人間によってイメージされた神であり、天地創造とは創作された神によるものではないのか?と、大きな疑問を残します。


神話とは何か?

その書物、物語りを通じてこの世を超えた事象、世界への理解と人間を導こうとするのではなく、荒唐無稽さや奇抜さ、「神は恐ろし!」の印象を与える物語りとは、ややもすると世界や人間の本質、宇宙の秘密への接近、存在への理解、洞察、直知の妨げになります。

さしずめ小説とは、往々にして誰かの頭の中の三面記事の連なりですが、世界中に数多の神話が存在し、少なからず人間の心がその影響を被る意味とは何なんでしょうか?

『古事記』に触れ、この世界の諸相を何の先入観も持たずつぶさに眺めれば、実はこの世界そのものがまだ神話の延長としてあるようにも感じます。人々の心は神との直の交流を断たれ、「神は恐ろし、敬して遠ざけるべし」と、怯える子羊のように神をなだめるための供犠、祈祷、祭典を考案し、それに権威と威厳を持たせ、有無を言わせぬ盲信を強要し、あくまでも神をこの世でもっとも恐ろしい存在、対象物として扱ってきましたが、こういった大仰で、形式的、公共的で組織的な形態の数々を、非知覚的である神は望むのでしょうか?

僕たちは今なお微睡んだ神話的な夢の営みに翻弄され続けているのかも知れません。


ある村の、神主不在の荒れ果てた小さな神社の掃除を始めた夫婦がいます。この方たちとは2年ほど前に知り合い、その経緯をいろいろ伺って、しばしお付き合いを重ねていく内、ふと気づいたことがあります。この夫婦は、神社という形、神社という幻想の上で、掃除という行為を通して幻想ではない場所へ一心に向かおうとしているのではないか?と。 

放ったらかしにされ、寂れ果てた神社を、別段誰かに有り難られることもなく、またそんな期待も一切持たず、ただただ歓びに包まれて、形式ばった法衣や斎服とは無縁な無名の者として、ただ掃除をする、掃除をする……。その心の様がなんとも美しく、真っ新な始原の信仰の姿とはこういうものだったんじゃないかと垣間見せてもらったような気がしました。

僕らは世界という夢の舞台で、具体的な行為やこの身体を通じてのみ、本質(真理)に迫ることが出来ますが、言葉や作法、教義、祭礼、神話など、上部のことが余りにも力を持ってしまうと、心が速やかに神の世界へと貫入することの障壁となります。


外的な神社とは、本来、人間が自分の内なる不壊の社に気づき、それに触れるために在るのでは?

これは教会の使命が、心の内なる祭壇を見出し、一人一人が自分の内なる神との交流を復活するためにこそあるのと同様に。

たぶん自分の内側に形なき神を見出した人間は、1、1、1……自分が神の一部であることを知り、物的な神社や教会はもはや必要としないことでしょう。もし望むとするなら、それはただ自分以外の人間のためにです。


古の心も形なし。今の心も形無し。心のみにして形を忘るる時は今も神代、神代今日、今日神代。世の中の事は心程づつの事なり。心が神なれば即ち神なり。黒住宗忠)


 〈質問:世界最大のパワースポットは一体どこにあるのですか?

ニサルガダッタ・マハラジならきっとこう応えると思います。

「あなただよ」


letter from farther1994年作)

 

 



0 件のコメント: