Y氏
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広大なひろがりを感じさせる野外空間が特徴で、そのスケールを強調するため
にヒューマンサイズなもの、たとえば舟や橋、田んぼや砂浜等に直立した人物が添えられる。このような“景”には、癒しに近いものを感じるらしく、おおむね女性たちには好評のようである。
X氏
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この作家の仕事は今まで幾度となく見た。Y氏の仕事における計算みたいなものや
、コンテキスト(画面構成におけるもの。シャッターを押す以前の計算とかではな
い)の類いの不在が特徴だ。Y氏の作風がいわゆる広義の意味でのコンテキストを持つ
ことにおいては、日本におけるいわゆる“美大系”のまとめ方に近く、その影響をY氏もまた受けている感じがみられる。つまりX氏はY氏の正反対のところに立つ作家に違い
ない。
いわゆるコンテキスト主義は、写真に限らず、現代アートを蝕んできたひとつの美術上のイデオロギーであるが、作家による社会からの干渉から自らを守る防御壁のようなものであったと思う。コンテキスト主義は写真も含めたアートの大衆理解に貢献したが、それによって少なくとも作家、特に美大出の作家が社会参画のかたちで食えるようになったのは喜ばしいことだった。
しかし、その作家天国が持続したのはポストモダンと呼ばれる時代、経済的にはバブル現象とともに見事に終焉した。コンテキストな人々はその後、大学教授、商業的サイドのキューレター、各種のコーディネーターとして、職業化され、現在の若い人々がその後を追従している、というのが偽らざる現実であろう。
ここでコンテキストな人々の反対に立ってしまっている、希有な例としてのX氏に戻
る。彼は好評だった作品の自己模倣をすることができない意味において自己分裂的である。しかし、自己分裂は作家というものがかかえる内的弁証法であり、この矛盾を捨てられないゆえにネクストへ進むという意味で、運命的にアーティストなのである。この矛盾を運命として甘受した者はヴィンセント・ヴァン・ゴッホがそうであったように人智を超えた光のようなものを追ってゆくジャンセニストだ。ジャ
コメッティーがそうであったように、これならいける、といったやり方を蹴飛ばして、先へ進むアーティストは本当の意味での“冒険者”だ。彼が一体これから何を見ていくのか、スリルがある。
多分、X氏
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海沼武史は、ポートフォリオの整理より冒険する時間を優先しているに
違いない。
アートとは、自己否定の瞬間の連続だ、といったのはガストン・バシュラールだったか。自己の作品というものに自惚れないで、先へ進むというのが、実はアート全般の醍醐味なのだ。
2002年3月17日 原山尚久(アートディレクター)