2010/03/13

八人の王が眠りに就く処 / in the dream of the Creator


最近、不愉快なことがつづき、なかなか思うように仕事のペースが掴めず、右往左往していたところ、ちょっと気まぐれにGoogleで「マイルス・デイビス語録」と検索したら、彼の言葉が幾つか紹介されていた。

「ミュージシャンは変わるさ。変わるだけのイマジネーションが無いヤツは、本当の意味のミュージシャンじゃないね。」

素敵な発言ですね。
でも、これはミュージシャンだけに当てはまる言葉ではなく、画家、フォトグラファー等々のあらゆる表現者にとっては自明の理、・・・否、もしかしたら、この世を生きるすべての人間に求められた、普通に自身に課さなければ「ツマラナイ!」、倫理的態度ではないでしょうか。

「オレは過去にやってもうすっかり分かってしまった事は、2度とやらない。」

僕は40歳を過ぎた辺りから、ほとんど「映画」というものを見なくなったのですが、テレビも見ない、小説も読まない、人様のCDも買わない、聞かない、年を追うごとに益々この兆候は著しく、徹底しモノに成ってきて、時にその理由を訊ねられると、「つまらないから」と応えていますが、このような態度、感慨は傲慢でしょうか?でも、過去に散々感覚のすべてを這わせてきた事々、分かってしまったことの内へ、また繰り返し戻ってゆくことほど退屈で、不毛なことは無いと思う。

ある人は、僕に、おなじことを繰り返せ、と言う。なぜなら、分かりやすいから。前例のないモノや事は、まず評価されないよ、と。
そして人は、楽しみたいと言う。でも、「それ以上、どう楽しみたいのさ?どれほど楽しんだら気が済むのよ?」
人は、物事の本質や意識の極限に向こうことなどまるで興味なく、快適で、凡庸なイメージの連鎖、単純な思考内に収まる安穏としたイメージの領内、夢見心地、その繰り返しの内で満足するものなのよ、なぜなら、安心できるじゃない?むずかしい表現と付き合っている余裕はないんだよ、みんな忙しいんだからさ・・・と。
ヨユウ?
イソガシイ?
まるで貴族のような享楽、ゴラクぶりを手にした僕らのこの21世紀の暮らしぶり・・・、あ、誰もが個人名をぶら下げて自己主張可能なこの時代に??

インタビュアー「あなたの音楽とは?」
マイルス・デイビス「統制された自由」


顔のない創造主の夢の内外で、教義しらずの佛サマの掌で、物事の本質だの、極限への指向・嗜好性なんか、別段新しくも何ともない狩人の祈りに過ぎないが・・・。

春だというのに、僕はなんだかとても哀しいのだ。

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