2010/04/02

雅楽山禮図 / GarakuSanraiZu

芦雁図(左隻)・宮本武蔵(永青文庫蔵)

老子の言葉に「虚其心 實其腹 弱其志 強其骨(そのこころを虚しくし、その腹を満たし、その志を弱くし、その骨を強くす。)」というのがあります。ですが、写真家の態度としては、「虚其心 忘其腹 弱其志 忘其骨」ではないかなと、不遜にも、僕はこう思ってしまう訳です。

江戸初期の剣豪、宮本武蔵はその著書の中で、兵法の目付について、「眼の付け様は大きに広く付くるなり、観見の二つあり、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること」と、このような言葉を遺しておりますが、言葉だけなら誰でも立派な事を言える、超常的な事についても語れる訳で、が、彼自身が本当にそのような目付、“まなざし”を会得したのかその真偽は、武蔵が晩年に描いた書画、「芦雁図」を鑑賞すれば直ちに看破する事ができます。正に、と。
ただ、彼の云う目付とは、洋の東西を問わずに、視覚のスペシャリスト、つまり優れた画家たちにとっては至極もっともな、当たり前の“まなざし”であり、さらに職を問わずとも、たとえば、野球選手のイチロー選手も会得している処のまなざしでもあります。ですから、この武蔵の云う目付とは、僕たち人間にとって、あらゆる営み、多分にここ一番と云うのっぴきならぬシーンにおいて特に、最も効果の期待できる、ひとつの静謐な“態度”の謂いなのです
現代は、単純すぎるくらい、〈見〉の時代ですから、〈見〉に応える、人々の〈見〉を満たそうとする表現ばかりが巷に氾濫しております。故に、武蔵のこの見の目・観の目については、様々なジャンルの職業に就く方々から再注目され、度々引用されているようです。が、残念なことに、“視覚の要職”に住まう現代美術、現代写真の内側において、この“目付”についてまったく論議されていない現状はやや奇妙な感じが致します。

昨日、先日お伝えした『ふじだな』での写真展のための搬入を無事済ますことができました。と言っても、飾り付けをしたのは額装デレクターの中村明博であります。僕は仕事の都合で遅くなり、自身の展覧会でありながら、まったく手伝うことが…いや、はじめから、中村明博という人間にすべてを委ねるつもりでいました。
本来、美の現場に入りますと、あらゆるシーン、その細部にいたるまで、自身の美意識を通底させようと、強烈なエゴを発動する僕が、彼、中村明博の、それこそ“観の目”と遭遇し、討たれ、ただ写真を撮るだけに……。
今展は「雅」をキイワードに、中村明博の額装から起こる“雅”、と、僕の写真から現れる“雅”、このふたつの「雅(=幽玄)」が不思議なハーモニーを空間へとひらきます。



蓮池水禽図・俵屋宗達(京都国立博物館)
 
 
 

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