この油絵はレンブラントさん(1606-1669)が最晩年に描いた自画像ですが、彼が描いた数多の自画像の中で僕は一番気に入っています。
ところで、僕のメインPCのモニターの背面の壁には、このレンブラントの自画像の複製画とダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が、無造作にピン留めされ、仲良く並び、ふとモニターから眼を逸らせば、こちらの視線と交錯するように、いえ、「僕を見てる!」なんて創意工夫がなされ、放っておけばオモムロにやんちゃな事を仕出かす若輩を、ハハ、たえず見張らせているわけです。
レンブラントとダ・ヴィンチ、現代美術などを通暁していらっしゃる方々からすれば、あまりにもベタで、さほど重要な作家ではないんでしょうが、ところがどっこい「作品」にとって過去も19XXも無いわけで、見るという行為は「今」の事だから、制作年月日なんてものは美術史家の興味対象事項で、大切なのは一事が万事「作品」の良し悪しです。徹頭徹尾、物は眼で知覚するもの、視るものだからです。
ですから、映画で「ダ・ヴィンチのコード」でしたか、ああいった詰まらぬ思考の遊戯が、分析の仮面をかぶった妄想が、ますます鑑賞者サイドを「作品それ自体」と直に触れるチャンスを、その「瞬間」を遠ざけてしまうのです。本来、誰にでも備わっている「作品」を堪能しうる鑑賞眼というものを喪失させてしまうわけです。鑑賞眼が今だ成熟していない人は、不安にかられ、ついつい思考や概略で物を見ようとしますが、これをすれば思考が、言葉がイメージを捏造し、自身の眼に幾重ものフィルターをかけ、実際、ますます“直に”物は見えなくなるのです。よくわからない、作品を味わえない際は、別に焦る必要は無いので、思考など動かさずに、ただずっと“見えるまで”付き合って往けば良いだけです。
現代美術、巷で賑わっている作品郡などは、僕にはちょっと見るに耐えない、お粗末な仕事ばかりのように映ります。だから「現代美術?よくわからないわ…」は、ある意味正しい反応であり、幾つかの哲学的社会学的モダンな知識さえ修得すれば詰まらない程、分りやすいものなのです。
マルセル・デュシャンやボイス、リヒターなどの作品は、実は非常に分りやすいのですよ。コンセプト重視の「作品」、仕事は、眼の事ではなく思考によって絵解きされたものだから非常に分りやすいです。
さらに、この際なのであえて書きますが、政治的メッセージをもったアートとは、アートが政治に対して何かしら貢献しうるという期待が込められていますが、これは実際にはアート、芸術への侮辱となります。アートが、この社会に対し、時の政治に対し、なんらインパクトをもち得ないと言う懐疑的確信、その裏表明に過ぎないのです。なぜなら、アートとは、時世などには微動だにしない、またこれを軽々と凌駕しうる、もっともっと普遍的な諸問題を扱うことのできるメディアだからです。
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