2024/09/29

写真集のメイキングレポート⑲


 〜写真とは意識のドキュメント〜

量子力学における観測者効果とは、物質や現象は観測者に依存している、観測者の影響下にあるという仮説ですが、もっと詳細に調べると、物理的な現象はすべて観測者の意識、思考内容や信念などに依存していることが分かります。
つまり何が見えるのか?は、観測者の意識内容次第で、この世界、さらにはこの宇宙を作り出しているのは意識、物理的な宇宙とは意識の反映である、と言う結論に導かれてゆきます。

では、この意識そのものを観察することは可能なのか?
これは内観または自己観照と呼ばれていますが、自己意識を起点とし、自分や他人の思考と感情の動き、心の精髄をじっと観察することとは、外的な現象から内側へと向かう取り組みですが、これには量子物理学系の大掛かりな研究所や専門的な知識は必要とされず、意識あるものなら学問的背景の有無に関わらず誰にでも直ちに始められるプラクティスとなります。
この内観、自己観照を通じての意識へのアプローチ、観察の重要性とは、この宇宙の謎とはそもそも意識の謎だからです。そして意識のはじまりを解明しようとする欲動は、すべての人間の心に内在しています。

"知覚の扉が清められたなら、物事はありのままに、無限に見える"(ウィリアム・ブレイク)

意識を観察し、その意識の始まり、源泉へ赴こうとする試みは、従来の知覚を清める行為となりますが、さらに意識の母体そのものへ遡行しようとする意欲の発動は、意識を超えた領域に、実は自分という存在の源、人間の、宇宙の根本原因が現存するという予感が瞬くからです。

身体、自分の肉体の原因は物理的な空間に現れた両親ですが、意識の生みの親、その原因はただ1つ、意識です。この意識とは外的な形態を持たないがゆえ、そもそも分節分化し得ませんが、個的意識、自意識という、意識が個別化しているように見える、感じるのは、あくまでも個々の身体に備わった知覚の働き、判断によるもので、知覚の働き自体が、時間と空間により絶えず制限された状態にあることに起因しています。

意識が、意識として自らを確認するためには「対象」を必要とします。対象を対象として認知するためには身体と知覚が必要です。そして身体は時間と空間を必要とします。つまり時間と空間とは、意識が作り上げた(もしくは夢想した)意識が意識として存在するための舞台装置であり、身体および知覚とは自他という個別意識、対象化を保持する為の「意識の道具(役者たち)」だと言えます。
たぶん、あらゆる創生の根源的な答えは、この意識の向こう側に在ると思われます。そこは時間と空間という意識が生んだ魔術的トリックからは全き自由な世界が拡がっているのかも知れません。

なんだか話が込み入って来ましたが、
自分がこの世界に産まれた、という夢なのか現実なのか、個人的に未だ体験をともなった確信には至っていませんが、意識の問題は僕にとっては非常に重要なテーマであり、写真の話しとは直接的には関係ないのですが、神とは何か?天地創造は意識の想像に過ぎないのか?芸術とは真理に触れるファクターか?これらの問いは、僕の生とって最重要事項となっています。

"時よ止まれ、お前は美しい!"(ファウスト)

人間は死ぬために生まれて来たのか?もしこれが真実なら人は虚無に至ります。
宇宙は偶然にもビックバンによって生じたのか?
この20世紀に現れた仮説がもし真実ならば、人間はなす術を失い、この世のすべての営みが無意味と化します。
真理とは、愛(神)と同義語なので、死やビックバンの受容は「否愛」、愛(神)の完全否定となります。

ビックバン、天地創造、そして死……。
環境により刷り込まれた通説、常識とされているモノの考え方、捉え方、身体的知覚による判断や言葉によらなければ機能しない思考法、好悪の感情、またはこの世界の根深い「信仰」をすべて疑ってみることの重要性とは、真理や愛がこれ以上言い表せない完全無欠性を含んだ指示言語であるなら、恒常的な歓びをもたらす結論および仮説でなければ「真実」とは言い難いからです。

真理は、深い歓びと絶対的幸福をもたらす。
これは古今東西の覚者と呼ばれた、時間や空間の圏外へと出た(?)人間たちが持ち帰って来た情報ですが、彼らの言説、表明は、その体験の自覚が無い者たちの論理的思考によっても全く齟齬を感じさせない。それは何故なのか?

定常宇宙論、そしてビックバン理論とは、20世紀後半の天文学者と物理学者の知覚と思考に基づいた理論ですが、それ以前は漠然と神の創造物、宇宙は神が創造したという考え、信仰を共有していました。しかし、神が創造しようが、爆発的膨張によろうが、「ではなぜそれが起こる必要があったのか?」の説明はなされていません。

"僕はいったい僕のことをなぜ僕と考えるのか?"

死を認知し得るのは五感、身体に依存した知覚によります。そして知覚とはまだまだ未発展、未開発の器官、道具であり、それが与えてくれる情報は絶対的なものではなく、日進月歩、絶えず更新刷新されてゆきます。さらに知覚はいとも簡単に世界に蔓延る無数の噂や信念などに色付けされています。
では、人間はこの世界に誕生し、何かに「気づく」ために地球に生まれたと言う夢を必要としたのか?
もしこの時空間の法則がよく出来た精妙な「夢」の骨組み、意識の舞台装置に過ぎなかったら?こう疑うことは誰にでもできるし、疑うとは「問い直す」ことであり、真意を明らかにすることです。

胡蝶の夢ー。
蝶と自分の境目が消え、蝶は自分の1部となり、自分は蝶の中に消えてゆく。そんな夢を見ているひとつの意識もまた夢ならば、その先の向こうに、夢を見ることを知らない不滅の世界がある、という古くからの言い伝え。

「世界は夢である」というこの覚者の認識を阻むんでいるのは、これが真実であると受け入れることは、この自分さえも夢と認めざるを得ないからです。なぜなら、この了解には、一瞬、凄まじい恐れが伴うからです。しかしその恐れの向こうにこそ、意識からの絶対的自由はあると思います。
では、この世界と同様にこの自分も夢だとしましょう。その時一体何が起こるのか?
たぶん数多の宗教上の、歴史上の様々の名前が付けられた神々はすべて溶解し、もちろんこの宇宙が存在するという実感も崩れ、ただ「真理=光=愛=神= 梵我一如」だけが在る、ということを知るのでしょう。

写真家にとって撮影するとは、帰還の旅であり、意識が意識を超える為のほんの小さな冒険かも知れません。

写真、撮影とは手段のひとつであり、写真を撮り続けることがこの生の至上目的とはなりません。
たぶん生存の唯一の、究極の目的とは、知覚や意識を利用し、意志を先鋭化し、真理を体験することなのです。
なぜなら、真理とは、僕たちの唯一の、共通の、真の故郷だからです。
意識とは、故郷忘却、故郷喪失の状態を夢見る非実体だったのです。

芸術作品とは、真理からの贈り物なのです。

Mehr Licht !


(と、何やら僕ではない誰か別の僕が書いているなぁ……。)

まさに世界とは意識のドキュメント。
 
 

 

2 件のコメント:

Uchida Kazuo さんのコメント...

意識が最も根源的な部分に近いとしたら、意識の向こう側にあるのは「暖かみ」しかないのでは?という仮説を立てました。

意識が飛ぶ感覚は、きっと温泉につかる瞬間と同じなのでは?と。

全てが緩み、幸いに包まれる瞬間です。

つまり、意識が無くなる(自分が無くなる)とは、恐怖ではなく幸福でしかない。

こういう風に理解される理由は、武史さんが写真を撮るときに求めて止まなかったシャッターを切る瞬間が「光に気づき包まれた時」の感覚に近いのでは?と思うからです。

そうなると意識の向こう側というかこちら側というか、存在そのものに触れた時、人は最大の喜びに包まれるのは当然で、意識はそれを「意識的に近づくための手段」なのかなと。

意識が在る理由は、人は意識を通すことによって、意識のない世界を思い出すステージにいるからなのかな~。

意識のない世界を意識するようになると、意識のない世界が見えてくる。←今ココ

何も知らないとそれは自分を失うように感じて不安になるけれど、実はそれは最も暖かい瞬間ということが意識する事で分かってくる。

本当はそんな面倒なプロセスを通らなくても分かる話だけど、教えて貰わなければ分からない世代にとっては大事なプロセスなのだろうと思います。

意識して、意識のない世界にアプローチする時代になってきた

そういうことなのかなって妄想してます。

海沼武史 / Takeshi Kainuma さんのコメント...

「緩み」という表現はイイね 👍