僕がはじめて沖縄の地を踏んだのは確か2002年の頃だから、今から8年前の事。以来、沖縄とは無縁。
当時、僕はニューヨークで生活していたので、長い時間のフライトの末にアメリカから入国するという、ちょっと厄介な入り方をしました。
なぜ沖縄に向かったかと言えば、その頃、まだ寝起きを供にしていた犬のユタ、このユタという名前は沖縄では“口寄せする者”、つまりシャーマンのことを指すのですが、名付け親であるカミさんが異様にそこらへんの事情に精通していて、「沖縄にさ、久高島という小さな島があるんだけれど、そこに行ってみない?」と言われ、彼女が勧めてくる旅行プランはいつも突飛なものだったから、「よし、行こう、行こう!」と。
透き通るような海を眺めながらのんびり海水浴、僕が沖縄についてイメージしていたのはその程度のものだった。
久高島に入り、僕らはある中年のカップルと出会った。
この夫婦は、旦那さんのお母さんがユタより各上(?)の“ノロ”、そのノロを育てるという役割を担った中心人物、代表であり、息子さんである彼自身も母親の能力を濃厚に受け継いだ雰囲気を持っていて、さらにその彼のパートナーである奥様も口寄せする人という、いわば最強霊的カップル? 周りの風景をすとーんと静けさの中に落とし込むような摩訶不思議なエネルギーを放つ二人連れに、なぜか出会ったのだ。
「今、私たちは・・・と・・・を融和させるため・・・をしているところですが、もし宜しければ貴方たちもご一緒に同行していただけませんか?」
詳細はあまり書けないので、ぐんぐん省いてゆきますが、久高島に着いたその夜、僕たちはある民宿を予約していましたが、そのカップルの旦那さんのお母さんが生前住んでいたという実家に、「今はもう誰も住んでいませんから」と、「(泊まってください)」となり、彼らのひそやかなショートトリップ、儀式へと、同行することとなった。
どのくらいの時間を彼らと供に過ごしただろうか?
太古の、真っ暗闇の夜の海を見つめながら、波の音が全身を貫いていった。カミさんも僕も訳も分からず、ただただ彼らに付き添い、神秘的な時空間に招かれて、ちょっと口外できない、公にされていない幾つもの聖地に案内され、濃密な時間の中、ひたすらコウベを垂れ続けた。彼らとの道往きで見たいくつもの光景と霊妙なサウンドは今なお僕の内側を巡り続けている。
霊的な話、神秘体験については、人によっては煙たがるし、拒絶する人も多いので、僕はあまり直接的にはそこら辺の話しは遠慮して来ました。それは奇異な眼、誤解されることを恐れたからです。しかしこの恐れが僕の中でなぜか徐々にほどけて、もしくは神秘的な体験や霊的現象についてほとんど重きを置かなくなったからかも知れません。気が向けば話せばいいし、乗らなきゃ黙っていれば良い。“それ”は、在るとも言えるし、無いとも言えるから。
(話変わり)
最近、たまたまカミさんが見てたテレビのニュースで、朝昇龍が引退するシーンを見かけました。彼は、その最後の取り組み後、土俵ギワで、まるで大地に口づけするかのように深々と頭を下げ、一瞬、口を寄せた。
祭事や儀式というものは、その地で暮らす民をまとめるための、その風土や人が必要とし、育てた形式、作法ですが、朝昇龍がただ一人、土俵ギワに接吻する所作はひどく心を討つものがあり、なんだろう、「存在感覚」とでも言うのか、現代の日本ではなかなかお目にかかれない素敵な光景を見せてもらった感じがしました。
存在感覚とは、自分の信念や思い込みを翻すような全的知覚、全的体験の謂いですが、日本の常識、マナーと呼ばれているものの犠牲者となったヤンチャ坊主の朝昇龍が、最期に途方も無い美しさを置き去ってゆく姿はじつに見事なものでした。
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では、今夜の未完成楽曲をーーー。
タイトルは「Huna」。Funaではないよ、フナ。
以前、このブログでも案内しましたが、10月末まで開催されている「海沼武史x中村明博」展のDMに使用した写真、あれはハワイのカウアイ島で撮影されたものですが、その島での出来事がこの音楽作品のモチーフになっています。
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