music (1984) & film (2009) by Takeshi Kainuma
在米中、ある月刊誌に「TAKESHI KAINUMA from N.Y. 小夜曲」というタイトルでしばらくフォトエッセイを連載していたのですが、今回は趣向を変え、そこに書いた星野道夫についての拙文を再掲載したいと思います。
今月は、ごく最近気になっている1人の写真家について書きます。その写真家の名を、星野道夫と言います。
1996年8月、今から5年ほど前に、ロシアのクリル湖畔の小屋で就寝中のところをヒグマに襲われ、逝去した動物写真家として有名な彼のことは、皆さんよくご存知かもしれません。たしかに、星野道夫の名前はよく眼にするし、その写真については度々見る機会があります。けれど当時の私は、動物写真家たちの写真など軽蔑していたので、彼の写真については「ただのカレンダー写真じゃないか」と、さほど魅了されることもなく、「被写体に頼りすぎている内はまだ“写真家”とは呼べないのだ」と、星野道夫の写真は私の興味の圏外にありました。
ところが先日、イラストレーターであるカミさんが絵の資料のためにと買ってきた彼の写真集を漠然と見ていたら、私もここ1年あまり近所の犬ばかり撮影していたせいか、彼の写真をとても身近に感じることができたのです。かつて見落としていた、見過ごしていた「なにか」が、どさっと意識の中心に飛び込んで来て、謎が解けたというか、はじめて、星野道夫の仕事の意図といいますか、その数多の写真の連なりに、遅ればせながら「ガツン!」とやられてしまったわけです。
それで早速、『旅をする木』という彼のエッセイ集を紀伊国屋ニューヨーク支店にて購入し、精読、彼の人柄、その輪郭に触れ、今では「参りました!」という気分です。
何はともあれ、星野道夫という人物は“ただ者”ではなかったのですね。「そんなことは百も承知さ」と皆さんに笑われてしまうかもしれない。ですから、いま、ここには、皆さんがまだ気づかれてはいないだろう事を書きます。
それは、星野道夫の“死”についてですが、ニュースではこれを「事故死」として扱い、以後、思考停止しています。でも実際は、そんな単純に片付けられる類の死ではないですよね。この死について、彼の作品、仕事、彼という存在そのものを真摯に、また精密に追い駆けてゆけば、星野道夫の死が、実はサクリファイス、供儀ではなかったかと、ふっと視える瞬間があります。
異様に聞こえるかもしれませんが、あの日、クリル湖畔で、星野道夫に起こった出来事は、表面的には事故死なんですが、そういった演出法による“秘密の供儀”だったんじゃないのかと私には映るのです。(藤原新也が何かの記事に書いた彼の死に対する“読み”はジェラシーですね。)
たぶん、現代の、高度なテクノロジー社会の内側では非常に稀な、ひとつの神秘的な出来事が、あの日、クリル湖畔で起こった、彼の身に降りかかったのだ、と。
「君ノ務メハ十分デアル」と、その“声”は、一体どこから? 天から? 自然神、ワタリガラスから・・・。
故、星野道夫を襲ったヒグマとは「使者」にあたります。もちろん、そのヒグマの聖なる暴力に対する彼の叫び声は肉体器官による反応に過ぎず、精神からのものではありません。
太古の心をもってしか理解できない出来事が、あの日、私たちの記憶の一番深い層にもある、懐かしい、ひどく秘境的な出来事が、クリル湖畔で起こったのではないでしょうか。
ということを、かつて僕は書きましたが、もうすこし噛み砕くなら、星野道夫は、唯一、あのアイヌ民族が指差した処、カムイの国、「熊たちの世界」へ入ることが許された人間ではなかったか。たぶん、彼は、この世の人間の世界、営みより、野生の、僕たちが近づくことはできても、決して交じり合うことのできぬ、越境することの許されていない<向こう側>へ、大自然の生命圏、動植物らが無心に暮らす場、白銀の熊たちの聖地へと、誰よりも強烈に魅了され過ぎたゆえ、超えようとしたのではなかったか?
生活者としての彼は、結婚し、子供に恵まれ、人間の世界にとどまることを良しとしていたが、信じがたいほど多くの神秘的な光景、無垢で、無駄のない、美しいシーンを見てきてしまった彼の無法の意思は、すでに収まりがつかない処まで来ていたのではないだろうか・・・。そして遂に入る事が許された・・・。僕はこんな風に感じる。
もちろんこんな考えは、「星野道夫を伝説化しようとしている」と思う方々もいるだろう。が、彼が伝説、神話化されたとしても、実は誰も困りはしない。事実というものは、過酷で、暢気な言葉、流行キャッチや甘ったるい表現、感傷など入り込む余地はないのだから。
そして、最後に、これはあえて書きますが、星野道夫という人は、登山家ラインホルト・メスナーのような超人的な記録を残したわけでもなく、写真家として革新的な仕事をした人でもないだろう。ただただアラスカに魅せられ、そこに在住するために、「something great」に感応するために写真を撮り、そこで考え、感じたことを綴り、徹頭徹尾、個人的なこだわりのみを生きた、普通の、ある種極端に無骨、正直で、物静かな人だったんじゃないかと僕には映る。日本人として生まれ育ちながらも、一等身近であるはずの日本人に対して、他人に対し、まったく思いやりを持てなかった人・・・。けれど、星野道夫はひとり黙々と<奇跡のルート>を辿り、向こう側へ入る事が許された・・・。
--以上です。
Yuta by Takeshi Kainuma
先月は、ちょいと様々な事あり、現在僕は警備員の仕事に就いています。
警備員といっても、皆さんはご存じないかと思いますが、いろいろな業務内容があって、僕がいま携わっているのは「二号業務」と呼ばれる「交通誘導警備、または雑踏警備」という、平たく言えば、あの、お馴染みの、車やバイクを運転なさる方ならちょくちょく見かけるだろう路面工事、もしくは工事現場の出入り口、駐車場付きスーパー、百貨店等の車両の入り口にて赤い誘導灯を回し、制服姿で、人や車をつまらなそうに誘導している、真っ黒に陽に焼けた顔の方々、「まさか、おれが!」と当人が一番戸惑っていますが、彼らの仲間入りをしたのでした。
「警備員」という職業について、アスファルト上で、ぎらぎら照りつける、まるでアスファルト砂漠のような極限猛暑の内にて、ひたすら一箇所に釘付けにされた状態で立ち続ける、まあ、片側交互通行のような絶えず無線でやりとりする必要のある現場状況ならいざ知らず、とりあえず4時間立ち続ける、1時間休憩(昼食)、そしてさらに4時間・・・というニンゲンのこんな仕事について、考えさせられる、考えた事は多義に及ぶのですが、なんせ、まだペイペイの身、現在心身共に疲労のレッドラインを迷走中、なにを書いてしまうやら(ほら、書いてはいけないこともあるんで)要注意、今回は簡単に、至極現実的私事の近況報告はさせてもらいました。oh my god !
p.s. 僕はほとんどニュースというものを見ないのですが、本日八王子方面(他の地は知らぬ)、ここ裏高尾はもの凄い雨です。ずうっと、雨がつづいている。
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先日、知人が画廊をひらいたという案内状をいただき、茅場町まで足をのばした。
その際、その知人から写真家・清野賀子(せいのよしこ)が自殺したことを知らされた。
ぼくは、清野さんとは一度も面識なく、たんに数年前に彼女のファースト写真集『THE SIGN OF LIFE』を六本木の書店にて見かけただけという、緩い、一方的な関係だったが、「・・・ドイツの新しい風景写真の流れ、影響を受けている。でも、なかなか誠実な仕事、美しい中性的な人だな」という感想だけは持っていた。
だが、同じ職に就く者にとって他人の仕事などはしょせん人事で、「さあ、この後、どこへ往くのさ?」と、すでに彼女が赴いた意識の場所、<風景>を見てきた自分にとっては、彼女の仕事はさほど斬新なものではなく、「これからが大変なのさ」と、ただただ先輩面した想いだけが不遜にもぼくの中から生まれて来ていた。
新しく画廊のオーナーとなった知人は、清野賀子さんとは「ウツ友達だったの」と漏らした。「今まであんな泣いたことは無かったよ」と続けた。
ぼくは、なぜかその時、まったく面識の無い清野賀子をとても身近に感じ、その知人に対してかなり饒舌になってしまった。
それで思わず、画廊の棚にそっと、さりげなく置かれた清野賀子の写真集『THE SIGN OF LIFE』を手にしていた。なにかを確かめようと、もう一度、眼を通していた。
ひとりの写真家が自殺した理由を、他の写真家が問うことは無意味なこと、言葉なしの挨拶を交わすこと、送ることしか許されていないだろう。
そして、写真集『THE SIGN OF LIFE』が残された。
直訳すれば、「命の徴(しるし)」。
彼女ならたぶんこう呟くかも知れない。
「これが、わたしの見て来た風景、光景・・・わたしが求めてきた。ようやくここまで来て、来ル事ガデキテ、見ツケタノサ、コレガ、“命の徴”ナンダ」と。
清野さんが赴いた場所、たどり着いた所は、明るくも、暗くもなかった。そして、楽しくもなければ、悲しみもなかったはず。しかしそんな事態に耐え切れずに、彼女はその風景に言葉を紡ぎ、物語を纏わせることもできただろう。写真家が、特に男の写真家がふっとやらかすあの「懐かしい」という感情を誘発させる視点へと、情景へと逃げ込むことも容易かったと思う。が、彼女の誠実さ、真摯が、これを許さなかった。
まるで、絶筆となったゴッホの最期の作品「カラスのいる麦畑」のようなトーンを秘めた<風景>の場所、意識の縁にまで、彼女はとつとつと赴き、粋がって「サイン・オブ・ライフ・・・」などと口ずさみ、(かっこ良すぎるんだね)、「ほら、存在についての写真集、ね」と世に問うてみたが、さほど話題にならず、その数年後、みずから果てた。
いや、厳密に言えば、2008年に「a good day, good time」というタイトルで微妙にその位相を変えようとする写真展を開いたが、たぶん、こういった延命法、もしくは情感がはしゃぎだそうとする写真は許せなかったのだろう。彼女にとって「リアル」ではなかったのかも知れない。ただただ生きようとする、見極めようとする彼女にとっては、自身の存在を放れるほどの光景ではなかったのか。
やがて清野賀子は「写真家として死ぬ」ことだけを、ひとり静かに選んでいた。
清野賀子さん、ご冥福を祈る。