2010/01/03

パウル・ツェランの栄光 / Paul Celan



昨日、グーグル検索で遊んでいたら清野賀子写真集『至るところで 心を集めよ 立っていよ』というページと出会った。
彼女の死後、ある編集者が編んだものだ。タイトルが素晴らしい。
 ―至るところで 心を集めよ 立っていよ―
誰の言葉と思いきや、ドイツの詩人パウル・ツェランの晩年の詩、言葉・・・。たぶん、編集者が決めたのだろう。
これは、故・清野賀子らしい。大きな言葉をいただいたものだ。だが、この言葉の元に集められた彼女の写真、仕事は、かなり凡庸なものだ。弛緩している。

「至るところで 心を集めよ 立っていよ」

この言葉は、実際、彼女のファースト写真集『The Sign of Life』(2002)のサブタイトルにこそ相応しい。

<本書について>という文を読んでみると、かなり無闇な言葉が並べられていた。
「・・・スナップショットともプライベートな生活の記録とも異なる、独特のヴィジョンが立ち上がっています。」
独特のヴィジョンは立ち上がっていない。
清野賀子写真集『至るところで 心を集めよ 立っていよ』、この中の清野賀子、彼女の仕事の水準、視の強度、方位等を測定することはさほど難しいことではない。
ただ、ふと、ダイアン・アーバスの死後、彼女の娘によって編まれたあの途方もない仕事、アパチャーから出版された『Untitled』という写真集のことを思い出していた。

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Paul Celanの栄光 (2004.8.29)

昏い 意識の痕跡が
黄金の 叩き鑿を
工作し

かれ は 言葉の大理石 
あと

古の黙
その明くる日の言葉たち を
顕わにせんと
絶滅収容所の裏地にて
まばゆい小径を横切って 逝く者の影

 *荒地を眼の袋のなかに 詰めよ
生け贄の叫びを 潮を、

*ぼくと息をしに来い
そして それを超えて出よ

やがて 青空を呑み込んだ
セーヌ川の水面へ 還る



記された歴史
記されることを拒否した歴史
くちうつしくちうつされた
あめのしずくのもと
みずのたまりがえがく
歴史とは
しるされることなく
くちうつしくちうつされたながれるよるの
なみだにかかる
にじいろの音韻
肉眼ではみえぬ
響きのカラダをもった 言葉たちの光景
しんじつの
ゆめの くさのしとねをふるわせる
琥珀のかたまり
われる
あざやかに
やみを
くいやぶるかのように
ヒトまえに
あらわれる
*くっきりと、遠くまで、ひらいている

栄光



*引用・パウル・ツェラン『暗闇に包み込まれて』中村朝子訳(青土社)
 
 
 
 

2009/12/28

破壊(創造)せよ、と彼女は言った。/ N-04A



たぶんぼくは、もう振り返ったりはしない、だろう

めくるめくヒカリの元で、撮影している瞬間(トキ)が 

消え入りそうな予感 と “無”へ うながす 

豊潤な風のオンガクに包み込まれ

滲みあうものたちの夢のない眠りのフィールドへ 


2009/12/24

イフンケに守られて / Ms.Saki Toyama



以前、このブログでもご紹介させていただいた『遠山サキ、唄の伝承』のDVDがこちらにて販売しております。

上記の動画は、そのPV(?)のようですが、ご興味のある方はどうぞご覧になってみてください。

僕は、このDVDを下倉洋之のアトリエ「rakan」で鑑賞しましたが、床絵美の祖母である遠山サキさんの存在感を身近で触れた者にとってこの記録・映像は、率直に申し上げて、まだ“資料”の域を出ていないように思いました。

アイヌの唄とは、資料ではないんですね。アイヌの着物とは、けっして民族衣装などという名称を与えてはならぬ、彼らにとっては生命を持った現在を生きる正装なんですね。民俗学者、文化人類学、どこどこの研究者等々のつまらぬファンタジスタ(?)が興味本位で扱ってはならない、また悟性では近づけない「今」の事、今を生きているモノでありコトであるような気がします。
うーん、巧く言えませんが、このような認識、直知による了解は、もちろん床絵美との付き合いを通じて僕の内で少しずつ育まれていったものですが、この認識、理解は言葉では伝えようがないので、もうすこし真剣に対峙してみてくださいね、としか言いようがありません。アイヌの民と対峙するんじゃありませんよ。自分自身と、です。たぶんそうすれば気づくと思います。真に大事なモノ、コトとは、何であるのかを。

2009/12/01

あの、此の世 / Hachiōji, Tokyo-03

photo by Takeshi Kainuma

(ええ、、荒涼とした、世界、風景・・・にも見えますが、寂しげな光景・・・とも映るんでしょう。が、よくよく開き、感じ、視てもらえば、そこに在るのは、ひとつの状況。「現場」って呼べばいいか、場が現れている。・・・こんな場所で、僕たちは、たぶん、ひどく甘やかされたカラダとかココロ・・・、装飾された、中身のないパッケージを・・・ハクダツされてしまうんだろう。
ヒトは、よく誤読する。目をくらまされる。真実の、僕らの存在の中心に位置する、イノチの切ないほどの温もりや、ひどく懐かしい思い、尊さ、気高さというものを、こういった極限の場所、風景の極北にて、はじめて、ああ・・・強烈に実感する、視えて来るんじゃないかな。
困ったことにヒトという生き物は、そんな風にしか出来ていない。困窮を知らぬ生活、文明の輝かしい勝利、超安全で快適な暮らしの中で、もし、イノチの、真実の官能性を味わおうと目論んでも、そりゃ無理。
やがてヒトは死を迎える、数多の所有物が、寿命というサークルの内でフッと消えざるを得ない、持ってゆけるモノなど何ひとつ無いのなら、ほら、愛を語りだすのはこのむき出しの場所で・・・。