この『宇宙遊泳 -Solitary Spacewalk-』という作品は、『バラード -ballad-』の制作から2年後の1986年、たまたま友人の知り合いからYAMAHAのDX7を10日間貸してもらう機会を得、はじめてシンセサイザーという楽器に触れ、ウキウキしながら気に入った音色を探し出し、短期間で制作されたものです。
曲によってはギターやベース、自分の声などを足していますが、全1曲?で27分、16パートあるこの作品は、当時、アルバイト帰りに足繁く通っていた銀座の「ギャラリー・ケルビーム」という画廊のオーナー梅崎幸吉氏に気に入っていただき、一時期、その画廊内でバックグラウンドミュージックとしてずっと掛かっていました。
「ギャラリー・ケルビーム」の主宰者であり画家でもある梅崎幸吉さんいう人物は、20代の僕に決定的な影響を与えてくれた、いわば恩師のような方です。
彼が拓いた土壌で、僕は美術と哲学への造詣を徹底的に深めさせてもらいました。
学力のなさゆえか(笑)大学に進学するつもりもなかった逸れ者にとって「ギャラリー・ケルビーム」とは、まさに唯一無二の大学、寺子屋?みたいな掛け替えのない場所でした。梅崎さんは極北の(個人)教授として、また心優しい兄貴分として、いつも暖かく接してくれました。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽をこよなく愛した彼に自分の音楽を評価してもらえたことが、1991年に発表したファーストCD『時空の破片』へと繋がってゆきます。
思えば、幸いなことに、20代の僕には2人の恩師がいました。
一人は、梅崎さんであり、もう一人は写真家の師匠である中本佳材氏です。
中本さんからは写真のことのみならず、(手負いの野獣のように生きていた僕に)人間の社会生活にとって大切な倫理や義について教わりました。
彼との出会いなければ、昨年発表させていただいた2冊の写真集は成り立たなかったと思います。
若い時分には気づきませんでしたが、様々の出会いとは、一見偶然のような素振りを見せますが、実は人知では想定し得ない天から与えられた奇跡じゃないかと、今は強く感じます。
曲によってはギターやベース、自分の声などを足していますが、全1曲?で27分、16パートあるこの作品は、当時、アルバイト帰りに足繁く通っていた銀座の「ギャラリー・ケルビーム」という画廊のオーナー梅崎幸吉氏に気に入っていただき、一時期、その画廊内でバックグラウンドミュージックとしてずっと掛かっていました。
「ギャラリー・ケルビーム」の主宰者であり画家でもある梅崎幸吉さんいう人物は、20代の僕に決定的な影響を与えてくれた、いわば恩師のような方です。
彼が拓いた土壌で、僕は美術と哲学への造詣を徹底的に深めさせてもらいました。
学力のなさゆえか(笑)大学に進学するつもりもなかった逸れ者にとって「ギャラリー・ケルビーム」とは、まさに唯一無二の大学、寺子屋?みたいな掛け替えのない場所でした。梅崎さんは極北の(個人)教授として、また心優しい兄貴分として、いつも暖かく接してくれました。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽をこよなく愛した彼に自分の音楽を評価してもらえたことが、1991年に発表したファーストCD『時空の破片』へと繋がってゆきます。
思えば、幸いなことに、20代の僕には2人の恩師がいました。
一人は、梅崎さんであり、もう一人は写真家の師匠である中本佳材氏です。
中本さんからは写真のことのみならず、(手負いの野獣のように生きていた僕に)人間の社会生活にとって大切な倫理や義について教わりました。
彼との出会いなければ、昨年発表させていただいた2冊の写真集は成り立たなかったと思います。
若い時分には気づきませんでしたが、様々の出会いとは、一見偶然のような素振りを見せますが、実は人知では想定し得ない天から与えられた奇跡じゃないかと、今は強く感じます。