この世はすべて舞台、男も女もみな役者に過ぎぬ。(シェイクスピア)
「男であるとか女であるとか、そんな外観のことはもうどうだってイイんだよ」と、誰かの思いを捕まえた還暦過ぎの老人が世間の柔らかな風に紛れそう言い放った。
この物理的な身体の世界では、男性は男を演じ、たまに女を演じる人もいますが、女性は女を演じ、時に自分は男として生まれて来るべきであったと男を演ずる。
しかし心の領域に入れば性差はありません。なぜなら眼に見えない心の次元には形態と言うものが存在しないので。自分が男であるか女であるかの判断基準は、身体の形態や生殖器官の差、外的な知覚による認知を通してなされます。ホルモンや脳の構造の差もあるらしいですが、「自分は男性の身体を持っているが気持ちは女」とか「私が女性の身体として産まれてきたのは何かの間違え」という、個々人の思考内容の底層に隠された信念に基づく願望が、時に男を演じるか、はたまた女を演じるかを決定するケースもあり。
性別に囚われない心、性差からの自由とは、そもそも心には男も女も無いと言う、ちょっと身体の世界から離れた(自由となった)洞察により速やかに達成できますが、人類は、男と女という二項対立、身体的差異を、この地球環境で生き行くため、存続させるために必要な動力(信念)にしたので、心に性別が無いという形而上の視点により始めて見えて来る「世界」については見過ごしがちです。
この眼に見える世界だけを信じ、限定的な知覚のみを信じ、その知覚からの情報を元にした思考内容に、本来は神のように無性無名無色透明の心が追従することは、当然、ある種の歪みを生じさせます。ゴールのない葛藤と緊張を呼び起こすのです。
たぶん人間が作り出した社会の諸問題や地球上の無意味な破壊と創造のループ、暗黒宇宙の非情さとは、すべてここに起因しているかなと思います。
身体(知覚)中心主義の世界の限界と不条理、宇宙の滑稽なまでの無意味性を意識化することは、人類がまだ心中心主義?という知覚を超えた世界観を共有してないという事実を教えてくれます。
ところで、旧約聖書『創世記』に描かれたアダムとイブの寓話は広く知られていますが、仮に、エデンの園を無死無生の世界、絶対的楽園、大いなる源の象徴とするなら、このエデンの園からの追放とは、一なるものの分裂、主体と客体、正と負、二項対立や二元論、陰陽思想などの始まりであると解釈することができます。
「善悪の知識の実を食べた2人は目を開け、自分達が裸であることに気付き……。」という記述。たとえば2人が禁断の果実を食べて目を開いたのではなく、楽園では夢を見ることを知らなかったアダムとイヴが、蛇という〈意識〉にそそのかされ、心の目を閉じて、はじめて眠りというものを知った。つまり心眼を手放すことによってこの現象世界という夢を見始めた。これは釈迦の声明である「この世はマーヤ(幻想)である」と同意義です。
映画『マトリックス』のモーフィアスの台詞ではありませんが、「赤いピルを飲めば、君はアダムとイブ以前の世界に戻れる。青いピルを飲めば、ん〜現状維持」。
この世界、この宇宙は夢であり幻想であると言う視点がユニークで斬新なのは、ひとえにこの世界を違った眼で見ることを可能にするからです。
「人間はもともと反逆者にできあがっておるのだが、反逆者が幸福になると思うか?」(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー)
この世界は、エデンの園から離脱した〈意識〉による夢に過ぎないのか。
主体と客体という分裂のない全一の状態にあるエデンの園=神の元から脱出しようとする奇怪な願望がなぜか起こり、と同時に意識(蛇+アダム+イブ)が生まれ、意識自身が創造主の座を奪取しようとする攻撃的な欲望がこの世界という夢の母胎であり、その夢の中の創造主として意識が神として君臨する。これが、宇宙の始まり、とかなりぶっ飛んだ仮説。
古今東西の賢者?リチャード・バックやボルヘス、荘子やクリシュナムルティ、ハッラージュとバヤズィード・バスターミー、そして釈迦などなどの慧眼が得た洞察とはこんな感じだったんじゃないかしら。それでこの洞察や見方、仮説によって何を捕まえることができるのか?ちょっと大袈裟ですが、この世界の不条理や狂気、意図、人間が存在する意味、そのすべて明らかになります。
小さく見積もっても、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いた無神論者を標榜するイワンの懊悩は解体されます。笑
「ぼくは神を認めないんじゃないぜ。ぼくには神の創った世界、いわゆる神の世界ってやつが認められないんだ、認める気になれないんだ。」(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー)
加害者と被害者は同時に存在します。どちらかが欠けても「事件」は成立しません。ただ、加害者の欲望的意思が先行します。
世界(他)が消えれば意識(自)も消滅するように、世界(物質)と意識(想念)は同時にしか存在し得ません。
つまりビックバン、宇宙の創世とは、意識の仕業なのです。
「心は主人なり、形は家来なり。悟れば心が身を使い、迷えば身が心を使う。」(黒住宗忠・1780〜1850)
そして最後に、「アダムとイブ以前」とは、時間的な遡行のイメージとして捉えるのではなく、今まさにここに実在する、僕たちの心そのものの姿だと思うのです。
home out home(1991年作)