2025/09/26

海沼武史写真展『而今』トークショウ vol.1~vol.2

 


 

自分の展覧会で、誰かを招き、トークショウをするのは初めてのことだった。
  
昔、展覧会期中に、装丁家の故・坂川栄治氏をお呼びし、彼との対談を企画しましたが、タイミングが合わずに流れてしまったことが、今、ふと思い出す。
 
写真家は被写体を必要とします。
対象が無ければ、存在できない。
写真家は、被写体との思いがけない出会いにより、揺さぶられ、シャッター切り、その記録が、一枚の写真として現われます。
けれど、写真家ではない普段の日常生活を送る僕にも、様々な人間との「出会い」があり、時に、強く揺さぶられる瞬間があります。
 
蜂須賀公之、中村明博、内田和男、僕の心を見事なまでに揺さぶってくれた彼らを己の展覧会に招くこと……。
 
シャッターは切られた。
 
僕にとってこのトークショウとは、高尾駒木野庭園という名称を持った舞台、この舞台自体が、インスピレーションの庭であり、もう一つの「写真」なのだと。
 
写真家は、対象(被写体)と共に生きるのです。
 
 
 

 

2025/08/28

写真集『インスピレーションの庭』発売中!

 

この写真集『インスピレーションの庭』は、9月15日(月)~23日(火)まで開催される高尾駒木野庭園で販売いたします。

直接ご購入希望の方は、下記のメールにてお問い合わせください。郵送、もしくは(近隣の方は)手渡しをします。
 

『A Garden of Inspiration インスピレーションの庭』

判型:210×297㎜

頁数:108頁

写真点数:91点

製本:ソフトカバー

発行年:2025

定価:3,500円(税込)

 
写真集1部・定価3500円+送料430円(レターパックライト) 合計3,930円
(写真集2部まで・送料430円)
 
〜お振込先〜
みずほ銀行
店番号:161
普通預金:1733565 
名義:カイヌマタケシ
 
郵送先のご住所とお名前、お電話番号をお知らせください。
 

 
写真集『インスピレーションの庭』は、1995年から2010年までに撮影した幾つかのシリーズの中から代表的なカットを選び、撮影年月日にはあまり囚われずに、一枚一枚の写真が放つ微妙に異なる響きやメッセージに寄り添い、纏め上げたものですが、音楽のベストアルバム的な離散感は与えないように、ページとページをどのように紡いでゆき、展開させれば、ひとつの大きな世界が立ち現れてくれるのか、随分苦心しました。
昨年発表した2冊の写真集はチャプター毎に区切った、時系列によるオーソドックスな編集スタイルでしたので、今回は少し新しいフェーズに挑戦してみました。
ところで、写真家の写真集とは、映画や小説などと比べますと、一般的にはあまり手にする機会のない、決してポピュラーなジャンルとは呼べません。それでもこれまでに数多くの写真集が発表されて来ましたが、ややもすれば一部のコアな読者層に向けた趣味嗜好性の強い写真集ばかりが出版されて来たような気もします。
「より開かれた可能性と甚深な内容を持った写真集とは?」
それが今回の僕のテーマのひとつでした。そしてこの写真集『インスピレーションの庭』の本望は、皆さんにとっての"直観の庭"となること、これに尽きると思います。
写真集でしか表せない、味わえない魅力というものを、存分に愉しんでいただけたら、大変光栄に存じます。
 

 




2025/08/23

海沼武史写真カタログ/Takeshi Kainuma Catalogue 2025

 






 

海沼武史写真展『而今』2025年9月15日(月・祝)〜23日(火・祝)無休

*本展会場にて、(お一人様一部)ご自由にお持ち帰り下さい。

 

 

2025/08/12

海沼武史写真展『而今』 / Takeshi Kainuma Exhibition 2025


 

海沼武史展『而今』
2025年9月15日(月・祝)〜23日(火・祝)無休
開閉時間 9:00〜16:30 入場無料 
 
場所:高尾駒木野庭園
住所:東京都八王子市裏高尾町268-1
TEL :042-663-3611 
 
【トークショウ vol.1】
9月20日(土) 開始14:30〜16:00終了 
 海沼武史 + 蜂須賀公之(作家ナチュラリスト) 
ゲスト・中村明博(額装ディレクター展示設営コーディネーター)
 
【トークショウ vol.2】
9月21日(日) 開始14:30〜16:00終了
 海沼武史 + 内田和男(カウンセラー) 
ゲスト中村明博(額装ディレクター展示設営コーディネーター)
 
※トークショウに関しては、当日中止になる場合も御座いますので、どうかご了承ください。 
 
 
 

 
 
共催:高尾駒木野庭園指定管理者・駒木野庭園アーツ 

 

2025/08/07

写真家の新たなる挑戦 / A new challenge for photographers

 写真は、僕たちの眼前に、現れては消え現れては消えを繰り返す現象世界のある一面を切り取ることを得意とするメディアですが、ただ移り変わるだけの現象世界の彼方、背後には、通常の五感の働きでは知覚し得ない普遍的な事象、ヴィジョンが隠れ潜んでもいることをも予感させることが出来ます

現象を通じて、これを踏み台にし、視覚の可能性を押し開いてゆくことへの意欲や意志を持つこと、これが「見る」から「観る」への移行となり、これまで写真家や鑑賞者が見過ごしてきた新たなる視覚の開示へと繋がってゆきます。
 
この「観る」については、以前このブログやFacebookでも取り上げましたが、宮本武蔵の「観の目つよく、見の目よわく」、これは身体上の目を使って見ることだけに頼らず、心の目で観ようとする、心眼を磨くことの大事さを伝えています。肉眼による知覚はすべて形態上の差異に依存せざるを得ませんが、心の次元には色や形はありませんので、そこで捕まえることの出来る世界とは、肉眼による知覚世界とは全く異なる新しい世界、様相を呈しているはずです。心眼による目付け、この眼差しで「観る」ことは、前世紀には叶わなかった写真家にとっての新たな挑戦であり、撮影行為の新しい試み、冒険となります。
 
なぜなら、世界はすでに撮り尽くされ、似たような現象、表層的な、網膜上の差異のバリエーションを、写真家は繰り返し撮影しているだけだからです。
そして現代では、動画による表現が主流となり、世界の(表層的な)出来事の記録、伝達手段として写真に期待された役割りは影をひそめ、情報量の的確さや密度においては動画の方がより優っています。
 
しかし、動画は撮影者および鑑賞者の「観の目」の開花については抑圧的に働きますが、「瞬間」を捉える写真の方は、撮影者の意識次第では、現象世界を別の見方で見ることを促す、「観の目」の誘いとしての機会を十分に提示しうる、形而上の機能を秘めたメディアへと変容を遂げることが可能なのです。

作品の内に、それを鑑賞する側が「内観」へと向かう為の配慮、スペースを作り出すこと。意図的に作り出すことは出来ませんが、そこに向けて絶えず心や視を意識的に開き、磨いてゆくこと。
AIによる合成写真が興隆すればするほど、この「内観」へと誘う、「心眼」による写真作品の重要度は増すことでしょう。なぜなら、表層上のアレンジや編成しか知らないAIには五感を超えた世界は迫り切れず、AIとは、五感の向こう側の世界を知覚しようとする意欲や機能とは無縁な、心を持たない否芸術的な道具だからです。

美(芸術)とは、この世のものではないのです。
 
 
 

2025/08/03

写真集について / About the photo book

 

写真家の写真集とは、実際、被写体としてそこに何が撮られていても、厳密に言って、この世界には2種類の写真集しかありません。

それは「(まだ)この世界にしがみついています」というタイプの写真集と、「(もう)この世界から解放されます」という眼差しを持った写真集、このどちらかだけです。
ほとんどの写真集は前者ですが、それは撮影という行為が、対象を必要とし、良くも悪くもこの世界の事物や現象に魅了され、はじめて成立するからです。
 
「この世界とは何か?」
「この世界は本当に実在するのか?」という問いが、なぜか自分の内側で湧き起こり、後者のメッセージへと突き進もうとする写真家、写真集は今のところまだ顕著に現れてはいません。これは写真の世界のみならず、映画や小説というジャンルでも「この世界へのこだわり」を、様々な物語り、ドラマ、仮想の設定を舞台に、そこに無数の人間模様、現象学的記憶や世界の不条理、葛藤劇、狂気を抉り出し、この閉じた世界内での「やりくり、やり取り」への嗜好に囚われ続けているからです。
ただし、音楽や絵画、論考などの表現世界では、「この世界から飛翔することによってはじめて見出される世界」について、作者の意識が向けられた作品は少なからず存在しています。例えば、ヨハン・セバスティアン・バッハの音楽作品、モネの睡蓮画、円空の木彫作品、リチャード・バックの『イリュージョン』、ニサルガダッタ・マハラジの講話録などは明らかに後者に属します。
 
芸術のジャンルを問わずに、作品とは作者の思考内容や知覚内容が反映された表現世界なので、僕が近々発表する写真集『A Garden of Inspiration (インスピレーションの庭)』は後者であり、昨年上梓した『廻向』や『奇蹟』も同様に、この世界の背後、存在の本質へと踏み込もうとする僕の世界観が色濃く入り込んでいますし、またそうあることを望でいます。
出来れば、僕が撮影した写真や、音楽作品でも、僕のそんな想いを念頭に置いて、皆さんに触れていただければ光栄です。 

芸術とは、この有限の世界で不滅なるものを指し示す美しい道標であると思います。
 
 
 

2025/07/31

展覧会のお知らせ

 今朝、2004年にニューヨークからこの町に引っ越し、昨年「20周年だった!」ことに気づき、お陰様で友人たちのお力添えで初の写真集を2冊も上梓出来たことが、何やら不思議な運命の計らいだなと感じました。

今年は、裏高尾在住21年目にあたり、ウチから歩いて5〜6分の所にある高尾駒木野庭園で写真展を開催いたします。期間中には、2日連続でトークショウを行う予定です。
山に囲まれた谷間のような小さな町に住み、これまで様々な人たちと出会う機会を得ましたが、その中で特に強い印象を僕に与えてくれた3人の盟友にお声がけし、写真や芸術、自然、人間の本質などについて、ざっくばらんな談笑空間を共に作り出せたらなと思っています。
 
 
海沼武史展「而今」
2025年9月15日(月・祝)〜23日(火・祝)開閉時間 9:00〜16:30
 
【トークショウvol.1】
9月20日(土) 開始14:30〜16:00終了 
 
海沼武史+蜂須賀公之(作家・ナチュラリスト) 
ゲスト・中村明博(額装ディレクター・展示設営コーディネーター)
 
【トークショウvol.2】
9月21日(日) 開始14:30〜16:00終了
 
海沼武史+ 内田和男(カウンセラー) 
ゲスト・中村明博(額装ディレクター・展示設営コーディネーター)
 
備考・トークショウの模様は録画し、後日YouTube動画として配信する予定。
 
※トークショウに関しては、当日中止になる場合も御座いますので、どうかご了承ください。
 
さらに、この展覧会にあわせて新しい写真集『インスピレーションの庭』を発売いたします。
この写真集は、昨年発表した2冊の写真集以前、1995〜2010年に撮影した写真だけでまとめています。イントロダクション(序説)は、蜂須賀公之に書いてもらいました。
そして会場に展示する写真作品は中村明博による額装ディレクションによるもので、展示コーディネートの方も彼に一任しています。
 
円融なる高尾の自然に囲まれ、旧民家内に展示された作品鑑賞から離れ、豊かな植生の庭園内(池泉回遊式庭園、枯山水、露地)を散策するも良し、ささやかながら、皆さんにとって素敵なインスピレーションの時空間となることを期待し、海沼武史展「而今」、どうぞよろしくお願いいたします。
 
 
 

2025/03/31

goblet~reprise リーラとビッグバン


 

「わたしたちはここで学んでいることを通じて、つぎの新しい世界を選びとるのだ。もしここで何も学びとれなかったら、次の世界もまたここと同じことになる。」

(『かもめのジョナサン』リチャード・バック)


ヒンドゥー教では、この現象世界、宇宙の営みを「リーラ(lila)」と呼んでいます。その意は、この宇宙や世界で起こることのすべてが「神の戯れ」であり、宇宙が始まった理由も神のほんのお遊び……? これ、かなり大胆な考え方ですね。

ちなみに宇宙の始まりについて、1948年に物理学者のジョージ・ガモフがビックバン理論を提唱しましたが、それ以前は「宇宙は不変であり定常的に存在していた」という考え方が天文学者の間では支配的であったようです。ただし「天地創造とは神によって成された」と漠然と考えていた人間が(たぶん)ほとんどで、それは聖書や世界中の神話などからも窺い知れます。

このビックバン理論以降は、この宇宙の始まりは神ではなく大爆発(ビックバン)によるものという推論が一般常識となりました。「およそ137億年前に何もないところからとても小さな宇宙の種が生まれました……同時に、急激に膨張(インフレーション)が始まり……」これも十分お伽話みたいですが。

「リーラ」について、もし完全無欠、絶対、無限であり常住不断を象徴する「神」が、破壊と創造の悪循環、時間と空間の法則を、男と女、生と死などの二項対立の世界を作り出した理由は甚だ不明。それはビックバンという一大イベントと同様に、明確な目的や意図を見出せませんよね。

「御心のご意志は人知を超えているのだ」と思考停止することは実に簡単なことですし、では人間がこの世界でじたばたと生き死にを繰り返すことの無意味さを神は良しとしているのか?絶対的な愛の存在である神が!

やはり現代物理学の達成であるビックバン理論やインフレーション理論こそが真実なのか?しかしこの推論では、人間は偶然宇宙に生まれた非力な奴隷に過ぎず、神とは、所詮人間が考えついたアイデアってことになります。

話を戻し、ヒンドゥー教の「リーラ」神の戯れという視座について勝手な補足ーー。この宇宙の営みとは、神そのもの、神本体の戯れではなく、完全無欠、全知全能の神にとって時間や空間、物理的な五感の世界、宇宙規模の遊びなど無用なので、強いて諧謔的に表現すれば「眠りに落ちた神仏の子の戯れ」と言い変えた方が、神仏への定義づけを損なうことなくなんとなく合点がゆきます。

神(真理)本体から分離、独立したいと言う考えがなぜか神仏の子に生まれ(これが欲望の起源かも知れない)、その誤った衝動により"意識"が誕生し、と同時に、意識(自)は自らを確認するために対象(他)を必要とするので、この物理的な大宇宙という対象物を「夢を見る」という方法により創作、想像した、と。

この推論は、釈迦の言葉、彼は唯一神の存在を認めませんでしたが、「この世はマーヤ(幻想)である」の裏づけにもなるし、かなり信憑性は高いような気がします。

繰り返します。神が眠ったり夢を見たり欲望を抱くことはその定義上不可能なので、神から分離することを目論んだ神仏の子が、眠りによって神から離れた自分だけの夢のフィールドで創造主に成りすます。


この宇宙とは、神仏の子である〈意識〉が夢を見続けるための舞台であり、それが目的なので、いわばゴールのない虚無(無明)の彷徨いです。

宇宙物理学者が想定するビッグクランチや熱的死などの宇宙の終焉とは、意識の終焉とも言えますが、夢を見続けようとする意識がやがて夢から目覚める、これも宇宙(幻想)の消滅、なので目覚めようとする意欲と目的を持つ以外、この世界での営みは(夢なので)ほとんど無価値であり無意味かも知れません。

そして目覚めが、たまたま(?)個人の意識上で起こった際に(もちろん意識から分割された個人の意識でしか起こりようがありませんが)、覚者と呼ばれる存在がこの夢の世界に現れます。そした彼らは彼らが生きるその時代、適宜に応じた表現と言葉により真理を伝えようとするのでしょう。


「神がエゴを創造し、またあるときは、エゴの消滅を徐々におこなっていくのも神、というわけです」

これはマハラジの元で学んだラメッシ・バルセカールの言葉ですが、神がエゴを創造したいう発言は、もし神が完全であるなら、完全なものは完全なものしか創造出来ませんので、この物理的な宇宙を必要とした意識、夢見るエゴを作り出すはずはありません。たぶん彼の神という言葉は、古今東西の神話等に登場する神のイメージが紛れ込んでいると思います。身体がエゴの住処であり、意識がエゴの母体となるので、マハラジは「意識以前が真実である。それ以外は存在しない」と、エゴや意識を一掃した場所を指し示そうとしました。


ある人がバスターミーの家の扉をノックする。『誰にご用?』

『バスターミーにお目にかかりたいのですが』

その人にバスターミーは言う。

『お引きとり下さい。お気の毒だが、この家には神だけしかいない』

(『イスラーム思想史』井筒俊彦)

 

goblet~reprise(2020年作)