2024/10/14

写真集のメイキングレポート㉒


 お陰様で、遂に禁断の写真集!(笑)が、皆さまのご好意、お心遣いとの艶やかな融合により、この世にカタチとなって現れることが叶いました。と、やや大袈裟ですが、皆さまの暮らしの場へ贈らせていただきます。

明日郵送しますので、翌日16日水曜日には、2冊の写真集が入ったレターパックが郵便受けに配達されます。
何卒よろしくお願いいたします。


Hello  メルスィ・ボクゥ!


 
 

2024/10/10

写真集のメイキングレポート㉑

 
明日、印刷所から写真集の入った荷が届く予定ですが、郵送の手配、諸々の手続きがはかどり次第、来週中には2冊の写真集を皆さまの元へ送らせていただく事になりますので、どうかよろしくお願いいたします。
 

 

 


2024/10/04

写真集のメイキングレポート⑳


 昨日、62回目の誕生日だった。

自分の誕生日月についてはもちろんのこと、僕は他人の誕生日について、長く生活を共にしているカミさんの誕生日についてさえも全く興味がない種族で、いや、動物も自身の誕生年月日について頓着してないという意味ではそこら辺に近い生き物なんだろう。
が、昨日は、ようやく2冊の写真集の入稿が完了し、「ん?自分の誕生日に、印刷所へデータ入稿が為されたというのは、なんだか感慨深いよなぁ」と、すこし誕生日の意味について考えさせられた。

誕生日が来ると、カミさんはいつも「なんかして欲しい?」と聞く。こちらはいつも決まって「いや、別に」。時に「コンビニのケーキでも買いに行くか」とか、「んじゃ、外食にでも」と応えた時もあったが、あまり普段の日と変わらずに過ぎてゆく。
だが、そう言えば彼女は僕の誕生日には必ず、「誕生日おめでとう!」と、やや恥ずかしそうに僕に向けて放つ。では、僕が彼女の誕生日の時にはどうだったのか?どうしたのか?「誕生日おめでとう!」なんて言ったことはあっただろうか?つい気紛れに花束を買った時は2、3度あったが……。

ふと、昔ニューヨークに住んでいた頃のことを思い出した。
ブロンクスの公園内にあるドッグランで知り合ったアダムが、やはり同じ犬仲間のマットとサブリナの第一子をドックランに連れて来た際、サブリナに抱かれたその赤子に向かって顔を近づけ嘯いた。

「地獄へようこそ!」

ビットブルというアメリカでは何かと問題を起こす闘犬を相棒にしていたアダムは、実はめちゃくちゃ心優しいのだが、産まれたばかりのベイビーに向けての第一声を聞いた時、僕は「ケッサクだな(笑)」と思った。日本ではついぞそんなことを言い放った奴はいなかった。
「地獄へようこそ!」
もちろん赤ちゃんを抱えていたサブリナはひどく怪訝そうな顔をしていたが、その横にいた旦那のマット、自分の父親がベトナム経験者であるハイスクールの先生は、あらためてベイビーを愛おしげに見つめてニヤニヤしていた。

誕生日おめでとう!
それとも「地獄へようこそ!」生誕場所の選択の誤り?
誕生日おめでとう!
こう言うべきなのか、それともこの世界の狂気を嘆き、口を噤むべきなのか。
アダムのあの言葉の裏には「(この世界は地獄だけど、なんとか皆んなで支え合って、労り合おうぜ!)」という柔らかな思いが広がっていた。

たとえば、「この世界は天国ですよ」なんて言う輩がいたら、たぶん「きみ、頭変なの?」とドン引きされて、誰にも相手にされないことだろう。

この世界、この地球で産まれた者はやがて死を迎える。もしこれが覆すことの出来ない事実なら、ここで誕生することは悲劇としての終幕に向けての倹しい暮らしに過ぎないのではないか。

それでも、僕はこれから「誕生日おめでとう!」と、その月並みなひと言を放とうと思った。
それはなぜか?一体誰に向けて? 

この件に関してはまたいずれ。

 "この世界は、否定や拒絶によってではなく、祝福することにより、光の内で昇華する。"(マグマン大使)

 


2024/09/29

写真集のメイキングレポート⑲


 〜写真とは意識のドキュメント〜

量子力学における観測者効果とは、物質や現象は観測者に依存している、観測者の影響下にあるという仮説ですが、もっと詳細に調べると、物理的な現象はすべて観測者の意識、思考内容や信念などに依存していることが分かります。
つまり何が見えるのか?は、観測者の意識内容次第で、この世界、さらにはこの宇宙を作り出しているのは意識、物理的な宇宙とは意識の反映である、と言う結論に導かれてゆきます。

では、この意識そのものを観察することは可能なのか?
これは内観または自己観照と呼ばれていますが、自己意識を起点とし、自分や他人の思考と感情の動き、心の精髄をじっと観察することとは、外的な現象から内側へと向かう取り組みですが、これには量子物理学系の大掛かりな研究所や専門的な知識は必要とされず、意識あるものなら学問的背景の有無に関わらず誰にでも直ちに始められるプラクティスとなります。
この内観、自己観照を通じての意識へのアプローチ、観察の重要性とは、この宇宙の謎とはそもそも意識の謎だからです。そして意識のはじまりを解明しようとする欲動は、すべての人間の心に内在しています。

"知覚の扉が清められたなら、物事はありのままに、無限に見える"(ウィリアム・ブレイク)

意識を観察し、その意識の始まり、源泉へ赴こうとする試みは、従来の知覚を清める行為となりますが、さらに意識の母体そのものへ遡行しようとする意欲の発動は、意識を超えた領域に、実は自分という存在の源、人間の、宇宙の根本原因が現存するという予感が瞬くからです。

身体、自分の肉体の原因は物理的な空間に現れた両親ですが、意識の生みの親、その原因はただ1つ、意識です。この意識とは外的な形態を持たないがゆえ、そもそも分節分化し得ませんが、個的意識、自意識という、意識が個別化しているように見える、感じるのは、あくまでも個々の身体に備わった知覚の働き、判断によるもので、知覚の働き自体が、時間と空間により絶えず制限された状態にあることに起因しています。

意識が、意識として自らを確認するためには「対象」を必要とします。対象を対象として認知するためには身体と知覚が必要です。そして身体は時間と空間を必要とします。つまり時間と空間とは、意識が作り上げた(もしくは夢想した)意識が意識として存在するための舞台装置であり、身体および知覚とは自他という個別意識、対象化を保持する為の「意識の道具(役者たち)」だと言えます。
たぶん、あらゆる創生の根源的な答えは、この意識の向こう側に在ると思われます。そこは時間と空間という意識が生んだ魔術的トリックからは全き自由な世界が拡がっているのかも知れません。

なんだか話が込み入って来ましたが、
自分がこの世界に産まれた、という夢なのか現実なのか、個人的に未だ体験をともなった確信には至っていませんが、意識の問題は僕にとっては非常に重要なテーマであり、写真の話しとは直接的には関係ないのですが、神とは何か?天地創造は意識の想像に過ぎないのか?芸術とは真理に触れるファクターか?これらの問いは、僕の生とって最重要事項となっています。

"時よ止まれ、お前は美しい!"(ファウスト)

人間は死ぬために生まれて来たのか?もしこれが真実なら人は虚無に至ります。
宇宙は偶然にもビックバンによって生じたのか?
この20世紀に現れた仮説がもし真実ならば、人間はなす術を失い、この世のすべての営みが無意味と化します。
真理とは、愛(神)と同義語なので、死やビックバンの受容は「否愛」、愛(神)の完全否定となります。

ビックバン、天地創造、そして死……。
環境により刷り込まれた通説、常識とされているモノの考え方、捉え方、身体的知覚による判断や言葉によらなければ機能しない思考法、好悪の感情、またはこの世界の根深い「信仰」をすべて疑ってみることの重要性とは、真理や愛がこれ以上言い表せない完全無欠性を含んだ指示言語であるなら、恒常的な歓びをもたらす結論および仮説でなければ「真実」とは言い難いからです。

真理は、深い歓びと絶対的幸福をもたらす。
これは古今東西の覚者と呼ばれた、時間や空間の圏外へと出た(?)人間たちが持ち帰って来た情報ですが、彼らの言説、表明は、その体験の自覚が無い者たちの論理的思考によっても全く齟齬を感じさせない。それは何故なのか?

定常宇宙論、そしてビックバン理論とは、20世紀後半の天文学者と物理学者の知覚と思考に基づいた理論ですが、それ以前は漠然と神の創造物、宇宙は神が創造したという考え、信仰を共有していました。しかし、神が創造しようが、爆発的膨張によろうが、「ではなぜそれが起こる必要があったのか?」の説明はなされていません。

"僕はいったい僕のことをなぜ僕と考えるのか?"

死を認知し得るのは五感、身体に依存した知覚によります。そして知覚とはまだまだ未発展、未開発の器官、道具であり、それが与えてくれる情報は絶対的なものではなく、日進月歩、絶えず更新刷新されてゆきます。さらに知覚はいとも簡単に世界に蔓延る無数の噂や信念などに色付けされています。
では、人間はこの世界に誕生し、何かに「気づく」ために地球に生まれたと言う夢を必要としたのか?
もしこの時空間の法則がよく出来た精妙な「夢」の骨組み、意識の舞台装置に過ぎなかったら?こう疑うことは誰にでもできるし、疑うとは「問い直す」ことであり、真意を明らかにすることです。

胡蝶の夢ー。
蝶と自分の境目が消え、蝶は自分の1部となり、自分は蝶の中に消えてゆく。そんな夢を見ているひとつの意識もまた夢ならば、その先の向こうに、夢を見ることを知らない不滅の世界がある、という古くからの言い伝え。

「世界は夢である」というこの覚者の認識を阻むんでいるのは、これが真実であると受け入れることは、この自分さえも夢と認めざるを得ないからです。なぜなら、この了解には、一瞬、凄まじい恐れが伴うからです。しかしその恐れの向こうにこそ、意識からの絶対的自由はあると思います。
では、この世界と同様にこの自分も夢だとしましょう。その時一体何が起こるのか?
たぶん数多の宗教上の、歴史上の様々の名前が付けられた神々はすべて溶解し、もちろんこの宇宙が存在するという実感も崩れ、ただ「真理=光=愛=神= 梵我一如」だけが在る、ということを知るのでしょう。

写真家にとって撮影するとは、帰還の旅であり、意識が意識を超える為のほんの小さな冒険かも知れません。

写真、撮影とは手段のひとつであり、写真を撮り続けることがこの生の至上目的とはなりません。
たぶん生存の唯一の、究極の目的とは、知覚や意識を利用し、意志を先鋭化し、真理を体験することなのです。
なぜなら、真理とは、僕たちの唯一の、共通の、真の故郷だからです。
意識とは、故郷忘却、故郷喪失の状態を夢見る非実体だったのです。

芸術作品とは、真理からの贈り物なのです。

Mehr Licht !


(と、何やら僕ではない誰か別の僕が書いているなぁ……。)

まさに世界とは意識のドキュメント。
 
 

 

2024/09/25

〈海沼武史氏のフォトストア〉内田和男

〜昨年の8月に知り合い、懇意にさせていただいている内田和男さんのブログの記事から〜

 

 投稿の下に海沼武史氏のフォトストアのリンクを付けるようになりました。(つくしさんのリンクも同時期に付け始めました)

私にとって全く畑違いの世界ですが、人の原点・心の原点に気がつける気がします。

武史さんと昨年からいろんな話をしてきた気がしますが、その中でなぜ音楽を作るのか、その経緯や写真を撮る経緯を伺ってきました。

武史さんをオススメするのにこの音楽はどうかなって思うのですが、これが大事な音源なんです↓

以前紹介してからもずっと聞いています。

ノリの良い曲でもなく、癒やされる曲でも無いと思ってます。

これはそういう曲では無く、余計なモノを全部取っ払ってしまう、自浄作用を持つ曲です。

聞いていると不安になったり、気味が悪くなったりするのは、人が持つ自我が抵抗するからです。

自我は自分を打ち崩そうとするものに強く反発し、主人をそこから逃げさせようとします。

自我の向こう側に隠れて見えなくなっているのは、安心であり安定です。

ずっとそこにあるのだけど、分からなくなってしまっています。

自我が競争意識や優劣感情に強く影響を受けいるから、人間の本質である安心・安定から遠のいています。

でもそれが分からないし、教えて貰えない。

武史さんとの関わりは、最初は写真で、写真を撮ることについての動画を見たことで、そこにある想いを知るようになりました。

音楽を作る、写真を撮る、それらの作業は武史さんにとって無意識の「原点回帰」であり、創作活動そのものが原点を見える化しています。

ただ、まあこれは今だから分かる話で、武史さん自身、昔から言葉にしているけど理解はしていなかった、そんな感じでした。

「言葉にした」というのは、音楽の創作については触れてませんが、写真撮影については「光に包まれる瞬間」と話している動画が残っています。

撮影はそこに光を見る時です。

こういうの良いと思います。

そういう武史さんが「何だか分からないけれど、無性に作りたくなった音楽」というのが↑です。

数十年も前の作品です。

私にとっては、これをきっかけに創造されたものの本質を意識するようになりました。

わけの分からない話かもしれないのですが、武史さんの作品は音楽も写真も「人が本来あるべき姿に気づかせる」そういう世界観があります。

だから、じっくり見て貰いたくて、「武史さんネットショップを作りましょうよ」とサイトを作り、見て貰える機会を増やしました。

是非、気になる写真を見つけてください。

じっくり写真と向き合う事で、あなたの中にある「本来ある姿」が引き出されるようになります。

 

 

2024/09/24

写真集のメイキングレポート⑱

 


今朝、2冊の写真集のデザインおよびレイアウトをお願いしたカミさんであるアーチストの築紫に「ちなみに作業はどのくらいまで進んでいるの?」と訊ねたら「ん〜、8割ぐらいかなぁ」と。


彼女とはもう30年以上暮らしているが、ときおり大喧嘩をする。

大喧嘩と言っても、物が飛び交うような派手なものではなく、互いの言い分をその場の昂った熱い雰囲気に乗せて交互に言い合う絶叫系で、どうしても「どっちが悪いのだ?」に終始する。まさに傍聴人のいないお茶の間裁判。


「で、何部ぐらい刷れそう?」

「70部ぐらいかな〜」


今回の写真集のアイデアが瞬いた時、「50部、世に出せたらもう充分。いやいや、30部でも御の字、有り難いこと。この世界に30冊しかない写真集、なんかカッコええ」と、そんな風に考えていたし、「もしお金が集まらなければ写真集にする必要は無いってことだしな。まして友人や知人らに求められもしない、その心に望まれもしない写真集なんか出してもしょうがない」なんて、今までの僕からすればアリエヘン感情が、思いも寄らぬ考えが起こっていた。「でも、編集作業の方は、今回写真集が出るにせよ出ないにせよ、これを機に完結させないとな!」


ちなみに、自分の音楽や写真にまつわることで、誰かにものを頼まざるを得ない時は、いつもハラハラドキドキする。あ、音楽制作に関しては今のところ全て自分1人でこなせる枠内にあるので、誰かに何かをお願いすることは無いが、写真の事となると、たとえば写真展の際に画廊や会場側がDMを用意できない場合は、いつも築紫にデザインをお願いしている。で、なぜか、必ず1度は喧嘩となる。で、今回はすでに2度ばかり……


昔、美意識高い系という言葉が流行ったが、たぶん僕の友人たちは僕について「美意識高い系の完璧主義者」と思っているんでしょうね。

でも、本当は「失敗したってイイじゃん。やるだけやったら肩叩き合いじゃね?基本はさ」なんだけど。 


仕事から戻ると、築紫から「ちょっと表紙のデザイン案、見てよ」と言われ、また危うく口論が勃発しそうになったが、さすがにお互いの感情パターンに乗らずに済んだ。

いや、喧嘩したってイイじゃん。ゼェゼェハーハーしたってイイじゃん。すべてがスマートに丸く治まるなんてことはなかなかこの世界ではあり得ないし、上部の仲良しこよしよりハートのシンクロの方が素敵。と、今日は子供っぽい文章となりました。

 

 

 

2024/09/19

写真集のメイキングレポート⑰


 〜ファッションとアートについて〜

先日、たまたまマルタン・マルジェラという気鋭のファッションデザイナー(だった)の記事をInstagramで見かけ、現在彼は何をしているのか気になり調べると、数年前に現代美術のアーチストとして洋服ではない純粋作品をどこかのギャラリーで発表していた。それでその展示された作品画像を数点、Googleで見ましたが、『メゾン・マルタン・マルジェラ』のファッションデザイナーとしての仕事の方が断然良くて、ふと、ファッションとアート、ファッションデザイナーと美術家との違いについて、何でもかんでも一緒くたにコラボさせ、そこにある何か決定的な違いを見過ごしがちなので、少し書いておこうかと思いました。

ファッションブランドの世界は外から見ている分にはとても興味深く、また彼らの仕事に触れるのは、正直、現代美術のアーチストの作品を見るより断然面白い。特にハイブランドが打ち出すイマジネーションの躍動と緻密な職人芸の融合、隙のないあの手この手の商品戦略にはいつも感心させられる。ただ、僕は自分が着るものについてかなり無頓着で、あまりこだわりもなく、今持っている服もその半分以上が先輩からドサっといただいたもの。

今までファッションデザイナーで凄い才能、感性だなぁと衝撃を受けたのは故アレキサンダー・マックイーンの仕事ですが、もちろん彼が天才ファッションデザイナーであったことに異論を唱える者はいません。しかし彼がもし洋服ではなく、絵でも写真でもなんでも良いですが、違うジャンルで勝負できたのか、洋服デザインと同水準の作品を提出できたのかと言えば、それは無茶な相談です。
なぜなら、ファッションの世界はどこまで行っても見た目、外見、見栄えの追求であり、人間の生の本質への眼差し、通常の視覚の向こう側へ旅立とうとする潜在的な意志は封印するからです。逆にアート、芸術のフィールドでは「人間はどこから来てどこへ行くのか?」という存在論的な問いや、なぜ世界は在るのか?という根源的な命題への接近を可能にし、またその答えをも示唆します。
アートもファッションも、まず「美とは何か?」という問いから始めるのですが、ファッションの世界では、人の眼を、太古の時代では神の眼を意識し、「自分は彼らにどう見られるか?」という身体的外観に関心が向き、「人間または宇宙存在そのものの根拠や意味について根源的・普遍的に考察すること」や、眼に見えない世界、つまり〈心の美〉についての探求は放棄せざるを得ません。
アートは、従来の知覚を清め、知覚を超えた世界の美を予見させますが、ファッションは、最終的には知覚の錯乱へと行き着きます。なので本来は、ファッションとアートを同列に並べることは不可能なことです。
もちろんマルセル・デュシャンやアンディ・ウォーホルのような作品が一流アーチストの仕事として認知されている状況では、アートもファッションもさほど変わりませんが、そもそも現代アートがその領地から〈美=真理〉を追い出し、見た目の奇抜さと作品サイズ、アイデアの意外性と技法や素材の真新しさ等々、外観や仕上がりばかりに注目し、シーンの中心を担うようになったのはたかだか1960年あたりに始まったことに過ぎません。

ファッション、アパレルとは、人間の身体を隠すもの、包み込み、他者にどのような想像的刺激を与えれば魅了しうるのか、時代時代の流行り廃りを考慮した上での実践ですが、実は「人間の"素"は醜い。心そのものを他者が見ることが出来ないのは幸いだが、実は人間の本質、本性とは醜悪である」を前提とし(これは現代アートもそうですが)、ゆえ外見を着飾ったりデコレートしなければ人や神の御前には立てぬと言う、「あるがままの自分そのもの」への嫌悪、自己否認がそのベースには隠されています。
しかし本来のアートの役割りとは、「あるがまま」の自分とは、人間の本性、本質とは、そもそも美しいのでは?という普遍的な場所、視座を明らかにしようとします。そしてアートが明かす美とは、ファッションが誘発する「自分は特別である、他人とは違う、これを着るわたしは特別になれる」という変身願望への強化ではなく、すべてが美であり、私が感じる美しさとは、あらゆる人間、生命に浸透している、つまり私たちは「美から生まれた」という直知へと誘います。そしてこの「美から生まれた」という絶対的な真理を知らない、持たない人間は誰一人存在しないのです。なぜなら、それを知っているが故に、その美と自分自身を比べ、自己否定、自己嫌悪は始まるからです。ここに意識誕生の、放蕩息子の譬え話やビックバンの秘密はありますが、ファッションとアートの目的、意図や方向性の差を明瞭にしようとする試みから逸脱しますので、この辺で……。 
ただし、ファッションデザイナーが持っている服飾への愛、アーチストが抱く絵画や彫刻、自分が制作するものへの愛、ガラス清掃員が窓ガラスをピッカピカにすることへの愛、交通誘導員がごった返すクルマがスムーズに流れてゆくことへの愛、そして神主さんが抱く神への愛などなど……、この人間の内側で起こる「愛そのもの」、愛それ自体は、決して比べることが出来ないので、◯◯への愛という、外的な対象やジャンルの差は、あまり重要なことではないのでしょう。と、アートとファッションの視覚意識の方向性の違いについて言及しながら、そこはそんな目くじら立てる必要もないんじゃね、って所に来てしまいました。
たぶん今回の与太話の結論としては、究極の愛とはまさに「愛への愛」なんじゃないかな?
今日はそんなことを考えたのでした。

愛と美、そして真理とは、同意語だったんですね。