2025/01/17

宇宙遊泳 -Solitary Spacewalk-


 この『宇宙遊泳 -Solitary Spacewalk-』という作品は、『バラード -ballad-』の制作から2年後の1986年、たまたま友人の知り合いからYAMAHAのDX7を10日間貸してもらう機会を得、はじめてシンセサイザーという楽器に触れ、ウキウキしながら気に入った音色を探し出し、短期間で制作されたものです。

曲によってはギターやベース、自分の声などを足していますが、全1曲?で27分、16パートあるこの作品は、当時、アルバイト帰りに足繁く通っていた銀座の「ギャラリー・ケルビーム」という画廊のオーナー梅崎幸吉氏に気に入っていただき、一時期、その画廊内でバックグラウンドミュージックとしてずっと掛かっていました。


「ギャラリー・ケルビーム」の主宰者であり画家でもある梅崎幸吉さんいう人物は、20代の僕に決定的な影響を与えてくれた、いわば恩師のような方です。

彼が拓いた土壌で、僕は美術と哲学への造詣を徹底的に深めさせてもらいました。

学力のなさゆえか(笑)大学に進学するつもりもなかった逸れ者にとって「ギャラリー・ケルビーム」とは、まさに唯一無二の大学、寺子屋?みたいな掛け替えのない場所でした。梅崎さんは極北の(個人)教授として、また心優しい兄貴分として、いつも暖かく接してくれました。 

ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽をこよなく愛した彼に自分の音楽を評価してもらえたことが、1991年に発表したファーストCD『時空の破片』へと繋がってゆきます。


思えば、幸いなことに、20代の僕には2人の恩師がいました。

一人は、梅崎さんであり、もう一人は写真家の師匠である中本佳材氏です。

中本さんからは写真のことのみならず、(手負いの野獣のように生きていた僕に)人間の社会生活にとって大切な倫理や義について教わりました。

彼との出会いなければ、昨年発表させていただいた2冊の写真集は成り立たなかったと思います。


若い時分には気づきませんでしたが、様々の出会いとは、一見偶然のような素振りを見せますが、実は人知では想定し得ない天から与えられた奇跡じゃないかと、今は強く感じます。
 
 

2025/01/16

鳥のライン birdline

 

僕が10代の頃は、カセットテープとレコードの時代でしたが、当時は何軒かのレコード屋へ頻繁に通い、店主に顔を覚えてもらい、「じゃあ、一曲だけ聴かせてあげるね」と、お勧めのレコードを視聴させてもらうだけで興奮していた学生時代。

特に60年代から70年代に発表された洋楽、ロック音楽のレコードには魅了され、その時代の音楽を中心に聴きまくっていました。 

なので、僕が作る音楽は、ロック音楽からの影響をかなり受けていると思います。

後、ロックのみならずジャス、レゲエ、現代音楽、民族音楽と、あらゆるジャンルのレコードを、自宅の安物のレコードプレーヤーで聴いていました。僕らの世代は、今と違い、レコードを聴くことぐらいしか現実からの逃避?は叶わなかった。

レコード盤に録音された音楽を、個々人の生活空間の中で聴くことができる、それぞれのタイミングで楽しむことができるという、19世紀にはなかった20世紀に現れた新しい音楽鑑賞法は、やがてウォークマンの出現により、家の中だけではなく屋外でイヤーフォン刺して歩きながら聴くことができるようになり、さらに現在ではYouTubeなどで世界中の音楽をタダで聴くことが許されてしまった。

レコジャケを一枚一枚睨みつけては、「果たしてこれはどんな音楽なんだろう?」と、ドキドキしながらジャケ買いした時代は瞬く間に終わってしまいました。

レコード、カセットテープ、MD、CD、DAT、音響データ、配信と、音楽が記録されたメディアや音楽を聴くための道具、ハード面は著しく変化しましたが、これはあくまでもテクノロジーの進展であり、音楽作品そのものの出来栄え、その内容の進化進展ではありせん。

と言うのも、録音芸術としての音楽作品の黄金期は、すでに1970年代をピークとして、1960〜80年代に発表された様々のジャンルのアルバム、たかだか30年という短い間に発表された数々のレコードによって達成されてしまったからです。

もちろんこういった発言は、若い音楽好きのリスナーをカチンとさせるかも知れません。が、あらゆる音楽を聴き込んできた、もしくは真摯に音楽に取り組んできたミュージシャンにとってこの判断は周知の事実かと思います。

では、なぜ、そのような何の得にもならない独善的な感想を述べるのか?

この意味合いは?

それは、音楽の録音物の黄金期が過ぎ去ってしまったこの現代に、あらためて、音楽する意味、意義を、今を生きる音楽家、リスナーの方々がひとりひとり自ら深く問う必要があると感じるからです。


音楽とは何か?

なぜ音楽を作るのか?

なぜ音楽を聴くのか?

この問いそのものは、黄金期を過ごしたかつての音楽家の内部には殆ど生じ得なかった問いであり、深く思考するには至らなかった問いです。

「何のために音楽を作るのか?」

「何のために音楽が必要なのか?」

この問いを突き詰めてゆくと、やがて「何のためにこの世界はあるのか?」という問いへと導かれてゆきます。

そして「自由とは?」

「愛とは?」という根源的な問いに行き着きます。


かつては、暇な貴族を喜ばすためにお城に呼ばれた演奏家たち。

外部へと追い出した〈神〉に向けて執り行われる儀式に仕えた音楽家、演奏家たち。

大衆へ、一時の興奮と喜びを与える為に開催される無数のコンサート、爆音の中でのレイヴ、肉体の祭り、饗宴の数々。

音楽家は、いつの時代も、人々へのゴマスリ業務に徹してきました。

なぜならリスナーがその程度のものしか音楽家に求めなかったからです。

自由と無限の愛を、唄や音の真空の編み物によって表現する役割を担った音楽家が、この社会的構造の中では、いまだにいちサービス業者としてしか存在できないのでしょうか?
 
 

2025/01/13

sudeni スデニソレハソコニアッタ


 この世界に「美しい花」というものは存在しない。しかし、美しい花を見出すことのできる生命体はいる。

人間だけが、花を見て「美しい」と感じる。

これはなぜか?

それは、人間の心の中に初めから〈美しい花〉が存在しているからだ。


同様に、この世界の「自然」とは、美しくもなければ醜くもない。

四季折々の営み、その表層的な変化のある断面を取り出し「美しい」と感じることはできる。が、そもそも自然界、その総体とは弱肉強食と縄張り争いがうごめく残酷な面をその内部に隠し持っている。

では、絵に描かれた〈自然〉とは何なのか?

絵に描いた餅はしょせん食べられないと、さも食べられる餅にこそ価値があり的な考えに縛り付けられている動物やヒトは多いが、絵、芸術とは本来犬猫には必要ではない人間種だけの心の食べ物であり、実は「自然」から心を取り出し、移り変わることのない源泉の美を、1枚の画布に、その聖性と歓びや神秘を抽出し、再生させることが出来る機能と役割を与えられたのは芸術家だけだ。


つまり「絵画」そして「音楽」によって、この自然界が初めて天上へと復活する。


だが、すべての人間が潜在的芸術家である

 


2025/01/12

rebirth

 

この『rebirth』という曲は、TASCAMの8ch カセットテープ用 MTR(マルチトラックレコーダー)を使用し、YAMAHAのSY77や打楽器、エジプトやニューヨーク等でのフィールドレコーディングによる環境音などを混ぜ、1996年に制作したものです。 

たとえばこの作品を聴いて映像を喚起する方はいらっしゃると思いますが、映画音楽、劇伴と呼ばれている音楽ジャンルに関して、それは僕が考える「音楽」の範疇には入って来ません。

なぜなら、ある映像、シーンのために作られた映画音楽は、あくまでも効果音、映画のための装飾であり、映像やシーン、ストーリー抜きの純粋なリスニング体験が叶わないからです。
与えられた映像を思い出しながら音楽を聴くのではなく、その音楽によって自分の内側から何が見えて来るのか?また、聞こえてくるか? もしくは、呼び覚まされるのか?

音楽を聴くという体験にとって最も重要な点は、ここにしか無いと僕は考えています。

 自由に作り出された音楽は、聴き手の内に、それぞれの個性と記憶を尊重しつつも、当人らがまだ気づかぬ新しい「自由への道」を照射しようとします。

 


2025/01/10

安息の日 -no man's sky-

 

~音楽の作り方~

現在のDAWによる僕の楽曲制作は、DAWを単なる録音機として扱い、即興演奏を主体に、さほど積極的なエディットを施さず、すぐさま仕上げてしまう場合と、様々な楽器の音色をMIDIに書き込み、トライアンドエラーを繰り返し、その1つ1つの各チャンネルをきめ細かく操作して、気の遠くなるような長い時間をかけ制作するパターン、この2種類の作り方をしています。

この『安息の日 -no man's sky- 』は、演奏中に各パラメーターを動かしながら、即興演奏による一発録りです。

 
私とは誰か?
私とは、〈私-意識〉が作り出した分節した(小文字としての)私。
あなたとは?
あなたとは、この(小文字としての)私を存在させる為に〈私-意識〉が作り出した私の一部、私の万華鏡。
では〈私-意識〉の生みの親とは誰か?
大文字としての私とは、誰か?

「私とは誰か?」という問いと、「この世界とは何か?」という問いは、同一の問いです。
なぜなら、この世界が無ければ私の身体は存在しえないので、「私」という意識が生む「私とは誰か?」という問いそのものが生まれないからです。
また、この私が居なければ、私にとってこの世界の有用性は消えますので、世界そのものの価値も無に帰する。
つまり、私と世界は〈同一〉であり、この世界とは、私であり、私が、この世界の原因だと言えるのです。
 
 

2025/01/09

バラード ballad


 この『バラード ballad』という音楽作品は、TASCAMの4chオープンリールデッキを使用し、多重録音により制作しました。 
 
自身の声の重奏を主体とし、鐘の音やギター、マイクスタンドへの打音等を加え、雨の音などの外音も取り込み、1つの音響空間の創出を試みたものです。 
 
ロックやフォーク、ソウルミュージックなどの影響受けた歌を書き、歌っていた僕が、はじめてインストゥルメンタル音楽の世界に入るきっかけとなった作品でもあります。
  
当時、ガラス清掃のアルバイトをしながら不定期に都内のライブハウスでアコギ1本で歌を歌っていた者が、『バラード ballad』という何とも摩訶不思議な音楽をなぜ作ろうと思い立ったのか? 
 
それは1984年のある夏の正午。仕事中、銀座の美術ギャラリーでたまたま見かけた町山京子という作家のインスタレーション作品との出会いが、『バラード ballad』制作へと僕を駆り立てました。

「もし、この展覧会場に音楽を流すとしたら、どんな感じのものが合うのだろう?」と、
突然閃いたのですが、ある外的な視覚情報が制作の動機となったことは、後にも先にもこの時限りです。
 
 
時間と空間の法則によって成立しているこの世界、この法則はなぜ生まれたのか?もしくは必要とされたのか?ーー何のために?
宇宙の起源とされるビックバンの原因をあれこれ推測できたとしても、それが一体何の、誰の役に立つと言うのだろう。
ビックバンは「意識」の誕生、流出であると言う説もあるが、この仮説には物理学的なアプローチでは近づけない、肉体や五感、つまり時間と空間の法則から自由になる為のヒントが隠されている。