2025/03/27

home out home アダムとイブ以前

 


この世はすべて舞台、男も女もみな役者に過ぎぬ。(シェイクスピア)


「男であるとか女であるとか、そんな外観のことはもうどうだってイイんだよ」と、誰かの思いを捕まえた還暦過ぎの老人が世間の柔らかな風に紛れそう言い放った。 


この物理的な身体の世界では、男性は男を演じ、たまに女を演じる人もいますが、女性は女を演じ、時に自分は男として生まれて来るべきであったと男を演ずる。

しかし心の領域に入れば性差はありません。なぜなら眼に見えない心の次元には形態と言うものが存在しないので。自分が男であるか女であるかの判断基準は、身体の形態や生殖器官の差、外的な知覚による認知を通してなされます。ホルモンや脳の構造の差もあるらしいですが、「自分は男性の身体を持っているが気持ちは女」とか「私が女性の身体として産まれてきたのは何かの間違え」という、個々人の思考内容の底層に隠された信念に基づく願望が、時に男を演じるか、はたまた女を演じるかを決定するケースもあり。

性別に囚われない心、性差からの自由とは、そもそも心には男も女も無いと言う、ちょっと身体の世界から離れた(自由となった)洞察により速やかに達成できますが、人類は、男と女という二項対立、身体的差異を、この地球環境で生き行くため、存続させるために必要な動力(信念)にしたので、心に性別が無いという形而上の視点により始めて見えて来る「世界」については見過ごしがちです。

この眼に見える世界だけを信じ、限定的な知覚のみを信じ、その知覚からの情報を元にした思考内容に、本来は神のように無性無名無色透明の心が追従することは、当然、ある種の歪みを生じさせます。ゴールのない葛藤と緊張を呼び起こすのです。

たぶん人間が作り出した社会の諸問題や地球上の無意味な破壊と創造のループ、暗黒宇宙の非情さとは、すべてここに起因しているかなと思います。

身体(知覚)中心主義の世界の限界と不条理、宇宙の滑稽なまでの無意味性を意識化することは、人類がまだ心中心主義?という知覚を超えた世界観を共有してないという事実を教えてくれます。

 

ところで、旧約聖書『創世記』に描かれたアダムとイブの寓話は広く知られていますが、仮に、エデンの園を無死無生の世界、絶対的楽園、大いなる源の象徴とするなら、このエデンの園からの追放とは、一なるものの分裂、主体と客体、正と負、二項対立や二元論、陰陽思想などの始まりであると解釈することができます。

「善悪の知識の実を食べた2人は目を開け、自分達が裸であることに気付き……。」という記述。たとえば2人が禁断の果実を食べて目を開いたのではなく、楽園では夢を見ることを知らなかったアダムとイヴが、蛇という〈意識〉にそそのかされ、心の目を閉じて、はじめて眠りというものを知った。つまり心眼を手放すことによってこの現象世界という夢を見始めた。これは釈迦の声明である「この世はマーヤ(幻想)である」と同意義です。

映画『マトリックス』のモーフィアスの台詞ではありませんが、「赤いピルを飲めば、君はアダムとイブ以前の世界に戻れる。青いピルを飲めば、ん〜現状維持」。

この世界、この宇宙は夢であり幻想であると言う視点がユニークで斬新なのは、ひとえにこの世界を違った眼で見ることを可能にするからです。


「人間はもともと反逆者にできあがっておるのだが、反逆者が幸福になると思うか?」(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー)


この世界は、エデンの園から離脱した〈意識〉による夢に過ぎないのか。

主体と客体という分裂のない全一の状態にあるエデンの園=の元から脱出しようとする奇怪な願望がなぜか起こり、と同時に意識(蛇+アダム+イブ)が生まれ、意識自身が創造主の座を奪取しようとする攻撃的な欲望がこの世界という夢の母胎であり、その夢の中の創造主として意識が神として君臨する。これが、宇宙の始まり、とかなりぶっ飛んだ仮説。

古今東西の賢者?リチャード・バックやボルヘス、荘子やクリシュナムルティ、ハッラージュとバヤズィード・バスターミー、そして釈迦などなどの慧眼が得た洞察とはこんな感じだったんじゃないかしら。それでこの洞察や見方、仮説によって何を捕まえることができるのか?ちょっと大袈裟ですが、この世界の不条理や狂気、意図、人間が存在する意味、そのすべて明らかになります。

小さく見積もっても、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いた無神論者を標榜するイワンの懊悩は解体されます。笑


「ぼくは神を認めないんじゃないぜ。ぼくには神の創った世界、いわゆる神の世界ってやつが認められないんだ、認める気になれないんだ。」(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー)


加害者と被害者は同時に存在します。どちらかが欠けても「事件」は成立しません。ただ、加害者の欲望的意思が先行します。

世界(他)が消えれば意識(自)も消滅するように、世界(物質)と意識(想念)は同時にしか存在し得ません。

つまりビックバン、宇宙の創世とは、意識の仕業なのです。 


「心は主人なり、形は家来なり。悟れば心が身を使い、迷えば身が心を使う。」(黒住宗忠・17801850


そして最後に、「アダムとイブ以前」とは、時間的な遡行のイメージとして捉えるのではなく、今まさにここに実在する、僕たちの心そのものの姿だと思うのです。


home out home1991年作)

 

 



2025/03/24

blank 音楽の羊水


 

昨年10月に、友人たちのご厚意により2冊の写真集を上梓させてもらい、それ以降、何だかホッとしてしまったのか、以前のような心構えで撮影に臨むことは無くなった。気まぐれに、iPhoneで撮ってみるものの、さんざん撮りまくった被写体ばかりをなぞるように撮っているだけだから、あちら側へぶっ飛ばされるようなワクワク感はもうない。熱くもならない。

まぁそんなもんだ。

それで今年に入り、集中的に音楽と向かい合う日々が続いている。ただし、新しい楽曲を作る気にはならないので、今まで作った作品のリマスタリングをしているだけ。ことさら他に用事もないし、でも一年前と比べると「ずいぶんイコライジング仕様の聴感が出来たなぁ」と感じる。エンジニアリング、独学だからか、ここまで来るのに10年もかかってしまった。

22、3歳からインストルメンタルの音楽を作り始め、これまで何曲作ったのか数える気もないので分からないが、アルバムにしたら20枚ぐらいになるのか?よくもまあ、どこにも発表するあてもなく、ごちょごちょ1人作り続けたものだ。

20代の頃から本気になって写真をやり音楽をやり、当時は「二足の草鞋を履いたら成功できない」的な風潮があって、そんな嗜めの言葉を何度か投げかけられたこともあったが、写真と音楽、その両方の制作を続けられて良かった良かったと、今は思う。

還暦を過ぎ、当然のことながら、身体の死は意識せざるを得ないが、もし写真や音楽を作る以上の楽しみと出会えたら、もちろん創作活動なんぞはスパッと止めてしまうかも知れない。それは、きっと、そういうもんだ。

 

僕の中の誰かが「もう充分作ったよ」と。 


blank1984年作)

 

 


 

2025/03/23

Borges's dream まがりやどかり


 

"Writing is nothing more than a guided dream." 


これはアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの発言ですが、「書くことは、導かれた夢に過ぎない」。

これ、いいですね。

不遜にも自分に寄せてみるなら、写真家として撮影をすることも、音楽を作ることも、確かに共に導かれた夢に過ぎません。ただし、表現者の創作行為のみならず、あらゆる人間の生き方、個々の生、運命とは、導かれた夢ですよね。

ボルヘスはまたこんなことも言っています。

「我々の住む世界は一つの錯誤であり、役立たずのパロディーだ。The earth we inhabit is an error, an incompetent parody.

手厳しいですね。

僕たちが住んでいるこの世界はパロディーだと言うこの発言は、ヒンドゥー教の世界認識「リーラ(lila)・神の戯れ」という教え、観点と重なります。注目すべきところは、この世界をパロディーもしくは神の戯れと断じるには、その認識者がこの世界内で起こる諸現象に自分の知覚が振り回されることなく、この世界の外に出てこちらを見なければ獲得できない視点、認識です。超越論的視点とでも言うのかなぁ。もしくは時間と空間を超えた「空」からの眼差し。

さらに英国の劇作家ウィリアム・シェイクスピアは『テンペスト』でプロスペローにこう言わせています。

「われわれは夢と同じ材料で作られている。我々の儚い命は眠りと共に終わるのだ」

"We are such stuff as dreams are made on; and our little life Is rounded with a sleep."

もしこの台詞の後に続く言葉があるとするなら、それは「そして我々は永遠と共に再び目覚める」。


知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。

 

「ところで、荘周である私が夢の中で蝶となったのか、じつは自分が蝶で、いま夢を見て荘周となっているのか、私にはわからない。

荘周と蝶とは、確かに形の上では必ず区別がある。これがまさに物化(万物の変化)というものだ」(『胡蝶の夢』荘子)


そしてふと、紀元前5〜7世紀の釈迦の「この世界はマーヤ(幻想)である」と言う歌声が、あらゆる場所、あらゆる時代の人間たちによって多様な言い回しでさらなる命を吹き込まれリフレインされているなと思うのです。

 

Borges's dream(2020年作)

 

 



2025/03/21

family あなた(と自分)の元まで


 

この世界に生まれて、奇妙な違和感やたった1人取り残されたような孤絶感を味わったことの無い人は誰も居ないと思いますが、どうでしょう?


「自由でないと鮮明にものが見えません。自由がないと美を感じとることができません。」(ジッドゥ・クリシュナムルティ)


はじめて自分を意識した瞬間、外側に世界や風景が広がり、手で触れる距離には様々の形をした物たちが、そして自分と似たような身体をした人間が動き回り、四方八方から色々な音が聞こえてくる。ときおり自分に向かって話しかける人たち、風を感じ、陽射しの眩しさや、暗闇の訪れと、この世界のすべてが自分と離れて存在しているような感覚、世界と自分が同時に現れた瞬間、はじめて距離を知った切ない瞬間……

自分がここに居ることを意識した瞬間、自分がひとつの小さな身体に閉じ込められたことを知り、外的な世界、多くの人々、空を駆ける鳥たち、草むらの中の昆虫や、長閑に目前を通る小動物たちから分離していることを強く自覚させられて、眠りが来ては、とたん自分と世界が消える。そして眠りから覚めたら、また世界が現れその繰り返しの中で、意識はややもすれば疎外感へと迷い込む。寂しいという感情が生まれ、不可解な恐れや警戒心がただ膨らんでゆく。


「目に見えるものには、みんな限りがあるんだ。だからきみの心の目で見てごらん。」(『かもめのジョナサン』リチャード・バック)


自分の身体を絶えず意識させられて、その身体の機能や状態に振り回されている自分の思考や感情が、知覚による快不快の個人的な感情体験から離れた、「あなたと私は別々の身体」という隔絶感が、なぜか時間と空間のことを知らない歓びと微笑みを含んだ光の洪水の内で、融けてゆく。やがて自分意識は私の身体を超えあなたの元まで広がってゆく。だから今ここで、意識がひとつであり心もひとつ、全一であることを見出せる場所へと自分を放つ。

この外的な世界はいずれ消滅し、内と外はひとつとなり、自分が世界そのものであったことに気づく瞬間がやって来る。


知覚という魔法を横切って、今までこの世界から学んできた怪しげな教えやルールの数々をひとつひとつ思い出し、ためつすがめつ吟味して、永遠という名の秤にかけすべて放り出してしまえ。

「空手でここまで来なさい」と、そう懐かしい声がする。 


やがて自分意識は私の身体を超え懐かしいあなたの元まで広がってゆく。

 

family(1992年作)

 

 


 

2025/03/15

akuru いまだけがとわのいりぐち 

 


「きみの知覚内容はそもそもきみの思考内容だよ」

光輪の藪からふわふわ現れた小指サイズの精霊が、その小ささに見合わぬきっぱりとした声で、記憶の波間をゆれ動く心に、「きみが見ている世界は(きみがまだ気づいていない)きみの意識が作り出したってことさ」

「きみが作り出したものはすべて夢 実在しないよ」と、まるで懐かしい歌を口ずさむかのように話しかけてきた。


僕が作り出したものがすべて僕の意識が生んだ夢なら、この僕の夢の中に現れたきみは誰?


「きみが見ている世界と きみが考えているきみというイメージを作り出したのはきみだけど きみを生んだのは僕だよ」


じゃあ、僕が夢を見ている原因はきみにもあるってことかな。 


「そうだね だからこうしてきみがまだ夢を見ていることに気づいてもらいたくてね ちょっときみの夢に現れたってことさ」


でもどうやって、夢を見ているという自覚のない僕が、夢から覚めることが出来るんだい?


「夢は変化するよね 変化するものは仮想で 真実ではない なぜなら 時間と空間の影響によって変化するものは真理 永遠 実在するとは言えない きみの感情も きみのその身体も この世界も この世界についてのきみの考えも 変化するから真実ではないよ」


自然の奥行きの外側で、小鳥たちのすべての花が揺れている。


「夢をリアルに感じさせているのはきみの身体と五感 それと意識のせいだけど きみの身体はやがて土に還り きみが考えているきみ(イメージ)はやがて消滅する その時 身体とくっついていたきみの自分意識は 個人としての自覚が消え すぐさま意識はたったひとつしかないことに気づくはず きみがまだ信じているきみとは現れたり消えたりするだけのものだから まさに夢みたいなもの」


“Where have all the flowers gone?”


じゃあ輪廻転生ってアイデアも夢なのか……

で、きみは一体誰?


「僕はきみの心 きみの心の始まりさ」


akuru1996年作)

 

 



2025/03/13

サザンカ spring tune

 


ずーっと机の上で、誰かが書いた文章が行儀よく並んでいるだけの本と呼ばれる観念世界上で、心の見方や心理のバリエーション、行動における統計学的な反応パターンや主観的な心理観察レポートの記述をひたすら読み込み、暗記して、知識を蓄えたとしても、たとえばコンビニのレジ打ちのバイトなんかしながらその場所でしか見えない世界と五感を通じての生々しい体験、世の中には様々の背格好を持った心模様が、多彩な嘆きと音色の異なる懊悩が、職業が、またこの社会の構造が生み出したプライドや劣等意識、そしてよーく耳を澄ませば幼児期のトラウマ独奏曲が静かに鳴り響き、挫折感のトーンとその強弱や、環境によって育まれた性格と持って生まれた気性からの影響、屈折の度合いとその微妙な角度や方位の差があって、執筆家のような言語表現力を持たないクライアントの症状告白への真偽を嗅ぎ取る反射神経などなど、実地で、つまり人様の具体的な身体と心たちの土俵の上で、混雑した生の現場で、自身の身体と知性を張り巡らし見聞きして、謙虚に学んで来なかった暗記力抜群の机上の妄想者たちに、果たして精神科医とか臨床心理士などの資格を与えても良いものだろうか?
「これを読めばお絵描きが上手くなる!」的な教則本を読み込むだけでは絵が上手くはならないように、ただひたすら椅子に張り付き本を読み国家資格をゲットした20代30代のガリ勉くん、社会の不条理や低所得者の倹しい暮らしを身近でビシビシ感じて来なかった者に、または時給1000円?の重みを味わったこともない象牙の塔の住人が(笑)、社会が強要または提示した身分の差やお金にまつわる問題、さらに歪みまくった人間関係で精神に異常をきたした弱き心の元へとすっと近づけるのだろうか?

分裂病が「病気」ではなくて、他人との関係において歪められた「生き方」だという考えは、私自身の内部ではとっくに自明のことになっていた。(木村敏)

絵が上手くなりたければ、ひたすらキャンバスに向かい絵を描くしかないが、人間の心理とは、キャンバスのようにはじっとしてはおらず、絶えず動き回る。そんな動的な心を相手にカウンセリングする、治療する、そのスキルを上げてゆくということが、どれほど困難なものであり、また膨大な経験値を必要とするか、切に自覚している精神科医はまだ少ない。

私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないか。(木村敏)

もちろん精神科医として日々クライアントの面倒をみている彼らの仕事はなかなか厄介な、まるで達成感が得られない、刻一刻と自身のプライドを蝕んでゆく可能性大の仕事だから、これに抗う為に、ついつい「この病気は遺伝です。だから治せません。薬物療法でずーっと付き合ってゆく病気です」なんて信じ込もうとする気持ちは分からないでもないが、「私は絵描きです。でも絵を描けません!」と、もしこう仰る方がいたら「んじゃ、絵描きを名乗るなよ!」と突っ込みたくなるもの。

「きみはなぜ精神科医に対してそんな辛辣というか、拘るの?」
だって高給取りじゃーん!ってのは冗談で、たぶん僕が小学4年生の時に、母が精神分裂病と診断され、話せば長くなるので端折って書けば、ある人間の精神の病が引き起こす様々の問題を、苦々しい場面やそれに伴う逃れようのない切なさを、そして堂々と公表できない秘密を持たされた者の哀しみや人格が突如豹変する姿を目の当たりにする恐怖、心理学の本を読み漁ってもその内容は部分的な視座に過ぎず、具体的に何も変えられなかった家庭内で多くの〈疑問〉を若くして持ってしまったからだと思う。

ところでGoogle検索によれば、今から150年前の1875年(明治8年)に日本で最初の精神病院が京都の南禅寺境内に開院され、その後1948年に児童精神科医療が始まったそうである。然るに精神医療とは、まだまだ改良の余地ある未開拓ゾーンであり、発展途上部門だと個人的には思うが、確かに母が入院していた50年以上前と比べれば、向精神薬の種類は増え、そのグレードはかなり良くなったような気もする。電気けいれん療法(ECTという脳に程良い電圧調整も可能となり、アメリカで一時流行ったアイスピック・ロボトミー手術の効能を信じる精神科医はさすがにもう居ない。鬱や狂気の原因を数値や画像で発見したいという使命や欲望が、はたまた治療費請求のためか、高価なMRIを置いてしまうという不思議感はあるが、年若いカップルが手を繋いで気軽に精神科の門を潜ることを可能にした世間的イメージの変化、つまり「お、お、おまえ、精神病院に行くんか!」というかってのハードルの高さは無く、これは良きこと。だが、昭和の時代なら、単に「しようがねーな〜」と放っておかれた少々落ち着きのない子供らをADHDアスペルガー、自閉症と、すぐさま発達障害スタンプを押し薬漬けにする現状は如何なもの?

精神医療とは、目に見えない心の障害を、目に見える身体への取り組みによって解決しようとする(狂気の)試みですが、では精神病院の〈外〉である正常な者たちが過ごしているこの社会、この健常者スペースではこれまで一体何が行われて来たのか?起こってきたのか?
縄張り争いが高じての戦乱戦国の世にはふつ〜にさらし首、リハーサルなしのチャンバラ、斬首刑、釜茹でが……。NHKの大河ドラマなどで取り上げられ美化された武将なども、所詮は現代の暴力団の親分でもたじろぐような大殺戮を指示してきた者たちではないか。そしていまだ海の向こうでは殺し合いが。〈外〉の世界も十分狂っていて残酷極まりない人類の歴史。
100年前、50年前と、確かに鉄格子がチラつく劣悪な環境と残酷な治療法は少しずつ改善され、患者同士の軽い殴り合いはあっても血みどろの殺し合いはない現在の精神病院とは、社会の熾烈な椅子取りゲーム、競争、狂気から一時的または長期的なエスケープを許してくれる、日がな一日ボーっと、いや、一生働かずに冷暖房完備3食看護付きの殿様のような暮らしを補償してくれる薔薇色の駆け込み寺として機能しているようにも見える。
 
この世界のどこに正気のスペースがあるのだろう? 
それは病院の中か?〈外〉か?
狂気とは、確かに直接的には知覚されぬ心から起こり、この物理的な現象世界で多様な表現方法を取る。
僕も十分狂っている。
ならば心を見詰めるしかないではないか。
そこに答えがあり、真実が在る。

(と、オチのないお話でした。)
 
spring tune(1991年作)

 

 



2025/03/10

Peruvian City 見ずの開き

 



土木作業員からすれば「何言ってやがんだ〜!」となりますが、屋外専門フォトグラファーも、鋭い陽光に照らされ、また雨の中をぶるぶる震えながら、大地と仲良しとなり、また道を這い回る人種なんだと。

そんな撮影スタイルで、30年間歩き続けて来た者が、屋根や壁に守られた部屋で物撮りを始めても、屋外撮影での記憶がびっしり刻み込まれた身体と眼で撮影に望むわけだから、そこから生まれる写真は、きっと通常のスタジオ撮影とは異なるオーラが定着されるだろうし、またそんな期待を抱いていなければ、雨風に晒されることのない屋内での物撮りなどナンセンスさ、と息がってみました。笑

さて本題ーー。

今朝、Yahooニュースで村上陽一郎という科学史家・科学哲学者の新刊案内の記事を見かけ、名前は知っていましたがその著作を手にしたことは無く、ただそのインタビュー記事を読むとなかなか興味深いことが書かれていて、思わず色々検索してたら大森荘厳という哲学者の文章に行き当たる。

最近、このブログで、写真や音楽のみならず意識とか真理、知覚や身体、心などについて書いていますが、僕が考えていることはすでに様々の哲学者が考え抜いてきたことなんだなぁ〜と。

ただ、面白い!と感じたのは、似たような意味、内容、視座について、人それぞれの言語表現が、言い回し、表し方がありますよね。

土木作業員からすれば、たぶん「何言ってやがんだ。さっさと手動かせや〜!」ですが、大森荘厳が書いてます。


"いずれにせよ、次のことは言えよう。もし私に「見え」、私が「触れ」、私が「味わう」ものすべてが「心像」であるならば、私の生きる世界はすべて「心像」であるはずである。だとすれば、「心」は私の内にひそむ何ものかではなく、私の部屋に、街に、海に、空に、日に月にまで拡がっている何ものかなのである。幻といわれるものすら私の外に見えるのである。まさに「心」と呼ばれたものは「世界」なのである。"『物と心』(1975


哲学とは、そんな堅苦しいものでも、難しいものでもありません。それが始まった理由は、結局この地球という場所に産まれて、「なんだかここで暮らしていても、どうにもこうにも納得いかんこと、解せないことが多過ぎるんだよなぁ。なんでこんなカタチをした身体を持ってなきゃいかんのだろう? 生まれるとか死ぬとか、考えるとか感じるとか、モノが見えるとか、食べるとか、訳の分からん空間や時間に制限され支配された人生って、何のためにあるの? ここは一体何なのさ?」という疑問からなので。

もし、人類が登場し、この地上生活がすべての人間にとって満足のゆくものだったなら、決して〈哲学〉なんて生まれるはずも無し。

たぶんこの地球上の暮らしとは、大昔からニンゲンにとってはどうにも合点がいかぬものだったんじゃないかしら。

 

Peruvian City(2019年作)