2025/03/31

goblet~reprise リーラとビッグバン


 

「わたしたちはここで学んでいることを通じて、つぎの新しい世界を選びとるのだ。もしここで何も学びとれなかったら、次の世界もまたここと同じことになる。」

(『かもめのジョナサン』リチャード・バック)


ヒンドゥー教では、この現象世界、宇宙の営みを「リーラ(lila)」と呼んでいます。その意は、この宇宙や世界で起こることのすべてが「神の戯れ」であり、宇宙が始まった理由も神のほんのお遊び……? これ、かなり大胆な考え方ですね。

ちなみに宇宙の始まりについて、1948年に物理学者のジョージ・ガモフがビックバン理論を提唱しましたが、それ以前は「宇宙は不変であり定常的に存在していた」という考え方が天文学者の間では支配的であったようです。ただし「天地創造とは神によって成された」と漠然と考えていた人間が(たぶん)ほとんどで、それは聖書や世界中の神話などからも窺い知れます。

このビックバン理論以降は、この宇宙の始まりは神ではなく大爆発(ビックバン)によるものという推論が一般常識となりました。「およそ137億年前に何もないところからとても小さな宇宙の種が生まれました……同時に、急激に膨張(インフレーション)が始まり……」これも十分お伽話みたいですが。

「リーラ」について、もし完全無欠、絶対、無限であり常住不断を象徴する「神」が、破壊と創造の悪循環、時間と空間の法則を、男と女、生と死などの二項対立の世界を作り出した理由は甚だ不明。それはビックバンという一大イベントと同様に、明確な目的や意図を見出せませんよね。

「御心のご意志は人知を超えているのだ」と思考停止することは実に簡単なことですし、では人間がこの世界でじたばたと生き死にを繰り返すことの無意味さを神は良しとしているのか?絶対的な愛の存在である神が!

やはり現代物理学の達成であるビックバン理論やインフレーション理論こそが真実なのか?しかしこの推論では、人間は偶然宇宙に生まれた非力な奴隷に過ぎず、神とは、所詮人間が考えついたアイデアってことになります。

話を戻し、ヒンドゥー教の「リーラ」神の戯れという視座について勝手な補足ーー。この宇宙の営みとは、神そのもの、神本体の戯れではなく、完全無欠、全知全能の神にとって時間や空間、物理的な五感の世界、宇宙規模の遊びなど無用なので、強いて諧謔的に表現すれば「眠りに落ちた神仏の子の戯れ」と言い変えた方が、神仏への定義づけを損なうことなくなんとなく合点がゆきます。

神(真理)本体から分離、独立したいと言う考えがなぜか神仏の子に生まれ(これが欲望の起源かも知れない)、その誤った衝動により"意識"が誕生し、と同時に、意識(自)は自らを確認するために対象(他)を必要とするので、この物理的な大宇宙という対象物を「夢を見る」という方法により創作、想像した、と。

この推論は、釈迦の言葉、彼は唯一神の存在を認めませんでしたが、「この世はマーヤ(幻想)である」の裏づけにもなるし、かなり信憑性は高いような気がします。

繰り返します。神が眠ったり夢を見たり欲望を抱くことはその定義上不可能なので、神から分離することを目論んだ神仏の子が、眠りによって神から離れた自分だけの夢のフィールドで創造主に成りすます。


この宇宙とは、神仏の子である〈意識〉が夢を見続けるための舞台であり、それが目的なので、いわばゴールのない虚無(無明)の彷徨いです。

宇宙物理学者が想定するビッグクランチや熱的死などの宇宙の終焉とは、意識の終焉とも言えますが、夢を見続けようとする意識がやがて夢から目覚める、これも宇宙(幻想)の消滅、なので目覚めようとする意欲と目的を持つ以外、この世界での営みは(夢なので)ほとんど無価値であり無意味かも知れません。

そして目覚めが、たまたま(?)個人の意識上で起こった際に(もちろん意識から分割された個人の意識でしか起こりようがありませんが)、覚者と呼ばれる存在がこの夢の世界に現れます。そした彼らは彼らが生きるその時代、適宜に応じた表現と言葉により真理を伝えようとするのでしょう。


「神がエゴを創造し、またあるときは、エゴの消滅を徐々におこなっていくのも神、というわけです」

これはマハラジの元で学んだラメッシ・バルセカールの言葉ですが、神がエゴを創造したいう発言は、もし神が完全であるなら、完全なものは完全なものしか創造出来ませんので、この物理的な宇宙を必要とした意識、夢見るエゴを作り出すはずはありません。たぶん彼の神という言葉は、古今東西の神話等に登場する神のイメージが紛れ込んでいると思います。身体がエゴの住処であり、意識がエゴの母体となるので、マハラジは「意識以前が真実である。それ以外は存在しない」と、エゴや意識を一掃した場所を指し示そうとしました。


ある人がバスターミーの家の扉をノックする。『誰にご用?』

『バスターミーにお目にかかりたいのですが』

その人にバスターミーは言う。

『お引きとり下さい。お気の毒だが、この家には神だけしかいない』

(『イスラーム思想史』井筒俊彦)

 

goblet~reprise(2020年作) 



 

2025/03/28

letter from farther あなただよ

 


信念ーー。

自分が、何を信じているのか、何を信じようとしているのかを明らかにすることの重要さ、大切さとは、自分の信念が自分の知覚するものや思考内容を方向づけ、それに基づいて自分が自分の世界を作り出し、自分が信じる通りの世界を見、満足または不満を抱き、心はそこに定着され、自分の信念が創作した世界への新しい眼差し、もしくはその世界からの跳躍を困難なものとするからです。


日本最古の書物とされる『古事記』の天岩戸伝説と呼ばれている物語りには、太陽の女神である天照大御神が、自分の弟である須佐男命の度を越した悪戯に呆れ果て、天岩屋戸という洞窟に閉じ籠もってしまったというエピソードがあります。太陽を失った世界は真っ暗闇となり、秩序は乱れ、様々な厄介事が起こり、これを案じた八百万の神々が慌ててニート化した天照大御神をなんとか外に連れ出そうと策を練り、無事成功したよ、世界はめでたく光を取り戻したよと続くのですが、僕は詳細には『古事記』を読み込んでいないのでかなり心許ないですが、この天岩戸伝説と呼ばれているストーリーを、神道を信仰している方々がどのような解釈をなされているのか?また信じていらっしゃるのかは分かりませんが、世界には無数の言い伝え、迷信、神話があり、旧約聖書、インド神話、北欧神話、ゲルマン神話、等々、その内容は、もちろん読み方によっては示唆に富んでいると思いますが、まず共通して言えることは、どれも冗談みたいなシュールさで、嫉妬や復讐、殺戮と凶暴性が渦巻く世界が豪胆に描かれておりまして、読み手に「神とは恐ろしい存在である」と印象づけます。

神話は、この世界で暮らす人間たちの心に、良きにつけ悪しきにつけ多大な影響力を持ち、たとえば日本全国各地に五万とある神社では、この『古事記』に登場する神々が今なお堂々と奉られ、参拝者はそれぞれの思いや願いを込め「ニ拝ニ拍手一拝」という作法により手を合わせます。

一神教と多神教、『古事記』には沢山の神さまが意味深な名前で登場しますが、基本的に神は名前を必要としませんから、複数の神を登場させることは、1、2、3……という数字を予感させ、これは時間と空間の舞台であるこの現象世界内でのみ有効な概念なので、そもそも自他が融和した神の世界に数えるとい行為は起こるはずありません。もし起こるとするなら、1、1、1……

さらに、壮大な神話世界を構成するために様々のキャラの異なる神々を登場させる必要はあったのでしょうが、他の神々の行いに悩み、悲しみ、怒るというこの一連の感情の動きはあまりにも人間的で、誰かとの関係が上手くいかずに不貞腐れて引き篭もる神とは、真実の神の似姿ではなく、人間によってイメージされた神であり、天地創造とは創作された神によるものではないのか?と、大きな疑問を残します。


神話とは何か?

その書物、物語りを通じてこの世を超えた事象、世界への理解と人間を導こうとするのではなく、荒唐無稽さや奇抜さ、「神は恐ろし!」の印象を与える物語りとは、ややもすると世界や人間の本質、宇宙の秘密への接近、存在への理解、洞察、直知の妨げになります。

さしずめ小説とは、往々にして誰かの頭の中の三面記事の連なりですが、世界中に数多の神話が存在し、少なからず人間の心がその影響を被る意味とは何なんでしょうか?

『古事記』に触れ、この世界の諸相を何の先入観も持たずつぶさに眺めれば、実はこの世界そのものがまだ神話の延長としてあるようにも感じます。人々の心は神との直の交流を断たれ、「神は恐ろし、敬して遠ざけるべし」と、怯える子羊のように神をなだめるための供犠、祈祷、祭典を考案し、それに権威と威厳を持たせ、有無を言わせぬ盲信を強要し、あくまでも神をこの世でもっとも恐ろしい存在、対象物として扱ってきましたが、こういった大仰で、形式的、公共的で組織的な形態の数々を、非知覚的である神は望むのでしょうか?

僕たちは今なお微睡んだ神話的な夢の営みに翻弄され続けているのかも知れません。


ある村の、神主不在の荒れ果てた小さな神社の掃除を始めた夫婦がいます。この方たちとは2年ほど前に知り合い、その経緯をいろいろ伺って、しばしお付き合いを重ねていく内、ふと気づいたことがあります。この夫婦は、神社という形、神社という幻想の上で、掃除という行為を通して幻想ではない場所へ一心に向かおうとしているのではないか?と。 

放ったらかしにされ、寂れ果てた神社を、別段誰かに有り難られることもなく、またそんな期待も一切持たず、ただただ歓びに包まれて、形式ばった法衣や斎服とは無縁な無名の者として、ただ掃除をする、掃除をする……。その心の様がなんとも美しく、真っ新な始原の信仰の姿とはこういうものだったんじゃないかと垣間見せてもらったような気がしました。

僕らは世界という夢の舞台で、具体的な行為やこの身体を通じてのみ、本質(真理)に迫ることが出来ますが、言葉や作法、教義、祭礼、神話など、上部のことが余りにも力を持ってしまうと、心が速やかに神の世界へと貫入することの障壁となります。


外的な神社とは、本来、人間が自分の内なる不壊の社に気づき、それに触れるために在るのでは?

これは教会の使命が、心の内なる祭壇を見出し、一人一人が自分の内なる神との交流を復活するためにこそあるのと同様に。

たぶん自分の内側に形なき神を見出した人間は、1、1、1……自分が神の一部であることを知り、物的な神社や教会はもはや必要としないことでしょう。もし望むとするなら、それはただ自分以外の人間のためにです。


古の心も形なし。今の心も形無し。心のみにして形を忘るる時は今も神代、神代今日、今日神代。世の中の事は心程づつの事なり。心が神なれば即ち神なり。黒住宗忠)


 〈質問:世界最大のパワースポットは一体どこにあるのですか?

ニサルガダッタ・マハラジならきっとこう応えると思います。

「あなただよ」


letter from farther1994年作)

 

 



2025/03/27

home out home アダムとイブ以前

 


この世はすべて舞台、男も女もみな役者に過ぎぬ。(シェイクスピア)


「男であるとか女であるとか、そんな外観のことはもうどうだってイイんだよ」と、誰かの思いを捕まえた還暦過ぎの老人が世間の柔らかな風に紛れそう言い放った。 


この物理的な身体の世界では、男性は男を演じ、たまに女を演じる人もいますが、女性は女を演じ、時に自分は男として生まれて来るべきであったと男を演ずる。

しかし心の領域に入れば性差はありません。なぜなら眼に見えない心の次元には形態と言うものが存在しないので。自分が男であるか女であるかの判断基準は、身体の形態や生殖器官の差、外的な知覚による認知を通してなされます。ホルモンや脳の構造の差もあるらしいですが、「自分は男性の身体を持っているが気持ちは女」とか「私が女性の身体として産まれてきたのは何かの間違え」という、個々人の思考内容の底層に隠された信念に基づく願望が、時に男を演じるか、はたまた女を演じるかを決定するケースもあり。

性別に囚われない心、性差からの自由とは、そもそも心には男も女も無いと言う、ちょっと身体の世界から離れた(自由となった)洞察により速やかに達成できますが、人類は、男と女という二項対立、身体的差異を、この地球環境で生き行くため、存続させるために必要な動力(信念)にしたので、心に性別が無いという形而上の視点により始めて見えて来る「世界」については見過ごしがちです。

この眼に見える世界だけを信じ、限定的な知覚のみを信じ、その知覚からの情報を元にした思考内容に、本来は神のように無性無名無色透明の心が追従することは、当然、ある種の歪みを生じさせます。ゴールのない葛藤と緊張を呼び起こすのです。

たぶん人間が作り出した社会の諸問題や地球上の無意味な破壊と創造のループ、暗黒宇宙の非情さとは、すべてここに起因しているかなと思います。

身体(知覚)中心主義の世界の限界と不条理、宇宙の滑稽なまでの無意味性を意識化することは、人類がまだ心中心主義?という知覚を超えた世界観を共有してないという事実を教えてくれます。

 

ところで、旧約聖書『創世記』に描かれたアダムとイブの寓話は広く知られていますが、仮に、エデンの園を無死無生の世界、絶対的楽園、大いなる源の象徴とするなら、このエデンの園からの追放とは、一なるものの分裂、主体と客体、正と負、二項対立や二元論、陰陽思想などの始まりであると解釈することができます。

「善悪の知識の実を食べた2人は目を開け、自分達が裸であることに気付き……。」という記述。たとえば2人が禁断の果実を食べて目を開いたのではなく、楽園では夢を見ることを知らなかったアダムとイヴが、蛇という〈意識〉にそそのかされ、心の目を閉じて、はじめて眠りというものを知った。つまり心眼を手放すことによってこの現象世界という夢を見始めた。これは釈迦の声明である「この世はマーヤ(幻想)である」と同意義です。

映画『マトリックス』のモーフィアスの台詞ではありませんが、「赤いピルを飲めば、君はアダムとイブ以前の世界に戻れる。青いピルを飲めば、ん〜現状維持」。

この世界、この宇宙は夢であり幻想であると言う視点がユニークで斬新なのは、ひとえにこの世界を違った眼で見ることを可能にするからです。


「人間はもともと反逆者にできあがっておるのだが、反逆者が幸福になると思うか?」(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー)


この世界は、エデンの園から離脱した〈意識〉による夢に過ぎないのか。

主体と客体という分裂のない全一の状態にあるエデンの園=の元から脱出しようとする奇怪な願望がなぜか起こり、と同時に意識(蛇+アダム+イブ)が生まれ、意識自身が創造主の座を奪取しようとする攻撃的な欲望がこの世界という夢の母胎であり、その夢の中の創造主として意識が神として君臨する。これが、宇宙の始まり、とかなりぶっ飛んだ仮説。

古今東西の賢者?リチャード・バックやボルヘス、荘子やクリシュナムルティ、ハッラージュとバヤズィード・バスターミー、そして釈迦などなどの慧眼が得た洞察とはこんな感じだったんじゃないかしら。それでこの洞察や見方、仮説によって何を捕まえることができるのか?ちょっと大袈裟ですが、この世界の不条理や狂気、意図、人間が存在する意味、そのすべて明らかになります。

小さく見積もっても、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いた無神論者を標榜するイワンの懊悩は解体されます。笑


「ぼくは神を認めないんじゃないぜ。ぼくには神の創った世界、いわゆる神の世界ってやつが認められないんだ、認める気になれないんだ。」(『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー)


加害者と被害者は同時に存在します。どちらかが欠けても「事件」は成立しません。ただ、加害者の欲望的意思が先行します。

世界(他)が消えれば意識(自)も消滅するように、世界(物質)と意識(想念)は同時にしか存在し得ません。

つまりビックバン、宇宙の創世とは、意識の仕業なのです。 


「心は主人なり、形は家来なり。悟れば心が身を使い、迷えば身が心を使う。」(黒住宗忠・17801850


そして最後に、「アダムとイブ以前」とは、時間的な遡行のイメージとして捉えるのではなく、今まさにここに実在する、僕たちの心そのものの姿だと思うのです。


home out home1991年作)

 

 



2025/03/24

blank 音楽の羊水


 

昨年10月に、友人たちのご厚意により2冊の写真集を上梓させてもらい、それ以降、何だかホッとしてしまったのか、以前のような心構えで撮影に臨むことは無くなった。気まぐれに、iPhoneで撮ってみるものの、さんざん撮りまくった被写体ばかりをなぞるように撮っているだけだから、あちら側へぶっ飛ばされるようなワクワク感はもうない。熱くもならない。

まぁそんなもんだ。

それで今年に入り、集中的に音楽と向かい合う日々が続いている。ただし、新しい楽曲を作る気にはならないので、今まで作った作品のリマスタリングをしているだけ。ことさら他に用事もないし、でも一年前と比べると「ずいぶんイコライジング仕様の聴感が出来たなぁ」と感じる。エンジニアリング、独学だからか、ここまで来るのに10年もかかってしまった。

22、3歳からインストルメンタルの音楽を作り始め、これまで何曲作ったのか数える気もないので分からないが、アルバムにしたら20枚ぐらいになるのか?よくもまあ、どこにも発表するあてもなく、ごちょごちょ1人作り続けたものだ。

20代の頃から本気になって写真をやり音楽をやり、当時は「二足の草鞋を履いたら成功できない」的な風潮があって、そんな嗜めの言葉を何度か投げかけられたこともあったが、写真と音楽、その両方の制作を続けられて良かった良かったと、今は思う。

還暦を過ぎ、当然のことながら、身体の死は意識せざるを得ないが、もし写真や音楽を作る以上の楽しみと出会えたら、もちろん創作活動なんぞはスパッと止めてしまうかも知れない。それは、きっと、そういうもんだ。

 

僕の中の誰かが「もう充分作ったよ」と。 


blank1984年作)

 

 


 

2025/03/23

Borges's dream まがりやどかり


 

"Writing is nothing more than a guided dream." 


これはアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの発言ですが、「書くことは、導かれた夢に過ぎない」。

これ、いいですね。

不遜にも自分に寄せてみるなら、写真家として撮影をすることも、音楽を作ることも、確かに共に導かれた夢に過ぎません。ただし、表現者の創作行為のみならず、あらゆる人間の生き方、個々の生、運命とは、導かれた夢ですよね。

ボルヘスはまたこんなことも言っています。

「我々の住む世界は一つの錯誤であり、役立たずのパロディーだ。The earth we inhabit is an error, an incompetent parody.

手厳しいですね。

僕たちが住んでいるこの世界はパロディーだと言うこの発言は、ヒンドゥー教の世界認識「リーラ(lila)・神の戯れ」という教え、観点と重なります。注目すべきところは、この世界をパロディーもしくは神の戯れと断じるには、その認識者がこの世界内で起こる諸現象に自分の知覚が振り回されることなく、この世界の外に出てこちらを見なければ獲得できない視点、認識です。超越論的視点とでも言うのかなぁ。もしくは時間と空間を超えた「空」からの眼差し。

さらに英国の劇作家ウィリアム・シェイクスピアは『テンペスト』でプロスペローにこう言わせています。

「われわれは夢と同じ材料で作られている。我々の儚い命は眠りと共に終わるのだ」

"We are such stuff as dreams are made on; and our little life Is rounded with a sleep."

もしこの台詞の後に続く言葉があるとするなら、それは「そして我々は永遠と共に再び目覚める」。


知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。

 

「ところで、荘周である私が夢の中で蝶となったのか、じつは自分が蝶で、いま夢を見て荘周となっているのか、私にはわからない。

荘周と蝶とは、確かに形の上では必ず区別がある。これがまさに物化(万物の変化)というものだ」(『胡蝶の夢』荘子)


そしてふと、紀元前5〜7世紀の釈迦の「この世界はマーヤ(幻想)である」と言う歌声が、あらゆる場所、あらゆる時代の人間たちによって多様な言い回しでさらなる命を吹き込まれリフレインされているなと思うのです。

 

Borges's dream(2020年作)

 

 



2025/03/21

family あなた(と自分)の元まで


 

この世界に生まれて、奇妙な違和感やたった1人取り残されたような孤絶感を味わったことの無い人は誰も居ないと思いますが、どうでしょう?


「自由でないと鮮明にものが見えません。自由がないと美を感じとることができません。」(ジッドゥ・クリシュナムルティ)


はじめて自分を意識した瞬間、外側に世界や風景が広がり、手で触れる距離には様々の形をした物たちが、そして自分と似たような身体をした人間が動き回り、四方八方から色々な音が聞こえてくる。ときおり自分に向かって話しかける人たち、風を感じ、陽射しの眩しさや、暗闇の訪れと、この世界のすべてが自分と離れて存在しているような感覚、世界と自分が同時に現れた瞬間、はじめて距離を知った切ない瞬間……

自分がここに居ることを意識した瞬間、自分がひとつの小さな身体に閉じ込められたことを知り、外的な世界、多くの人々、空を駆ける鳥たち、草むらの中の昆虫や、長閑に目前を通る小動物たちから分離していることを強く自覚させられて、眠りが来ては、とたん自分と世界が消える。そして眠りから覚めたら、また世界が現れその繰り返しの中で、意識はややもすれば疎外感へと迷い込む。寂しいという感情が生まれ、不可解な恐れや警戒心がただ膨らんでゆく。


「目に見えるものには、みんな限りがあるんだ。だからきみの心の目で見てごらん。」(『かもめのジョナサン』リチャード・バック)


自分の身体を絶えず意識させられて、その身体の機能や状態に振り回されている自分の思考や感情が、知覚による快不快の個人的な感情体験から離れた、「あなたと私は別々の身体」という隔絶感が、なぜか時間と空間のことを知らない歓びと微笑みを含んだ光の洪水の内で、融けてゆく。やがて自分意識は私の身体を超えあなたの元まで広がってゆく。だから今ここで、意識がひとつであり心もひとつ、全一であることを見出せる場所へと自分を放つ。

この外的な世界はいずれ消滅し、内と外はひとつとなり、自分が世界そのものであったことに気づく瞬間がやって来る。


知覚という魔法を横切って、今までこの世界から学んできた怪しげな教えやルールの数々をひとつひとつ思い出し、ためつすがめつ吟味して、永遠という名の秤にかけすべて放り出してしまえ。

「空手でここまで来なさい」と、そう懐かしい声がする。 


やがて自分意識は私の身体を超え懐かしいあなたの元まで広がってゆく。

 

family(1992年作)

 

 


 

2025/03/15

akuru いまだけがとわのいりぐち 

 


「きみの知覚内容はそもそもきみの思考内容だよ」

光輪の藪からふわふわ現れた小指サイズの精霊が、その小ささに見合わぬきっぱりとした声で、記憶の波間をゆれ動く心に、「きみが見ている世界は(きみがまだ気づいていない)きみの意識が作り出したってことさ」

「きみが作り出したものはすべて夢 実在しないよ」と、まるで懐かしい歌を口ずさむかのように話しかけてきた。


僕が作り出したものがすべて僕の意識が生んだ夢なら、この僕の夢の中に現れたきみは誰?


「きみが見ている世界と きみが考えているきみというイメージを作り出したのはきみだけど きみを生んだのは僕だよ」


じゃあ、僕が夢を見ている原因はきみにもあるってことかな。 


「そうだね だからこうしてきみがまだ夢を見ていることに気づいてもらいたくてね ちょっときみの夢に現れたってことさ」


でもどうやって、夢を見ているという自覚のない僕が、夢から覚めることが出来るんだい?


「夢は変化するよね 変化するものは仮想で 真実ではない なぜなら 時間と空間の影響によって変化するものは真理 永遠 実在するとは言えない きみの感情も きみのその身体も この世界も この世界についてのきみの考えも 変化するから真実ではないよ」


自然の奥行きの外側で、小鳥たちのすべての花が揺れている。


「夢をリアルに感じさせているのはきみの身体と五感 それと意識のせいだけど きみの身体はやがて土に還り きみが考えているきみ(イメージ)はやがて消滅する その時 身体とくっついていたきみの自分意識は 個人としての自覚が消え すぐさま意識はたったひとつしかないことに気づくはず きみがまだ信じているきみとは現れたり消えたりするだけのものだから まさに夢みたいなもの」


“Where have all the flowers gone?”


じゃあ輪廻転生ってアイデアも夢なのか……

で、きみは一体誰?


「僕はきみの心 きみの心の始まりさ」


akuru1996年作)

 

 



2025/03/13

サザンカ spring tune

 


ずーっと机の上で、誰かが書いた文章が行儀よく並んでいるだけの本と呼ばれる観念世界上で、心の見方や心理のバリエーション、行動における統計学的な反応パターンや主観的な心理観察レポートの記述をひたすら読み込み、暗記して、知識を蓄えたとしても、たとえばコンビニのレジ打ちのバイトなんかしながらその場所でしか見えない世界と五感を通じての生々しい体験、世の中には様々の背格好を持った心模様が、多彩な嘆きと音色の異なる懊悩が、職業が、またこの社会の構造が生み出したプライドや劣等意識、そしてよーく耳を澄ませば幼児期のトラウマ独奏曲が静かに鳴り響き、挫折感のトーンとその強弱や、環境によって育まれた性格と持って生まれた気性からの影響、屈折の度合いとその微妙な角度や方位の差があって、執筆家のような言語表現力を持たないクライアントの症状告白への真偽を嗅ぎ取る反射神経などなど、実地で、つまり人様の具体的な身体と心たちの土俵の上で、混雑した生の現場で、自身の身体と知性を張り巡らし見聞きして、謙虚に学んで来なかった暗記力抜群の机上の妄想者たちに、果たして精神科医とか臨床心理士などの資格を与えても良いものだろうか?
「これを読めばお絵描きが上手くなる!」的な教則本を読み込むだけでは絵が上手くはならないように、ただひたすら椅子に張り付き本を読み国家資格をゲットした20代30代のガリ勉くん、社会の不条理や低所得者の倹しい暮らしを身近でビシビシ感じて来なかった者に、または時給1000円?の重みを味わったこともない象牙の塔の住人が(笑)、社会が強要または提示した身分の差やお金にまつわる問題、さらに歪みまくった人間関係で精神に異常をきたした弱き心の元へとすっと近づけるのだろうか?

分裂病が「病気」ではなくて、他人との関係において歪められた「生き方」だという考えは、私自身の内部ではとっくに自明のことになっていた。(木村敏)

絵が上手くなりたければ、ひたすらキャンバスに向かい絵を描くしかないが、人間の心理とは、キャンバスのようにはじっとしてはおらず、絶えず動き回る。そんな動的な心を相手にカウンセリングする、治療する、そのスキルを上げてゆくということが、どれほど困難なものであり、また膨大な経験値を必要とするか、切に自覚している精神科医はまだ少ない。

私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないか。(木村敏)

もちろん精神科医として日々クライアントの面倒をみている彼らの仕事はなかなか厄介な、まるで達成感が得られない、刻一刻と自身のプライドを蝕んでゆく可能性大の仕事だから、これに抗う為に、ついつい「この病気は遺伝です。だから治せません。薬物療法でずーっと付き合ってゆく病気です」なんて信じ込もうとする気持ちは分からないでもないが、「私は絵描きです。でも絵を描けません!」と、もしこう仰る方がいたら「んじゃ、絵描きを名乗るなよ!」と突っ込みたくなるもの。

「きみはなぜ精神科医に対してそんな辛辣というか、拘るの?」
だって高給取りじゃーん!ってのは冗談で、たぶん僕が小学4年生の時に、母が精神分裂病と診断され、話せば長くなるので端折って書けば、ある人間の精神の病が引き起こす様々の問題を、苦々しい場面やそれに伴う逃れようのない切なさを、そして堂々と公表できない秘密を持たされた者の哀しみや人格が突如豹変する姿を目の当たりにする恐怖、心理学の本を読み漁ってもその内容は部分的な視座に過ぎず、具体的に何も変えられなかった家庭内で多くの〈疑問〉を若くして持ってしまったからだと思う。

ところでGoogle検索によれば、今から150年前の1875年(明治8年)に日本で最初の精神病院が京都の南禅寺境内に開院され、その後1948年に児童精神科医療が始まったそうである。然るに精神医療とは、まだまだ改良の余地ある未開拓ゾーンであり、発展途上部門だと個人的には思うが、確かに母が入院していた50年以上前と比べれば、向精神薬の種類は増え、そのグレードはかなり良くなったような気もする。電気けいれん療法(ECTという脳に程良い電圧調整も可能となり、アメリカで一時流行ったアイスピック・ロボトミー手術の効能を信じる精神科医はさすがにもう居ない。鬱や狂気の原因を数値や画像で発見したいという使命や欲望が、はたまた治療費請求のためか、高価なMRIを置いてしまうという不思議感はあるが、年若いカップルが手を繋いで気軽に精神科の門を潜ることを可能にした世間的イメージの変化、つまり「お、お、おまえ、精神病院に行くんか!」というかってのハードルの高さは無く、これは良きこと。だが、昭和の時代なら、単に「しようがねーな〜」と放っておかれた少々落ち着きのない子供らをADHDアスペルガー、自閉症と、すぐさま発達障害スタンプを押し薬漬けにする現状は如何なもの?

精神医療とは、目に見えない心の障害を、目に見える身体への取り組みによって解決しようとする(狂気の)試みですが、では精神病院の〈外〉である正常な者たちが過ごしているこの社会、この健常者スペースではこれまで一体何が行われて来たのか?起こってきたのか?
縄張り争いが高じての戦乱戦国の世にはふつ〜にさらし首、リハーサルなしのチャンバラ、斬首刑、釜茹でが……。NHKの大河ドラマなどで取り上げられ美化された武将なども、所詮は現代の暴力団の親分でもたじろぐような大殺戮を指示してきた者たちではないか。そしていまだ海の向こうでは殺し合いが。〈外〉の世界も十分狂っていて残酷極まりない人類の歴史。
100年前、50年前と、確かに鉄格子がチラつく劣悪な環境と残酷な治療法は少しずつ改善され、患者同士の軽い殴り合いはあっても血みどろの殺し合いはない現在の精神病院とは、社会の熾烈な椅子取りゲーム、競争、狂気から一時的または長期的なエスケープを許してくれる、日がな一日ボーっと、いや、一生働かずに冷暖房完備3食看護付きの殿様のような暮らしを補償してくれる薔薇色の駆け込み寺として機能しているようにも見える。
 
この世界のどこに正気のスペースがあるのだろう? 
それは病院の中か?〈外〉か?
狂気とは、確かに直接的には知覚されぬ心から起こり、この物理的な現象世界で多様な表現方法を取る。
僕も十分狂っている。
ならば心を見詰めるしかないではないか。
そこに答えがあり、真実が在る。

(と、オチのないお話でした。)
 
spring tune(1991年作)

 

 



2025/03/10

Peruvian City 見ずの開き

 



土木作業員からすれば「何言ってやがんだ〜!」となりますが、屋外専門フォトグラファーも、鋭い陽光に照らされ、また雨の中をぶるぶる震えながら、大地と仲良しとなり、また道を這い回る人種なんだと。

そんな撮影スタイルで、30年間歩き続けて来た者が、屋根や壁に守られた部屋で物撮りを始めても、屋外撮影での記憶がびっしり刻み込まれた身体と眼で撮影に望むわけだから、そこから生まれる写真は、きっと通常のスタジオ撮影とは異なるオーラが定着されるだろうし、またそんな期待を抱いていなければ、雨風に晒されることのない屋内での物撮りなどナンセンスさ、と息がってみました。笑

さて本題ーー。

今朝、Yahooニュースで村上陽一郎という科学史家・科学哲学者の新刊案内の記事を見かけ、名前は知っていましたがその著作を手にしたことは無く、ただそのインタビュー記事を読むとなかなか興味深いことが書かれていて、思わず色々検索してたら大森荘厳という哲学者の文章に行き当たる。

最近、このブログで、写真や音楽のみならず意識とか真理、知覚や身体、心などについて書いていますが、僕が考えていることはすでに様々の哲学者が考え抜いてきたことなんだなぁ〜と。

ただ、面白い!と感じたのは、似たような意味、内容、視座について、人それぞれの言語表現が、言い回し、表し方がありますよね。

土木作業員からすれば、たぶん「何言ってやがんだ。さっさと手動かせや〜!」ですが、大森荘厳が書いてます。


"いずれにせよ、次のことは言えよう。もし私に「見え」、私が「触れ」、私が「味わう」ものすべてが「心像」であるならば、私の生きる世界はすべて「心像」であるはずである。だとすれば、「心」は私の内にひそむ何ものかではなく、私の部屋に、街に、海に、空に、日に月にまで拡がっている何ものかなのである。幻といわれるものすら私の外に見えるのである。まさに「心」と呼ばれたものは「世界」なのである。"『物と心』(1975


哲学とは、そんな堅苦しいものでも、難しいものでもありません。それが始まった理由は、結局この地球という場所に産まれて、「なんだかここで暮らしていても、どうにもこうにも納得いかんこと、解せないことが多過ぎるんだよなぁ。なんでこんなカタチをした身体を持ってなきゃいかんのだろう? 生まれるとか死ぬとか、考えるとか感じるとか、モノが見えるとか、食べるとか、訳の分からん空間や時間に制限され支配された人生って、何のためにあるの? ここは一体何なのさ?」という疑問からなので。

もし、人類が登場し、この地上生活がすべての人間にとって満足のゆくものだったなら、決して〈哲学〉なんて生まれるはずも無し。

たぶんこの地球上の暮らしとは、大昔からニンゲンにとってはどうにも合点がいかぬものだったんじゃないかしら。

 

Peruvian City(2019年作)

 

 


2025/03/08

Boys Meeting 落とし所


 

精神病院の経営はリピーターによって成り立っていると言っても過言ではない。そこにご新規さんがぞろぞろ新たに仲間入りするのだから、商売として見たらコレ笑いが止まらない。
しかし実際、この精神科スペースに数多の無表情はあっても明朗な笑いはない。
精神病院の右肩上がりの成長率とは、我が国の経済効果にはまったく寄与せず、せいぜい外資系の薬品会社を潤すだけ。(しかしこんな感じで患者数が増え続けたなら、一体この先、我が国はどうなるんだろう?)
サイキアトリストでもクリニカルサイコロジストでも肩書きはどうでもいいから、「早く治せやー、この給料ドロボー!」と、ある看護師の嘆き。笑
そしてある快晴時、アホの三浦(仮名)32歳が仕事中の僕に近づいて来た。
「カ、カ、カイヌマさん、いまそこを通った人に僕は税金ドロボー!って言われました」と、無表情に愚痴った。
「あぁ、彼か……。よく見かけるよね。役所関係の人だよね」 
やや哀しみを押し殺したような複雑な表情を浮かべ、小さく頷いた若き生活保護受給者。
「そりゃ、立場上、腹の中で思ってても決して面と向かって言っちゃ〜いけないコトバだよな。(笑)でも、それ事実じゃん!ハハハ」と僕。
さらに次いで「まぁでも、悪意があってそう言ったんじゃないから。とにかく疲れてんだよ、ストレス溜まってんだよ」と、50手前の国税によって老後は安泰万全の暮らしが待っている地方公務員をなぜか弁護していた。
合点のいかぬ顔をしながら聞いているアホの三浦。
皆、それぞれの立場から様々の不服、不満を抱き、本音を押し殺し生きている。時に漏れてしまうこともあるが、とにかく必死で、幸せになりたいと、アホの三浦だって同様、もちろん僕も御多分に洩れずこの世にしがみつき、生きている。
一見、公平に、死を待つだけの何とも奇妙なこの世界。
だが、こんな説もある。「きみが見ている世界とはきみの意識、思考内容、欲望的信念、心の一部が作り上げた(想像)世界だよ(だから実在していない)」と。
さらに「この世界の存在証明は、きみの身体と知覚の連動によるものだけれど、そもそもその身体もきみが世界を存在しているような錯覚を起こさせる為に作り出された(妄想された)ものだからね」。
ってことは、アホの三浦も市民からのクレームに酷く怯えている公務員も、全員僕の一部であり、この世界そのものが(本人はあまり自覚出来ていない)自虐的な妄想に起因する、と。
だからもうそろそろ、この銀河世界劇場を作り出した意識本体まで遡行し、この意識そのものを観照しうる視座(気づき)へと移行し、この意識そのものが実は夢のセントラル採掘場、張本人であった事を見抜くこと。これが、最期の落とし所。

Boys Meeting2019年作)
 
 

 

2025/03/06

the end park ただのジョークさ

 


社会に対してとやかくその倫理的な不備について物申す、または愚痴るのは実に容易いことで、だいたい社会的劣等感の強いタイプが総じてこの「とやかく正しいことを言う俺ってイケてる」的な罠に引っかかりやすい。


インドのガンジス川と東京の多摩川はもちろん違う。

公的に、水浴できる場所があるのは良いことだ。さらにそこが祈りを捧げる場所でもあればもっと美しい。

僕は最近常々思うのだか、公的に、「ここなら野垂れ死にしても構わないよ」的なスペースが(もちろん屋外)、この国のどこかに作られたら、ほんと死に対する考え方の革命的な取り組み、希望や安堵も膨れ、それはまさに豊かさの爆発なんじゃないかと思っている。笑

ホームレスや乞食、いわゆる社会的心身脱落者の不幸とは、現在の社会が、その経済システムの原理原則上、国の衛生管理学上、「君たちはこの社会のお荷物だからそこんとこよろしく!」という烙印をその傷ついた心にさらに追い打ちをかけるか如く、無表情に押してしまうところにある。そんな気がする。

今は、野垂れ死にを希望し、姥捨山ではないが、静かに死にゆくまでの時間をゆっくりと休めるスペースがどこにも無い。それがこの国の貧しさだ。


庶民の、心理面における強度は、江戸の世と比べたら、確実に落ちている。いや、体力も、寒暖への抵抗力も、バイ菌の免疫力も確実に落ちている、はず。

食生活や娯楽の豊かさ、職種の多様さと心の強度は決して比例しないもの。

ただ、現代人は江戸時代の人々と比べ、総じて意識の明瞭さは手にしたかも知れない。


国策と政策ーー。

この世界は、どんなOS(システム)を導入してもバクが出るようになっている。身体の世界、五感に信を置く現象世界とはそういうものだ。

20世紀にコンピューターが開発され、あっという間にお茶の間の必需品となり、コンピューターにまつわる仕事や犯罪が、19世紀には誰も想像できなかった新種の問題や恐怖をぎょうさん生み出してしまったように、今後の未来、いわゆる宇宙開発がますます進み、めでたく地球以外の星々の移住がふつーに可能になったとしても、やはりそれに付随しためちゃ厄介な問題を膨大に抱え込むことになるだろう。

ゴールの無い、何処にも行きつかないゲーム。この世界とは、人間の暮らしは、外的にどんな状況に移り変わろうとも、いわば上がりの無い、死という上がりしか容認しない。(ならば死に方ぐらいに自由にさせて〜。)

どーせ世界についてあれこれ考え思い悩むフリをするなら、もし世界や人々の生き方や環境等々に真面目に憂慮するなら、一度そこまで極端に考えを推し進めるガッツが無ければ、全てその場しのぎ的な、精神病者への気休め薬物治療とおんなじ、対処療法的な薄められた取り組み、卑小な問題解決でしか無いのに「あれが問題だ!これが問題だ〜!」と大袈裟に騒ぎまくるだけで、この世のゲームを俯瞰することも叶わず、一歩も〈外〉には出れないだろう、死以外には。


覚者とは、絶えず根源的な視座に立ち、絶対的な根本療法を明示してきた稀有な存在であったように益々感じる今日この頃のオヤジの雑感。


この世界とは、この世界が狂気の場所に過ぎなかったことを悟るまで続く。


the end park1991年作)

 

 



2025/03/02

owarikata はじめ方

 


郊外の、土日祭日には都心の方から登山客でごった返す観光地の外れにある総合精神病院の外来駐車場のド真ん中で、仕事の合間、その立ち位置から見える辺りの遠景を、何かが到来する予感に満ちた感情の色彩が濃厚に滲んだ定点観測風写真撮影を続けていたのは確か今から7年前のこと。ついこの間のような気もしますが、現在は撮影することもなく仕事中はじっと思索しています。笑
「撮影を続けないの?また撮影すれば良いのに」
「散々撮ったからね。また撮影を始めたらそれこそ無味乾燥な定点観測写真になっちゃうじゃん」と、その場所に立ち、何か新しい光景が見え出したら再び撮影を始めるのでしょうが、今はただ精神科病院の外来駐車場のど真ん中で思索三昧!(最近のブログの文章は全てここで考えたこと。)

ところで、この病院で成り行き上親しくなった入院者は数名いますが、今日はそのひとりを紹介ーー。
この方、若い時分に心の病に罹り、30年近く入退院を繰り返し、現在50歳ちょい過ぎの、関東方面の精神医療施設、病院などを転々とし、9年ほど前この病院に送り込まれ、なんとその人生の半分以上が施設と病室暮らしというかなり数奇な運命を辿って来た方。たまたま音楽の趣味が合い、こちらがズケズケものを言ってもさほど動じない無邪気さと、根は豪胆な部分もあり、仕事の休憩時間を利用しては様々のことを話し合った。
40代の頃に密教思想にハマり、母親との諍いごとで思わず九字切りをして倦厭され、のちにクリスチャンとしての洗礼を受け、今は行きつけの教会でゴスペル音楽を歌うことを歓びとしていますが、たぶん音楽と自己防衛的な信仰心が彼の唯一の心の支えとなっています。
では本題、彼との会話のエピソードをひとつ。
ある時、僕としてはかなり意を決して(笑)、「この世界ってさ、ほんとうは無いんだって知ってた?」と切り出してみた。
すると彼は一瞬不安げな表情を浮かべ
「また〜、海沼さん、やめて下さいよー、そんなこと言うの」と明らかに動揺し始めた。
「でも、お釈迦さまだって、この世はマーヤ、幻って言ってたじゃん」とフォローのつもりで続けると「海沼さん、その話はまた今度にして下さい」と後ずさり……
「この世界は無い、幻想である」と言う発言が、人間社会から狂人のレッテルを貼られ、監視付きの隅っこの方へと追いやられ、薬漬けにされて、院内では人間の様々のバリエーションの狂態ぶりや摩訶不思議な悲劇を見てきたであろう精神病院のベテラン入院者でさえも「この世界は幻!」というあの仏陀のコペルニクス的大転回なお知らせには恐れ慄き、そそくさと院内8床室へ退散。
さんざん人間と人間が壮絶な殺し合いをしてきた野蛮な歴史を持つこの地球、社会通念や公的マナーからちょっぴり逸脱し、自分たちをクッション付きの壁に囲まれたガッチャン小宇宙(保護室)に隔離したこの世界が夢であったらそれこそ最高の救い、救済ではないか?
こんな世界、こんな寒々とした真っ暗闇の宇宙空間でもまだ存在して欲しいという人間の奥深い荒唐無稽な欲望、圧倒的狂気、深く吟味されたことも無い潜在的な信念(この世界はある、時間と空間は存在する、とか)について、彼を通じ、あらためて深く考えさせられた。いや、人ごとでは無いのだ。人間の心、意識の実態、その巧妙極まりないカラクリとは?
「(この世界が無いってことは、つまりきみや僕が考える、もしくはこの自己実感って奴も幻想、イメージに過ぎないってことになるよね)」 
なるほど、この言葉、この知らせ(真理)こそが、人間社会にとっては最大の狂気かも知れない。
なぜなら、この仏陀の教え、達眼をそのまま了解したなら、たとえば日本仏教の諸々の形式、行事、決まりごとなどは反仏陀、仏陀の思想に非ずという恐るべき論理的および感性的帰着。
さらに仏陀の教え、この眼差しによれば、世界について考える、社会に蔓延る諸問題について考えること自体が、幻想について思案し、幻想に取り組むということとなります。
限られた自分の想念、反復的な妄想から逃れられない統合失調症者と比べ、この世界を少しでも良くしようとする者たちの思考の情報量、豊富な経験値、さらにその正義感に満ちた想い、良き想像力などなどをベースにした取り組みは、きっと世界の多くの不平等をなだらかにし、より住みやすい社会、人間の暮らしをより快適に、より便利に、未来の子供たちの為に大いに役立ってくれることでしょう。
ですが、常人も、いわゆる社会的排除者も、両者共に幻想の中に居て、夢を見ているという意味では五十歩百歩。仏陀の明視は、人間の根本的問題、人類の不幸の根とは、移り変わる諸現象であるこの社会や世界構造の不備や欠陥部分、ありとあらゆる問題や不条理にあるのではなく、人間がまだ夢の中に居てこれに気づかず執着し、翻弄され、夢と戦い、挑み、また魅了され、この夢の世界での幸せのみを追い求め、ひたすら夢を見続けていることにあると。
ではなぜ、一体誰が、僕たちが共有できる「現実」としてこの夢の舞台を必要とし、作り出したのか?

owarikata2010年作)
 
 

2025/03/01

amore 異郷百景


 

これは写真撮影している際にも起こることですが、音楽制作をしている最中、やや普段とは違う次元、別の人?になっていたのか、後日、大方出来上がった楽曲をあらためて聴くと「え?!なぜこの音とこの音を選び、重ね、こんな展開にしたのだろう?」と、自分でも驚くことがあります。それでその時の制作状況や心理状態などを思い出そうとするのですが、なんとも曖昧で、ほとんど記憶から抜け落ちています。写真の場合だと「え?誰が撮影しの?」と。
なので「似たような曲をもう1曲作ってよ」と、仮に誰かからオファーされてもたぶん2度と作れないと思います。これは写真表現も同様で、僕には幾つかの写真シリーズがありますが(シリーズで区切ることによって次のシリーズへ進めるから)どのシリーズも2回目は無いのです。
今回アップしたこの「amore」という楽曲も、当時の心理状態をあまり思い出せません。
「ん~作らされたのか?」
でもそもそも音楽を作ろうという意欲が無ければ作らされることもないので、何かしらの理由や意味はあったんだと思います。
ところで、最近、写真のことも含め、音楽について、今まで考え感じてきたことなどをこのブログに書いていますが、創作の動機や意図について言語化する作業を自分に課すのは、ある人物と出会うまでは必要ないことだと思っていました。
2年ほど前に、内田和男さんという人物と知り合い、彼と度々セッションを重ねてゆく内に、自分が写真や音楽を作り続けてきた意味を、深く問うことへの有意性を知りました。それまでは「言葉では表現出来ない世界を、写真や音楽という表現形式を通じて表そうとしているわけだから、作品に言葉というキャプションは不要」と敬遠してきたので。もちろん自分が大事と思う中心テーマは持っていましたが、それを明確に、詳細に言語化することは、表現の自己規制に繋がるのでは?言葉に縛られ自由な表現が抑制されるのでは?と恐れていたのかも知れません。
では、写真や音楽という表現を通じて、僕は一体何を求めてきたのか?
何を開示しようと願っていたのか?
写真は、見ることのレッスンであり、対象をじっと見ること、撮影とは注視することであり、いわば観照の状態に身を起くことです。
音楽は、耳をそばだて、その音たちが拓くフィールドで何か起こっているのかを見詰め、持続的な集中へと意識が向かうので、これもまた観照の状態に入ると言えます。
たぶん創作とは、すべて観照状態に我が身を置くことではないのか。
そして、そこで始めて見えて来る世界、聞こえて来る(音が遍満する)世界があります。
この世界とは、「この世ならざらヒカリ」の謂ですが、僕がこれまで写真や音楽の制作を続けられた1番の要因は、たぶん創作という行為が、「ヒカリ」と1つになる事を可能にしてくれたからだと、今にして思います。

この「amore」には、一般的な音楽ではあまり耳にしない音たちが表れますが、これは若い時分に聴いたアメリカの現代音楽の作曲家デイヴィッド・チューダーの作品から学んだことです。ただし、彼の作品とは異なり、内的に、ひとつひとつ音や響きに自分の心を交錯させています。(彼の作品は音を放りっぱなしですので。笑) 
ですから先入観なしに聴いていただければ、音たちが織りなす世界へやんわりその心を預けてくだされば、僕の意識がいかにその音たちと交流し、さらに耳や眼がどのように動き、一体どこを目指して、「この世ならざらヒカリ」に触れたのか、追体験できるように思われます。

あなたはすでに今ここで完成している。完成することができるようなものはあなたではない。あなたはあなた自身でないものをあなただと想像しているのだ。(ニサルガダッダ・マハラジ)

amore2021年作)