2025/01/13

sudeni スデニソレハソコニアッタ


 この世界に「美しい花」というものは存在しない。しかし、美しい花を見出すことのできる生命体はいる。

人間だけが、花を見て「美しい」と感じる。

これはなぜか?

それは、人間の心の中に初めから〈美しい花〉が存在しているからだ。


同様に、この世界の「自然」とは、美しくもなければ醜くもない。

四季折々の営み、その表層的な変化のある断面を取り出し「美しい」と感じることはできる。が、そもそも自然界、その総体とは弱肉強食と縄張り争いがうごめく残酷な面をその内部に隠し持っている。

では、絵に描かれた〈自然〉とは何なのか?

絵に描いた餅はしょせん食べられないと、さも食べられる餅にこそ価値があり的な考えに縛り付けられている動物やヒトは多いが、絵、芸術とは本来犬猫には必要ではない人間種だけの心の食べ物であり、実は「自然」から心を取り出し、移り変わることのない源泉の美を、1枚の画布に、その聖性と歓びや神秘を抽出し、再生させることが出来る機能と役割を与えられたのは芸術家だけだ。


つまり「絵画」そして「音楽」によって、この自然界が初めて天上へと復活する。


だが、すべての人間が潜在的芸術家である

 


2025/01/12

rebirth

 

この『rebirth』という曲は、TASCAMの8ch カセットテープ用 MTR(マルチトラックレコーダー)を使用し、YAMAHAのSY77や打楽器、エジプトやニューヨーク等でのフィールドレコーディングによる環境音などを混ぜ、1996年に制作したものです。 

たとえばこの作品を聴いて映像を喚起する方はいらっしゃると思いますが、映画音楽、劇伴と呼ばれている音楽ジャンルに関して、それは僕が考える「音楽」の範疇には入って来ません。

なぜなら、ある映像、シーンのために作られた映画音楽は、あくまでも効果音、映画のための装飾であり、映像やシーン、ストーリー抜きの純粋なリスニング体験が叶わないからです。
与えられた映像を思い出しながら音楽を聴くのではなく、その音楽によって自分の内側から何が見えて来るのか?また、聞こえてくるか? もしくは、呼び覚まされるのか?

音楽を聴くという体験にとって最も重要な点は、ここにしか無いと僕は考えています。

 自由に作り出された音楽は、聴き手の内に、それぞれの個性と記憶を尊重しつつも、当人らがまだ気づかぬ新しい「自由への道」を照射しようとします。

 


2025/01/10

安息の日 no man's sky

 

~音楽の作り方~

現在のDAWによる僕の楽曲制作は、DAWを単なる録音機として扱い、即興演奏を主体に、さほど積極的なエディットを施さず、すぐさま仕上げてしまう場合と、様々な楽器の音色をMIDIに書き込み、トライアンドエラーを繰り返し、その1つ1つの各チャンネルをきめ細かく操作して、気の遠くなるような長い時間をかけ制作するパターン、この2種類の作り方をしています。

この『安息の日 -no man's sky- 』は、演奏中に各パラメーターを動かしながら、即興演奏による一発録りです。

 
私とは誰か?
私とは、〈私-意識〉が作り出した分節した(小文字としての)私。
あなたとは?
あなたとは、この(小文字としての)私を存在させる為に〈私-意識〉が作り出した私の一部、私の万華鏡。
では〈私-意識〉の生みの親とは誰か?
大文字としての私とは、誰か?

「私とは誰か?」という問いと、「この世界とは何か?」という問いは、同一の問いです。
なぜなら、この世界が無ければ私の身体は存在しえないので、「私」という意識が生む「私とは誰か?」という問いそのものが生まれないからです。
また、この私が居なければ、私にとってこの世界の有用性は消えますので、世界そのものの価値も無に帰する。
つまり、私と世界は〈同一〉であり、この世界とは、私であり、私が、この世界の原因だと言えるのです。
 
 

2025/01/09

バラード ballad


 この『バラード ballad』という音楽作品は、TASCAMの4chオープンリールデッキを使用し、多重録音により制作しました。 
 
自身の声の重奏を主体とし、鐘の音やギター、マイクスタンドへの打音等を加え、雨の音などの外音も取り込み、1つの音響空間の創出を試みたものです。 
 
ロックやフォーク、ソウルミュージックなどの影響受けた歌を書き、歌っていた僕が、はじめてインストゥルメンタル音楽の世界に入るきっかけとなった作品でもあります。
  
当時、ガラス清掃のアルバイトをしながら不定期に都内のライブハウスでアコギ1本で歌を歌っていた者が、『バラード ballad』という何とも摩訶不思議な音楽をなぜ作ろうと思い立ったのか? 
 
それは1984年のある夏の正午。仕事中、銀座の美術ギャラリーでたまたま見かけた町山京子という作家のインスタレーション作品との出会いが、『バラード ballad』制作へと僕を駆り立てました。

「もし、この展覧会場に音楽を流すとしたら、どんな感じのものが合うのだろう?」と、
突然閃いたのですが、ある外的な視覚情報が制作の動機となったことは、後にも先にもこの時限りです。
 
 
時間と空間の法則によって成立しているこの世界、この法則はなぜ生まれたのか?もしくは必要とされたのか?ーー何のために?
宇宙の起源とされるビックバンの原因をあれこれ推測できたとしても、それが一体何の、誰の役に立つと言うのだろう。
ビックバンは「意識」の誕生、流出であると言う説もあるが、この仮説には物理学的なアプローチでは近づけない、肉体や五感、つまり時間と空間の法則から自由になる為のヒントが隠されている。 

2025/01/06

風の家 house of wind


 過去の音楽作品、録音物をあらためて聴き直し、今現在の聴感でリミックス、リマスターを施す作業を続けていると、制作当時には気づかなかった、敢えて意識化しないポイントを残し作業を進めてきた理由や、それでも半意識内に留めて置いたそのポイントの内訳?その音楽作品に流れている世界観のあらましが、明瞭に、意識の明るみに浮上して来る。

「そっか、なるほどね〜」と、自分自身の心の特性だったり、志向性、願い事、思いの総体のようなものが意識の波打ち際で言語化されてゆく。


たとえば、僕は楽器演奏のための正規の教育は受けておらず、すべて独学なのですが、ある楽器を扱う、演奏するための技術を習得する為には、それなりの練習期間が必要となります。

これはスポーツ選手も同様で、試合に向け、本ちゃん、演奏会に向け過酷な練習を自らに課します。

では写真家は?

写真家に練習って必要? 撮影するための道具、カメラを上手に使いこなすための練習など、演奏家やスポーツ選手の膨大な練習量と比すれば冗談みたいなものですよね。

とにかくシャッターを切り、あがりを確認し、またシャッターを切る、この連続、無限の繰り返し(笑)。写真家にとってはこのシャッターを切る瞬間がすべてであり、絶えず本番の状態に身を置きます。そしてその撮影行為の只中で、自分が目指す、赴きたい、または信じる世界に近づこうとするのです。

僕の音楽制作、DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)による音楽作りの態度もこれに近いものがあり、演奏家やスポーツ選手が求めるような特別な技術というものは必要としません。なぜなら、僕の音楽は、演奏家の音楽のように、確かな演奏技術によって裏打ちされた、誰か他人が作曲した楽曲をミスることなく再現し、その作品が持つ深みや彩り、可能性を明らかにし、伝えることを目指してはいないからです。

特化した技術によって競い合い、そこから生じる排他性、特別性、オリンピック的なコンテストという制度、制約にはあまり魅了されないのです。


両耳に向けて

スピーカーから放たれる

身体の眼には見えない音たちによって構成された世界、時間に寄り添い、空間に広がる何か不可思議な心のカタチ

音たちが知らせる、向こう側の世界への架け橋を、この世の様々な音たちを絵具として用い、ただただ描き出そうとしているのです。
 

もしくは、源泉から漏れ出してくる光のような"何か"を、音たちによって捕まえ、「音楽」というカタチを与えること。

 


2025/01/04

インディアン・サマー indian summer

まだ20代の頃、フォークギター1本で歌っていたことがあった。

歌うこととは、「啼き叫ぶことだ」と勘違いしていた若者が、35年近く前の歌声に耳を澄ましていると、そこには居た。

昔のライブ音源をそのまま使うのは気恥ずかしさもあり、バックにうっすらとシンセで音を足し、野原、空域を作ってやった。

やがて彼は、人前で歌うことが嫌になり、自分の声帯や歌が要求する形式に居心地の悪さ、制約を感じ、より自由なインスツルメンタル音楽の世界に魅了されていった。

唄と「音楽」は違う。

なぜなら、唄は、人間の「声」という諸楽器には持ちえないリアリティーと、「言葉」という明確な意味内容の提示により、音楽が、あくまでも唄を支える背景となってしまうからだ。

 


2025/01/02

scene#4


 世界は静けさに誘われて、すべての音たちは静まり、やがて明るい無白のスペースが縦横に拡がり、そこに目に見えぬ神は飛び込んで、音楽家の耳や手を使い、あの世の歌を採譜することだろう。

 


実験音楽について / Experimental music


 〜実験音楽についての雑感〜

音楽作品を深く味わおうと思う時、人は自ずとその瞳を閉じ、心を鎮め、ひたすら耳を澄まそうとするものですが、1952年にジョン・ケージが発表した作品《4分33秒》は、音楽を鑑賞しようとする者たちの心的な態度、まず耳を澄ます"以前"の、音楽に対するこれまでの固定観念を白紙に戻そうとする試みであり、問いかけでした。

そもそも前衛芸術、アバンギャルド(avant-garde)
とは、伝統的な様式や既存の価値観に挑戦する姿勢を指す概念ですが、ジョン・ケージやクセナキスが提示した中国の易、チャンス・オペレーション、UPIC(ユーピック)や確率論などを用いた作曲法とは、19世紀までの西洋音楽の歴史には存在しなかった新しい作曲技法であり、これは「音楽とは何か?」という根本的な問いを含みつつも、音楽鑑賞における「耳を澄ます」以前の状態、鑑賞者がすでに持っている、持たされていた観念的な呪縛、思い込み、知覚の制約などを解き放とうとする実験でもありました。

そして、「美しい音楽は人を心地よくする」
的な考えや感覚から解放された作曲家および鑑賞者は、さらに次の段階へと進み、その一見制限なき自由な音楽作品、これまでに無かった音の響きや連なりに触れて、この世界における音楽の役割、その根源的な意味を明らかにしようとしたのです。

"空の下で、樹のことばを、聴くように見、見るように聴く。"(
長田弘)

ところで、20世紀に作曲され、
演奏された数多の実験音楽について感じる個人的物足りなさは、当の作曲家たちが、ほとんどの前衛もしくは実験的な音楽作品が、壊すだけ壊して、音楽鑑賞の真の醍醐味、自由となったその聴感を通して再び「耳を澄ますこと」の大事を放棄したように感じるところです。新しい方法論、アイデアによって生み出された音楽作品と言う結果について、その作曲技法だけに注目がゆき、音楽という時間芸術が呼び覚ますであろう音の向こう側への繊細なる感受を蔑ろにして来たような気がするのです。

ジョン・ケージが思い描いた夢、音楽は、
楽器による演奏という形態に拘らなければ、実はこの現象世界の事物や生き物たちが偶然に鳴らす無数の音たちによって満ちており、瞬間瞬間、今まさに上演されています。
またクセナキスの、
クラッシック演奏者たちに多大な技量と心理的な緊張を強いる作品群は、AIによりさらに複雑緻密に計算され、採譜され、自動演奏可能な時代となりました。

では、人間が作曲する、音楽を作り、聴く意味とは?

"音楽の究極の目的とは、神を思い出す為の手段となること。"(
不詳)

無白を得て、あらゆる音の先、
音楽の始原への感受の内に溶け込んだ作曲家または鑑賞者は、一体これからどこに向かうのでしょうか?

この世界に生まれたすべての音、人間が作り出した音楽は、
ゆくゆくは、すべてあの光り輝く始原の沈黙によって飲み込まれてしまうかも知れません。音楽とは、いわば、ひとつの、苦し紛れの〈予期〉なのです。

それでは、芸術作品の究極の目的とは何でしょう? 
それは、美の開示であり、神(源泉)への想起となります。
音楽作品とはその為の手段のひとつです。
そして、
やがてその目的が遂げられたなら手段は不要となるのです。