過去の音楽作品、録音物をあらためて聴き直し、今現在の聴感でリミックス、リマスターを施す作業を続けていると、制作当時には気づかなかった、敢えて意識化しないポイントを残し作業を進めてきた理由や、それでも半意識内に留めて置いたそのポイントの内訳?その音楽作品に流れている世界観のあらましが、明瞭に、意識の明るみに浮上して来る。
「そっか、なるほどね〜」と、自分自身の心の特性だったり、志向性、願い事、思いの総体のようなものが意識の波打ち際で言語化されてゆく。
たとえば、僕は楽器演奏のための正規の教育は受けておらず、すべて独学なのですが、ある楽器を扱う、演奏するための技術を習得する為には、それなりの練習期間が必要となります。
これはスポーツ選手も同様で、試合に向け、本ちゃん、演奏会に向け過酷な練習を自らに課します。
では写真家は?
写真家に練習って必要? 撮影するための道具、カメラを上手に使いこなすための練習など、演奏家やスポーツ選手の膨大な練習量と比すれば冗談みたいなものですよね。
とにかくシャッターを切り、あがりを確認し、またシャッターを切る、この連続、繰り返し。写真家にとってはこのシャッターを切る瞬間がすべてであり、絶えず本番の状態に身を置きます。そしてその撮影行為の只中の内で、自分が目指す、赴きたい、または信じる世界に近づこうとします。
僕の音楽制作、DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)による音楽作りの態度もこれに近いものがあり、演奏家やスポーツ選手が求めるような特別な技術というものは必要としません。なぜなら、僕の音楽は、演奏家の音楽のように、確かな演奏技術によって裏打ちされた、誰か他人が作曲した楽曲をミスることなく再現し、その作品が持つ深みや彩り、可能性を明らかにし、伝えることを目指してはいないからです。
特化した技術によって競い合い、そこから生じる排他性、特別性、オリンピック的なコンテストという制度、制約にはあまり魅了されないのです。
両耳に向けて
スピーカーから放たれる
身体の眼には見えない音たちによって構成された世界、時間に寄り添い、空間に広がる何か不可思議な心のカタチ
音たちが知らせる、向こう側の世界への架け橋を、この世の様々な音たちを絵具として用い、ただただ描き出そうとしているのです。
もしくは、源泉から漏れ出してくる光のような"何か"を、音たちによって捕まえ、「音楽」というカタチを与えること。
0 件のコメント:
コメントを投稿