僕が10代の頃は、カセットテープとレコードの時代でしたが、当時は何軒かのレコード屋へ頻繁に通い、店主に顔を覚えてもらい、「じゃあ、一曲だけ聴かせてあげるね」と、お勧めのレコードを視聴させてもらうだけで興奮していた学生時代。
特に60年代から70年代に発表された洋楽、ロック音楽のレコードには魅了され、その時代の音楽を中心に聴きまくっていました。
なので、僕が作る音楽は、ロック音楽からの影響をかなり受けていると思います。
後、ロックのみならずジャス、レゲエ、現代音楽、民族音楽と、あらゆるジャンルのレコードを、自宅の安物のレコードプレーヤーで聴いていました。僕らの世代は、今と違い、レコードを聴くことぐらいしか現実からの逃避?は叶わなかった。
レコード盤に録音された音楽を、個々人の生活空間の中で聴くことができる、それぞれのタイミングで楽しむことができるという、19世紀にはなかった20世紀に現れた新しい音楽鑑賞法は、やがてウォークマンの出現により、家の中だけではなく屋外でイヤーフォン刺して歩きながら聴くことができるようになり、さらに現在ではYouTubeなどで世界中の音楽をタダで聴くことが許されてしまった。
レコジャケを一枚一枚睨みつけては、「果たしてこれはどんな音楽なんだろう?」と、ドキドキしながらジャケ買いした時代は瞬く間に終わってしまいました。
レコード、カセットテープ、MD、CD、DAT、音響データ、配信と、音楽が記録されたメディアや音楽を聴くための道具、ハード面は著しく変化しましたが、これはあくまでもテクノロジーの進展であり、音楽作品そのものの出来栄え、その内容の進化進展ではありせん。
と言うのも、録音芸術としての音楽作品の黄金期は、すでに1970年代をピークとして、1960〜80年代に発表された様々のジャンルのアルバム、たかだか30年という短い間に発表された数々のレコードによって達成されてしまったからです。
もちろんこういった発言は、若い音楽好きのリスナーをカチンとさせるかも知れません。が、あらゆる音楽を聴き込んできた、もしくは真摯に音楽に取り組んできたミュージシャンにとってこの判断は周知の事実かと思います。
では、なぜ、そのような何の得にもならない独善的な感想を述べるのか?
この意味合いは?
それは、音楽の録音物の黄金期が過ぎ去ってしまったこの現代に、あらためて、音楽する意味、意義を、今を生きる音楽家、リスナーの方々がひとりひとり自ら深く問う必要があると感じるからです。
音楽とは何か?
なぜ音楽を作るのか?
なぜ音楽を聴くのか?
この問いそのものは、黄金期を過ごしたかつての音楽家の内部には殆ど生じ得なかった問いであり、深く思考するには至らなかった問いです。
「何のために音楽を作るのか?」
「何のために音楽が必要なのか?」
この問いを突き詰めてゆくと、やがて「何のためにこの世界はあるのか?」という問いへと導かれてゆきます。
そして「自由とは?」
「愛とは?」という根源的な問いに行き着きます。
かつては、暇な貴族を喜ばすためにお城に呼ばれた演奏家たち。
外部へと追い出した〈神〉に向けて執り行われる儀式に仕えた音楽家、演奏家たち。
大衆へ、一時の興奮と喜びを与える為に開催される無数のコンサート、爆音の中でのレイヴ、肉体の祭り、饗宴の数々。
音楽家は、いつの時代も、人々へのゴマスリ業務に徹してきました。
なぜならリスナーがその程度のものしか音楽家に求めなかったからです。
自由と無限の愛を、唄や音の真空の編み物によって表現する役割を担った音楽家が、この社会的構造の中では、いまだにいちサービス業者としてしか存在できないのでしょうか?
特に60年代から70年代に発表された洋楽、ロック音楽のレコードには魅了され、その時代の音楽を中心に聴きまくっていました。
なので、僕が作る音楽は、ロック音楽からの影響をかなり受けていると思います。
後、ロックのみならずジャス、レゲエ、現代音楽、民族音楽と、あらゆるジャンルのレコードを、自宅の安物のレコードプレーヤーで聴いていました。僕らの世代は、今と違い、レコードを聴くことぐらいしか現実からの逃避?は叶わなかった。
レコード盤に録音された音楽を、個々人の生活空間の中で聴くことができる、それぞれのタイミングで楽しむことができるという、19世紀にはなかった20世紀に現れた新しい音楽鑑賞法は、やがてウォークマンの出現により、家の中だけではなく屋外でイヤーフォン刺して歩きながら聴くことができるようになり、さらに現在ではYouTubeなどで世界中の音楽をタダで聴くことが許されてしまった。
レコジャケを一枚一枚睨みつけては、「果たしてこれはどんな音楽なんだろう?」と、ドキドキしながらジャケ買いした時代は瞬く間に終わってしまいました。
レコード、カセットテープ、MD、CD、DAT、音響データ、配信と、音楽が記録されたメディアや音楽を聴くための道具、ハード面は著しく変化しましたが、これはあくまでもテクノロジーの進展であり、音楽作品そのものの出来栄え、その内容の進化進展ではありせん。
と言うのも、録音芸術としての音楽作品の黄金期は、すでに1970年代をピークとして、1960〜80年代に発表された様々のジャンルのアルバム、たかだか30年という短い間に発表された数々のレコードによって達成されてしまったからです。
もちろんこういった発言は、若い音楽好きのリスナーをカチンとさせるかも知れません。が、あらゆる音楽を聴き込んできた、もしくは真摯に音楽に取り組んできたミュージシャンにとってこの判断は周知の事実かと思います。
では、なぜ、そのような何の得にもならない独善的な感想を述べるのか?
この意味合いは?
それは、音楽の録音物の黄金期が過ぎ去ってしまったこの現代に、あらためて、音楽する意味、意義を、今を生きる音楽家、リスナーの方々がひとりひとり自ら深く問う必要があると感じるからです。
音楽とは何か?
なぜ音楽を作るのか?
なぜ音楽を聴くのか?
この問いそのものは、黄金期を過ごしたかつての音楽家の内部には殆ど生じ得なかった問いであり、深く思考するには至らなかった問いです。
「何のために音楽を作るのか?」
「何のために音楽が必要なのか?」
この問いを突き詰めてゆくと、やがて「何のためにこの世界はあるのか?」という問いへと導かれてゆきます。
そして「自由とは?」
「愛とは?」という根源的な問いに行き着きます。
かつては、暇な貴族を喜ばすためにお城に呼ばれた演奏家たち。
外部へと追い出した〈神〉に向けて執り行われる儀式に仕えた音楽家、演奏家たち。
大衆へ、一時の興奮と喜びを与える為に開催される無数のコンサート、爆音の中でのレイヴ、肉体の祭り、饗宴の数々。
音楽家は、いつの時代も、人々へのゴマスリ業務に徹してきました。
なぜならリスナーがその程度のものしか音楽家に求めなかったからです。
自由と無限の愛を、唄や音の真空の編み物によって表現する役割を担った音楽家が、この社会的構造の中では、いまだにいちサービス業者としてしか存在できないのでしょうか?
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