ある人から服をいただいた。
随分と、いい歳になって、他人様から服をいただくというのは如何なものか?という考えも、もちろん僕の中にはある。
しかし、単純な僕は、ただ嬉しい。ただ、懐かしいのだ。
その人から服をいただくのは、初めてのことではない。以前にも、そう、何度か、いきなり我が家に登場し、「武史さんに、(もし良かったら)、ちょっと服を持ってきたよ」と、その熊のような巨体を柔らかく、ちいさく、まるで山から大きな風を運んで来るかのように・・・。
お陰様で、僕はこの五年もの間、自分にあう服を探し、自ら買いに行くことを知らぬ。これはかなり有難い事。なぜなら、僕が選ぶ服のセンスは、どうもイマイチというか、駄目駄目なようだ。
六年ほど前、近所にある珈琲自家焙煎のお店「ふじだな」にて、この人と知り合いになった。仕事的には、まったく正反対のフィールドで戦っていらっしゃるこの人と、なにか具体的な接点はあるのかと問われても、実はまったく無い。
資本主義のど真ん中、逃げ隠れもできぬ、その世界では、たぶんかなり著名な方であり、僕より六つほど年長であられるこの方が、なぜ、僕のような社会的出来損ないと付き合ってくださるのか、また、さり気なく面倒を見てくださるのか、僕は恐ろしさのあまり分析することを禁じてしまう。
ただ、この人のお話は、いつも存在に響いてくる、僕に、ある大きな息吹きと呼べば良いか、生気ある、名づけようのない「モノ」として、僕の中で胎動をはじめ、やがて静かに炸裂する。いつだって冷たくなろうとする体内の血は、途端どくどくと、温かく、全身に広がる。陽気とは、あらゆる恐怖から目を逸らそうとしない者たちにそっと送られるギフトなのかもしれない。
「人」が見えてくる。職業の違いなど、まったく大した問題ではないことを、いつも悟らされる。
自分自身が、まったく至ってない事を、ただこの人が目前に在るだけで、ポンと、鮮やかに、強烈に気づかせてくれる一瞬、存在の妙技とは、なんと素敵な、この世の命の仕業なんだろうか。