2011/08/31

宇多田ヒカル、その明るい孤独 / aloness



宇多田ヒカルさんについては、以前、一度だけ、このブログで触れましたが、彼女が他の日本のポップシーンで活躍する、もしくは“した”ミュージシャンと一線を画している、画していた事実を、今回はもう少し明らかにできればと思っています。
ちなみに上記にアップさせていただいた動画は、YouTubeの宇多田ヒカルさんのチャンネル、hikkiチャンネルから、そこに彼女の代表作PVがアップされているのですが、個人的に、現在の心境的に、この『Wait & See ~リスク~』を選んでみました。
僕は、宇多田ヒカルさんの音楽、彼女が作り出す楽曲の一ファンですが、彼女のすべてのCDを持っているでもなく、その活動期に、コンサートを見たことも無ければ、精緻に、歌詞カードを見つめ、確認作業をしたこともありません。ただ、「予感」として、そのデビュー当時から、また、直感的に、彼女の音楽は様々な媒体で取り上げられていましたから、耳にする機会はかなり多く、それで度々、「あ、(主旋律を)そう動かすかあ」とか、「この人の歌はラブソングだけれど、これは個人に向けられたものではなく、ちょっと祈りに近いものがあるよね」という、彼女の類稀な“才能”にたびたび感心させられていた、というより、宇多田ヒカルという一人の人間の“奥行き”に、共感を覚えていたのです。

では、この『Wait & See ~リスク~』、僕はその歌詞をネット検索によってはじめて知ったのですが、彼女はこんな言葉を、あまり目立たないように、記します。

変えられないものを受け入れる力
そして受け入れられないものを
変える力をちょうだいよ
・・・・・・・
どこか遠くへ
逃げたら楽になるのかな
そんなわけ無いよね
どこにいたって私は私なんだから

これらの言葉、あまりにもさり気ないのですが、皆さんはどのように感じるのでしょう。
そして、これは宇多田ヒカルのファンが作ったツイッター「宇多田ヒカルbot」からの彼女の発言ですが、

わたし、極限まで集中できることが一番の能力だと思っていて、曲作りでも歌っているときでも、極限の集中状態まで昇りつめていくと、すごく居心地よくて、懐かしい、気持ちいい場所まで突き抜けるんです。

家の窓を全部開ける。ドアも開ける。えい、壁も壊しちゃえ。すると、空間はつながり、一つの空間になる。自分」の境界線が消える。あらゆるものが無限に流れ込み、無限に解放されていく。

ものごとの本質に近づこうとすればするほど、自意識というものが邪魔になる。自意識を消すためには、外の世界に全感覚を開かないといけない

生まれ変わっても自分を自分だと思うのならば、今とまったく同じだと思うんです。だから特に「変りたい!」とか、生まれ変わったら何になるとか考えないですね。

と、他にも気になること、かなり本質的なことを、彼女は自分の言葉で語っていますが、20代の人間が通常考える事、内容ではないですよね。さらっと語っているところがまた清清しいです。
そして、これは彼女の特異な生い立ちが、環境が、そこに向かわせたと考えるのはすこし安易ですね。人間の、猥雑な営み、この混沌の世界にあって、誤魔化さず、いや、誤魔化せず、「なぜ?」という問いを、生きてしまうことから、まったく逃げようとしてこなかった、いや、逃げられなかった一人の人間の、誰にも共有されることのない、また、これを望みもしない、無垢な祈りの姿がありありと見えてきてしまうのは、僕だけでしょうか。


2011/08/15

レンブラント/ Rembrandt


この油絵はレンブラントさん(1606-1669)が最晩年に描いた自画像ですが、彼が描いた数多の自画像の中で僕は一番気に入っています。
ところで、僕のメインPCのモニターの背面の壁には、このレンブラントの自画像の複製画とダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が、無造作にピン留めされ、仲良く並び、ふとモニターから眼を逸らせば、こちらの視線と交錯するように、いえ、「僕を見てる!」なんて創意工夫がなされ、放っておけばオモムロにやんちゃな事を仕出かす若輩を、ハハ、たえず見張らせているわけです。
レンブラントとダ・ヴィンチ、現代美術などを通暁していらっしゃる方々からすれば、あまりにもベタで、さほど重要な作家ではないんでしょうが、ところがどっこい「作品」にとって過去も19XXも無いわけで、見るという行為は「今」の事だから、制作年月日なんてものは美術史家の興味対象事項で、大切なのは一事が万事「作品」の良し悪しです。徹頭徹尾、物は眼で知覚するもの、視るものだからです。
ですから、映画で「ダ・ヴィンチのコード」でしたか、ああいった詰まらぬ思考の遊戯が、分析の仮面をかぶった妄想が、ますます鑑賞者サイドを「作品それ自体」と直に触れるチャンスを、その「瞬間」を遠ざけてしまうのです。本来、誰にでも備わっている「作品」を堪能しうる鑑賞眼というものを喪失させてしまうわけです。鑑賞眼が今だ成熟していない人は、不安にかられ、ついつい思考や概略で物を見ようとしますが、これをすれば思考が、言葉がイメージを捏造し、自身の眼に幾重ものフィルターをかけ、実際、ますます“直に”物は見えなくなるのです。よくわからない、作品を味わえない際は、別に焦る必要は無いので、思考など動かさずに、ただずっと“見えるまで”付き合って往けば良いだけです。

現代美術、巷で賑わっている作品郡などは、僕にはちょっと見るに耐えない、お粗末な仕事ばかりのように映ります。だから「現代美術?よくわからないわ…」は、ある意味正しい反応であり、幾つかの哲学的社会学的モダンな知識さえ修得すれば詰まらない程、分りやすいものなのです。
マルセル・デュシャンやボイス、リヒターなどの作品は、実は非常に分りやすいのですよ。コンセプト重視の「作品」、仕事は、眼の事ではなく思考によって絵解きされたものだから非常に分りやすいです。
さらに、この際なのであえて書きますが、政治的メッセージをもったアートとは、アートが政治に対して何かしら貢献しうるという期待が込められていますが、これは実際にはアート、芸術への侮辱となります。アートが、この社会に対し、時の政治に対し、なんらインパクトをもち得ないと言う懐疑的確信、その裏表明に過ぎないのです。なぜなら、アートとは、時世などには微動だにしない、またこれを軽々と凌駕しうる、もっともっと普遍的な諸問題を扱うことのできるメディアだからです。

2011/08/13

マイケル・ヘッジス / Michael Hedges


それでは、今夜はマイケル・ヘッジス。
この天才ミュージシャンについて、以前このブログでも簡単に触れましたけれど、ん~、彼は、もうこの世にいないんです、って、あまり彼について書くことは、、、、無いね。彼の音楽は僕に無言を強いるのです。
サウンド的に見たら、昨日ご紹介したロドリーゴ・イ・ガブリエーラより前に出る音と、その音域をささえる裏面の音?、「響き」とのバランスが絶妙ですね。最近の音楽は、どうしても前に出る音ばかりを突出させる傾向にあるから、奥行きがデッド、死んでるんですね。これ、デジタル録音の弱点と、まあ、山下達郎さんを腐心させている処ですが、僕はね、実はアナログもデジタルも、あまり関係ないと思ってます。たぶん時代が、奥行きを消していった、というか、人々が、奥行きの中に入っていけなくなったんじゃないのかな。奥行きの内をさまよえるだけの体力、と書けば、最近の人はほんと“文字通り”にしか受け取らないので、精神力ね、これを失ってしまった。



一番重要なことは、音楽を聴く際、どこにピントを合わすかです。
これは「生身の人」と出会う瞬間と、よく似ているよね。
姿形、その音楽の形式や様式、こういった表層的な面に捕われてしまえば、心の美、音楽の美とは、なかなか出会えなくなるものです。
顔かたち、プロポーションで選んで失敗したという話はよく聞きますでしょ(笑)。

「あなた」というものがなければ「わたし」はいない。つまり「わたし」とは「関係」によってうまれる。
だから出会いは激しいほうがいい、「関係」は、緻密で、開放的で、それぞれのスガタカタチを突破し、素性から解き放たれて・・・。
注視しなければ、「人」は見えて来ないはず。「音」と出会う、聴くとは、そういう事。
「娯楽」とは、自己閉塞的な状態、故に「自分」とも「他人」とも出会えない。