2009/04/22

山がわらっている / Natural Mystic


8年間のニューヨークでの暮らしを後にして、ここ裏高尾の麓に引っ越してきて以来、この時分になると、とうぜん山は新緑するのだが、気分転換に、ぼくはよくカミさんと近所をテクテク散歩する。すると彼女はきまってぼくの隣でなんの前触れもなく「わあーっ!!ほら、山が笑っている」と叫ぶのである。その度に、ぼくは彼女の指差す方に眼をやり、「うむ・・・」などと曖昧な返事をするだけで、さらり済まそうとするが、彼女の方はといえば、こんな幸せな気分はない、というぐらい、それこそ「山の笑いに私は今から応えるのだ!」って、いつもそんな勢いなのだ。
ぼくは、どうも山の表情、新緑にたいして、まだ彼女のような「感応力」というか、つよい感心をもつことができずにいた。
もちろん、山の新緑は見事であり、たとえ手入れがまったくされていない植林杉山でさえたいへん雄大で美しいが、「山が笑っている」のか否かは定かでなく、ぼくの横で、全身でその山の笑いを味わっているカミさんの姿を見ている方がずっと面白い、などと感じていたのだ。
そして今春も、例年どおり、彼女は「ああー、山が笑っている」そして「ねえ?」と小躍りしながらぼくに相槌を求めてきた。しかしどうしたことか、ぼくの内部、視覚に異変が起きたのか、もしくは、カミさんの献身的なPRの成果なのか、今春は、ぼくにも、それこそ、ついに「山が笑っている」ように見えたのだ。直撃だった。
裏高尾生活6年目にして、ようやくぼくも彼女の「あじわい」というものが実感できるようになってきたわけ。(めでたしめでたし。)

写真を生業としているぼくは、当然職業柄、この「あじわい」を写真にせねばという命令形を自分に出してしまうが、実に、「笑い」にもいろいろ在り。
ぼくはこれまで「山の写真」などは真剣に撮ったことはありませんでしたけど、写真の「被写体」として山を撮ることに興味が無かっただけで、このカラダを山に入れ「佇む」のはかなり好きな方で、最近は離れてますが「山仕事」なんかも趣味でやってきました、地球温暖化対策の一環として……、嘘ですが、ぼくはどうも「海」より「山派」なんですね。

山がわらっている。
なぜわらうのか? このご時世に。
むずかしい言い方をすれば、「山」とは善悪の彼岸であり、つまりその「わらい」とは「彼岸」の「わらい」という事になりそうです。
「山」は、無数の「生命」の現場ですから、「山」とは生命の実相そのものであり、まさしく「ユートピア」なんですね。たとえば福岡正信さん流に言うならば、ぼくたち人間という生き物は「分別の木の実」を食することにより、この「ユートピア」から追放、というか、自ら出て行く事を選んだのかもしれません。

それで高尾山って所はけっこう自殺者がでるんですけど、ゆえ地元の人はあまり山の中に入ろうとはしませんが、「自殺者?いやあーねー」なんて言わないでくださいよ。病院内で薬漬けにされて死ぬのか、それとも、ナチュラル・ミステックのお膝元で息を引き取るのか? それは個人の選択でしょう。結果として、「自殺」してしまった者達にぼくたち人間が贈れる唯一のコトバは、ちょっと語弊があるかもしれないけれど、「かまへん、かまへん」じゃないかなと思ってます。
「なぜ自殺を選んだのか?」
そんな愚問を自殺者に投げかけてもしょうがない。自殺を選ぶには選ぶだけののっぴきならぬ理由がその個人の中にあったのだから。
自殺者が、うまく三途の河を渡って、この世を彷徨うことが無いように、その抑止の言霊として、ぼくは「かまへん、かまへん、アディオス!!」と言おう。まるでオリュウノオバのように。
死を忌み嫌う時代は疾うに過ぎた。なぜなら、山がわらっている。

(---ぼくもなんとか山のわらいを修得、生きたいものだ。)



♪There's a natural mystic blowing through the air;
If you listen carefully now you will hear.

Natural Mystic by Bob Marley

2009/04/19

田中敬三、その祈りのカタチ / the beans of Keizo Tanaka


たとえば、天然の「ダイヤモンドそれ自体」は、地球内部の非常に高温高圧な環境で生成される「鉱物」でありますが、IF・Dカラー・トリプルエクセレントカットという究極の最高級ダイヤとは、職人の手によりカットされ、その輝きがより強調されることにより「宝飾品」として生み出される、「現れる」ようです。
ダイヤモンドとは、犬猫にとってはただの「石ころ」、別段興味ぶかい対象物とはなりえませんが、ぼくたち人間にとってダイヤとは、「この石、この輝きのためなら人生を台無しにしても良い」と思い込ませるほどの魅惑的なキラメキを放ち、さらに「台無しにせよ!」と命じるかのようなチカラをその内部に秘めております。ダイヤモンドの輝きは、人間存在をクラクラさせる妖しいヒカリであると共に、まるで背筋にアヘンが走り抜けるようなオーラを持っているのだなーと、ぼくの半分は観じます。が、ぼくはダイヤを所有しておらず、誰かにプレゼントした記憶もありません。「駄目じゃん!」という声が聞こえてきますが、もしタダでくれる人がいたら、またそんな機会あれば、もちろんぼくは遠慮せずに有難く頂戴し、その輝きの「由来」を走査し、たぶん直ぐにお金に換えちゃいます。

北海道の地にて、ひとり黙々と栽培生活を営む田中敬三さんについて、彼が作り出す「豆」たちについて書こうと思っていたのですが、なぜかダイヤモンドの話になってしまった。

写真は、彼が、大地と風と太陽と雨、その他もろもろの「生命たち」と共に、恵みと共に、付き合い、考えながら、感じ取り、育み、じっつくりと作り上げた「紫花豆」です。

ところで、自然農法の祖・福岡正信は今から40年ほど前に「わら一本の革命」という本を上梓したのですが、わら一本の革命って、すごいフレーズだとは思いませんか?
「わら一本」でも、「革命」は可能なのだ、と。
学者諸兄や知識人、いわゆるミーハーチックな現実派が耳にすれば失笑されそうなフレーズではありますが、なぜか途轍もなく「懐かしい」響きを持っていますよね。
イケてます。
しかしながら福岡正信の「自然農法」は、その哲理というか理念、考え方、ピントのあわせ方などから多大な影響を受けたであろう川口由一氏の「自然農」ほどの広がりを持つには至りませんでした(現時点では)。
でも可笑しな話ですね。農法、つまり「方法はない」、カタチはない、じぶんで考え、見つめ、きわめろ・・・云々と、くどいぐらい仰っていた福岡さんの農業哲学を自然「農法」と呼び、ある種、福岡さんの様式(?)を万人に開かれたものとした、方法論的な川口さんのそれを「自然農」と呼ぶのは・・・。

孤独と倫理と書物を友とする物静かな田中敬三さんが、近い将来「豆一粒の革命」などと、決して、そういった奇妙なる横断幕をかかげる事は無いと思いますが、ぼくは田中敬三の手と心によって栽培された豆を見るにつけ、また食する度ごとに、このちいさな、無数のイノチがぎっしり詰まった、無限をひそかに装填した夢のカタチが、ぼくを狂喜と妄想の渦の中に引き込み、この豆一粒で世界(自己)を変革せよという声が、まるでボブ・マーリーと宮沢賢治を足して二で割ったような澄んだしゃがれ声が、どこからともなく聞こえてくるような気がするのは、なぜなんだろう?



2009/04/13

エミリーの背骨 / Emily Dickinson



エミリーの背骨   (Sep/30/04)

れいによって
エミリーは棺のうえ
ひとりワッフルを食べていた。

れいによって、
部屋のなかに住む
影たちに名前をつけ 遊んでいた。
遊びがすぎればきみもやがて
影の国の一員
やせ細った身体をカガミにうつし
「この世でいちばんかわいい人はだあれ?」
応える声は訊ねる声
秋の 隅の木暮れの下駄箱に
埃かぶったキュートな赤い靴
つんと横向き座ってる ね 
エミリー
は たったひといき
きみは ちいさく
ゆめをみていた。

背骨がみょうに軋むのは
たんに運動不足ゆえ
(詩人は運動不足)
引きこもるには
ちょうどいい品々が
この生家にはあった
窓の向こうに広がる人口絨毯
気に入りの肘掛け椅子に身をまかせ
コトバの鉄棒にぶら下がり
逆上がりを試みる童女のように
じぶんだけのナイトを
ちいさく ゆめにみていたんだ
エミリー
ディキンソン

フフッ・・・さっ、
〈表〉がわらっている
〈表〉が、
フフッ・・・わらっている。
きみはその毛むくじゃらのわらい声にたえる術をしらない。
---黄ばんだ白鳥の羽をつけた潔癖症人?
〈表〉は肉欲と熱情のオンパレード う
生々しい世界の冷たい輪郭 頑ななフォルムを 
うけとめるだけの肉厚が 素養が
きみにはあたえられなかった から
エミリー コトバの草原へ逃げ込もうよ
イメージの園できみはいく度も失神
ええ 息をひそめたニューイングランドの押し花
れいによって
一族が遺した生家の影たちと供に暮らしたのさ。

フフッフフッ・・・
〈表〉がわらっている
〈表〉が、
ゆめみるものたちをわらう。
野生の十字架を背負うためには筋肉が
丈夫な肺と
獣のような足腰が
ホト丸出しで神楽舞えるだけの無邪気が
 必要だなんて!!
い きみの背骨は脆弱可憐
・・・〈表〉への切符は?
*Elysium is as far as to
The very nearest Room
If in that Room a Friend await
Felicity or Doom--
もしこれが真実なら
〈表〉は
ことばなど 要らない
神秘とは
なんと安上がりなんだろう。

Emily
〈表〉は
いつもいつもきみを
呼んでいたというのに・・・



*『対訳デイキンソン詩集』亀井俊介編(岩波文庫)


ぼくが上記のような内容をもった散文を描いたのは、あくまでも、エミリー・ディキンソンという類まれな「言葉の錬金術師」に対する共感からであり、通俗的な意味での「揶揄する意識」の動きなんぞはありませぬ。
先人先達について、ときにぼくはいたずら小僧のように批判っぽい言い方をしますが、インテリちゃんがついついやらかす「批判のための批判(つまり、お喋りのためのお喋り)」や、「自己正当化のための批評」などは無駄なことと考えます。
では、なぜ批判的な、かなりキワキワの紛らわしい物言い、あらわし方をするのかと言えば、ただ単に、一体「ぼくたちはどこへ往くのか?」、「どこへ往けばいいのか?」、さらには、「どこを目指せばいいものやら?」を、言葉や知識の「事」ではなしに、未知を、共に思考し、感じ合いたいという甚だ人迷惑な「つきせぬおもい」から来ているのです(ごめん)。
しかしながら「表現」行為とは、ただひたすらに自己と向かい合いつつ、さらには「ひと」のために為す、「仕える」ものでなければ、本当の「仕事」とは呼べぬと、ぼくは考えていますが、究極的には、人間の表現行為、仕事、そこから生み出された「作品」とは、「ささげもの」である、そこを目指すべきだと、こう思っています。(ぼくの仕事はまだまだ不十分です。)
これは、古代人の儀式、またはある種宗教的なトーンを帯びますが、現代では、なんと困難な、超個人的な「賭け」であり、狂気の沙汰、眠れぬ夜であり、もしかしたら、かなり滑稽な、「愚行」なのかもしれません。

2009/04/10

つきせぬおもい / To be, or not to be

二千三年七月二十一日(みず)

つきせぬおもい
つきもせぬおもい
まどろみの
こころのやみにまどうか
かたやぶりもし
カムイあるならいでよ
つきせぬおもい
*つきもせぬ
ヒカリの間にもまぎれなで
おいてかえれるカミのつれなさ

うたれよみち
うたれよいの
たびのはざまに
しのしずく
ゆめみのはての
しのいずみ
とわのまにまに
しのしずく

 ・・・つつしみたまえどうか
 因果応報 すべてこの身へ・・・


それにしても
どうにも気色わるい
つけられた名がいたむ
時間は
立っているのか?
空間は 
のけぞっているのか?

つきせぬおもい
つきもせぬおもい
まどろみの
こころのうみにはしるカムイ
*月影の
澄みわたるかな天の原
雲吹きはらう夜半のあらしに
ことばの技か 瑠璃色の
ランプ ランプ瞬く

         +

豪奢な 毛皮のレースに
その身をすっぽり隠しこんだ野生児が
ぼくをみている
カガミにうつる ぼくをみている




*つきもせぬ光の間にもまぎれなでおいてかえれるかみのつれなさ    
 -冷泉院太皇太后宮

*月影の澄みわたるかな天の原 雲吹きはらう夜半のあらしに    
 -大納言經信

2009/04/06

戸恒慎司の栄光 / the fool is beautiful



馬鹿と間抜け(アホ)ではだいぶ違うと思います。
馬鹿とは、間髪入れず、生きている者の姿です。存在の、無防備な姿、その状態を指します。
「間」の入る余地がない「生」とは、ずいぶん性急な、疲れそうな生き方、スタイルではありますが、馬鹿はそういった生き方しか選択の余地がないというか、「選択」するという態度が、頭ではなく「本能」と化しているという意味において、たぶん、野人、原始人にちかい存在の姿なのかもしれません。
戸恒慎司という男の生き方に触れる度に、ぼくはこいつを本当に「馬鹿っ!」だと思う。
であるがゆえに、彼は、美しい。うつくしい、知性的な野人、ニンゲンだと感じる。
では知性とは何か? 知性とは、ほんらい思考が生(魂)を彩る筋肉と化した存在、その煌めきであり、「才」であります。彼とは、哲学的な言説による存在論も、美術、アート全般についての話も全くしませんが、彼の生き方そのものが、哲学的であり芸術的な「実践」に見えてくるのです。
ぼくたちはまるで西洋人のふりして、西洋の思考法、価値認識を鵜呑みにし、これを良しとし、根源的な知性というか、魂の判断能力を喪失し、なんとなく自意識の曲芸に勤しみ、これに付随する「架空の恐怖する心」ばかりを肥大化、増進させてきました。ですが、この「恐怖」とは、すべて、純人間的な生理的な類のものではなく、文明によって捏造され、情報によって加工、スパイスされた、甚だ観念的なものばかりだったわけです。

(…ここにきて、いま書いている自分がたいへん阿呆らしく思えて来たので、止めます。)


健闘を祈る。


*戸恒慎司のブログはこちらこちら

2009/04/02

しじんはすでにしんでいる / the grateful dead


ニューヨークで暮らしていた頃、周りは当然のことながら英語環境だったので、日本語について考える時間をかなりもつことができました。
ぼくは日本人で、物を考える際には母国語の文法、スタイルに寄っていますが、そんな単純な事実、じぶんが無意識に行っていることを、英語圏という他の言語圏内で暮らし、はじめて、強烈に意識させられたのです。つまり、海外、外の世界に赴くことにより、自分の生まれた場所、生誕地、母国語というもの、自国の文化等々が、あざやかに「視えてくる」という経験をしてきました。
当時は、フランスの言語学者や人気哲学者の分厚い本をまるで推理小説のように読んでいましたが、それらは「どこにピントはあわせれば良いのか」のヒントの学習書みたいなもので、実践は、当然みずからが引き受けざるおえないわけで、日本語の相とは?顔つきとは?ことばとは?そんなお金にもならないようなことを黙々と考え、幾つか散文詩のようなものを書き続けました。なんちゃって詩人のふりして・・・。もちろん、エクリチュール(文字・書かれたもの、書法、書く行為、の意)からはじめないと、パロール(話し言葉。音声的な言語。)の渦の中、迷子になりそうだったので、またその親元を探り当てること叶わず、なーんて直感し、ちょっと長文なんですが、5年ほど前に書かれた散文を、今ここにはじめて掲載します。


しじんはすでにしんでいる(Jul/27/04)

いつしんでもよいと
ついつい
きみはクチからことばのあそび
そのせとぎわで
不老不死をゆめみたしじん
ニヤリとわらう

やせいのドウブツたち
かれらコロリ
ことばなしでしんでゆく
いともかんたんに
とてもたんじゅんに
あの 罪をしらない円らな瞳
それで兄弟のしも
たえずまじかでかんじるドウブツたちは
なぜかいつも ケロリとしてる

 石には石の歓びがあり
 水には水の歓びがある


上等下等を
斜にかまえて眺めれば
ニンゲンの狡猾さがわかるというもの
甘い果実をいただきながら
ガンジー爺はいつもゆめをみていた

のどかなひだまりのなか
土人のようにねころがり
春のうたげとまじわれば
四季の粋へときえてゆく

私人はすでに宙で裂かれ
公人は徒刑場に曝された
唄とひとつになった孤児は
ああ なんと見事だ
まんてんまんめんの笑み

ショクブツたちはしをしらない
ドウブツたちはことばをもたぬ
ながれゆく河のいのち
その行く先なんて気にしない
ながれゆく星のいのり
その中身なんてどうでもいい
意味のない光沢のひびきが
その熱流が
土人のふところへなだれ込む
土人って・・・
土人はしじんのうまれかわり
土人はしじんのうまれかわり

ことばがことばを虐めぬき
ことばがこころをかみ乱す
ならばことばもこころも共に捨て
さらば度胸をきめて身軽になろう
あのね
あの ねの1等先端に在る
ひかりかがやく御人のように
裏エデンの園を駆け回れ
半獣半神 もうひとりのしじんとして
土人のように 賭けにでろ
番号をきざまれた時の悪夢から
いにしえの涙があふれ出るころ
しじんはみずからのゆめを手放した
だから文盲の民よ
みせいの土人たちよ
もう嘆く必要はないのだ
いまはきみたちの出番だ
詩人は
すでに死んでいるだから
眠気をさそう
復活の前夜には