2009/04/13

エミリーの背骨 / Emily Dickinson



エミリーの背骨   (Sep/30/04)

れいによって
エミリーは棺のうえ
ひとりワッフルを食べていた。

れいによって、
部屋のなかに住む
影たちに名前をつけ 遊んでいた。
遊びがすぎればきみもやがて
影の国の一員
やせ細った身体をカガミにうつし
「この世でいちばんかわいい人はだあれ?」
応える声は訊ねる声
秋の 隅の木暮れの下駄箱に
埃かぶったキュートな赤い靴
つんと横向き座ってる ね 
エミリー
は たったひといき
きみは ちいさく
ゆめをみていた。

背骨がみょうに軋むのは
たんに運動不足ゆえ
(詩人は運動不足)
引きこもるには
ちょうどいい品々が
この生家にはあった
窓の向こうに広がる人口絨毯
気に入りの肘掛け椅子に身をまかせ
コトバの鉄棒にぶら下がり
逆上がりを試みる童女のように
じぶんだけのナイトを
ちいさく ゆめにみていたんだ
エミリー
ディキンソン

フフッ・・・さっ、
〈表〉がわらっている
〈表〉が、
フフッ・・・わらっている。
きみはその毛むくじゃらのわらい声にたえる術をしらない。
---黄ばんだ白鳥の羽をつけた潔癖症人?
〈表〉は肉欲と熱情のオンパレード う
生々しい世界の冷たい輪郭 頑ななフォルムを 
うけとめるだけの肉厚が 素養が
きみにはあたえられなかった から
エミリー コトバの草原へ逃げ込もうよ
イメージの園できみはいく度も失神
ええ 息をひそめたニューイングランドの押し花
れいによって
一族が遺した生家の影たちと供に暮らしたのさ。

フフッフフッ・・・
〈表〉がわらっている
〈表〉が、
ゆめみるものたちをわらう。
野生の十字架を背負うためには筋肉が
丈夫な肺と
獣のような足腰が
ホト丸出しで神楽舞えるだけの無邪気が
 必要だなんて!!
い きみの背骨は脆弱可憐
・・・〈表〉への切符は?
*Elysium is as far as to
The very nearest Room
If in that Room a Friend await
Felicity or Doom--
もしこれが真実なら
〈表〉は
ことばなど 要らない
神秘とは
なんと安上がりなんだろう。

Emily
〈表〉は
いつもいつもきみを
呼んでいたというのに・・・



*『対訳デイキンソン詩集』亀井俊介編(岩波文庫)


ぼくが上記のような内容をもった散文を描いたのは、あくまでも、エミリー・ディキンソンという類まれな「言葉の錬金術師」に対する共感からであり、通俗的な意味での「揶揄する意識」の動きなんぞはありませぬ。
先人先達について、ときにぼくはいたずら小僧のように批判っぽい言い方をしますが、インテリちゃんがついついやらかす「批判のための批判(つまり、お喋りのためのお喋り)」や、「自己正当化のための批評」などは無駄なことと考えます。
では、なぜ批判的な、かなりキワキワの紛らわしい物言い、あらわし方をするのかと言えば、ただ単に、一体「ぼくたちはどこへ往くのか?」、「どこへ往けばいいのか?」、さらには、「どこを目指せばいいものやら?」を、言葉や知識の「事」ではなしに、未知を、共に思考し、感じ合いたいという甚だ人迷惑な「つきせぬおもい」から来ているのです(ごめん)。
しかしながら「表現」行為とは、ただひたすらに自己と向かい合いつつ、さらには「ひと」のために為す、「仕える」ものでなければ、本当の「仕事」とは呼べぬと、ぼくは考えていますが、究極的には、人間の表現行為、仕事、そこから生み出された「作品」とは、「ささげもの」である、そこを目指すべきだと、こう思っています。(ぼくの仕事はまだまだ不十分です。)
これは、古代人の儀式、またはある種宗教的なトーンを帯びますが、現代では、なんと困難な、超個人的な「賭け」であり、狂気の沙汰、眠れぬ夜であり、もしかしたら、かなり滑稽な、「愚行」なのかもしれません。

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