2009/04/02

しじんはすでにしんでいる / the grateful dead


ニューヨークで暮らしていた頃、周りは当然のことながら英語環境だったので、日本語について考える時間をかなりもつことができました。
ぼくは日本人で、物を考える際には母国語の文法、スタイルに寄っていますが、そんな単純な事実、じぶんが無意識に行っていることを、英語圏という他の言語圏内で暮らし、はじめて、強烈に意識させられたのです。つまり、海外、外の世界に赴くことにより、自分の生まれた場所、生誕地、母国語というもの、自国の文化等々が、あざやかに「視えてくる」という経験をしてきました。
当時は、フランスの言語学者や人気哲学者の分厚い本をまるで推理小説のように読んでいましたが、それらは「どこにピントはあわせれば良いのか」のヒントの学習書みたいなもので、実践は、当然みずからが引き受けざるおえないわけで、日本語の相とは?顔つきとは?ことばとは?そんなお金にもならないようなことを黙々と考え、幾つか散文詩のようなものを書き続けました。なんちゃって詩人のふりして・・・。もちろん、エクリチュール(文字・書かれたもの、書法、書く行為、の意)からはじめないと、パロール(話し言葉。音声的な言語。)の渦の中、迷子になりそうだったので、またその親元を探り当てること叶わず、なーんて直感し、ちょっと長文なんですが、5年ほど前に書かれた散文を、今ここにはじめて掲載します。


しじんはすでにしんでいる(Jul/27/04)

いつしんでもよいと
ついつい
きみはクチからことばのあそび
そのせとぎわで
不老不死をゆめみたしじん
ニヤリとわらう

やせいのドウブツたち
かれらコロリ
ことばなしでしんでゆく
いともかんたんに
とてもたんじゅんに
あの 罪をしらない円らな瞳
それで兄弟のしも
たえずまじかでかんじるドウブツたちは
なぜかいつも ケロリとしてる

 石には石の歓びがあり
 水には水の歓びがある


上等下等を
斜にかまえて眺めれば
ニンゲンの狡猾さがわかるというもの
甘い果実をいただきながら
ガンジー爺はいつもゆめをみていた

のどかなひだまりのなか
土人のようにねころがり
春のうたげとまじわれば
四季の粋へときえてゆく

私人はすでに宙で裂かれ
公人は徒刑場に曝された
唄とひとつになった孤児は
ああ なんと見事だ
まんてんまんめんの笑み

ショクブツたちはしをしらない
ドウブツたちはことばをもたぬ
ながれゆく河のいのち
その行く先なんて気にしない
ながれゆく星のいのり
その中身なんてどうでもいい
意味のない光沢のひびきが
その熱流が
土人のふところへなだれ込む
土人って・・・
土人はしじんのうまれかわり
土人はしじんのうまれかわり

ことばがことばを虐めぬき
ことばがこころをかみ乱す
ならばことばもこころも共に捨て
さらば度胸をきめて身軽になろう
あのね
あの ねの1等先端に在る
ひかりかがやく御人のように
裏エデンの園を駆け回れ
半獣半神 もうひとりのしじんとして
土人のように 賭けにでろ
番号をきざまれた時の悪夢から
いにしえの涙があふれ出るころ
しじんはみずからのゆめを手放した
だから文盲の民よ
みせいの土人たちよ
もう嘆く必要はないのだ
いまはきみたちの出番だ
詩人は
すでに死んでいるだから
眠気をさそう
復活の前夜には

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