2009/04/19
田中敬三、その祈りのカタチ / the beans of Keizo Tanaka
たとえば、天然の「ダイヤモンドそれ自体」は、地球内部の非常に高温高圧な環境で生成される「鉱物」でありますが、IF・Dカラー・トリプルエクセレントカットという究極の最高級ダイヤとは、職人の手によりカットされ、その輝きがより強調されることにより「宝飾品」として生み出される、「現れる」ようです。
ダイヤモンドとは、犬猫にとってはただの「石ころ」、別段興味ぶかい対象物とはなりえませんが、ぼくたち人間にとってダイヤとは、「この石、この輝きのためなら人生を台無しにしても良い」と思い込ませるほどの魅惑的なキラメキを放ち、さらに「台無しにせよ!」と命じるかのようなチカラをその内部に秘めております。ダイヤモンドの輝きは、人間存在をクラクラさせる妖しいヒカリであると共に、まるで背筋にアヘンが走り抜けるようなオーラを持っているのだなーと、ぼくの半分は観じます。が、ぼくはダイヤを所有しておらず、誰かにプレゼントした記憶もありません。「駄目じゃん!」という声が聞こえてきますが、もしタダでくれる人がいたら、またそんな機会あれば、もちろんぼくは遠慮せずに有難く頂戴し、その輝きの「由来」を走査し、たぶん直ぐにお金に換えちゃいます。
北海道の地にて、ひとり黙々と栽培生活を営む田中敬三さんについて、彼が作り出す「豆」たちについて書こうと思っていたのですが、なぜかダイヤモンドの話になってしまった。
写真は、彼が、大地と風と太陽と雨、その他もろもろの「生命たち」と共に、恵みと共に、付き合い、考えながら、感じ取り、育み、じっつくりと作り上げた「紫花豆」です。
ところで、自然農法の祖・福岡正信は今から40年ほど前に「わら一本の革命」という本を上梓したのですが、わら一本の革命って、すごいフレーズだとは思いませんか?
「わら一本」でも、「革命」は可能なのだ、と。
学者諸兄や知識人、いわゆるミーハーチックな現実派が耳にすれば失笑されそうなフレーズではありますが、なぜか途轍もなく「懐かしい」響きを持っていますよね。
イケてます。
しかしながら福岡正信の「自然農法」は、その哲理というか理念、考え方、ピントのあわせ方などから多大な影響を受けたであろう川口由一氏の「自然農」ほどの広がりを持つには至りませんでした(現時点では)。
でも可笑しな話ですね。農法、つまり「方法はない」、カタチはない、じぶんで考え、見つめ、きわめろ・・・云々と、くどいぐらい仰っていた福岡さんの農業哲学を自然「農法」と呼び、ある種、福岡さんの様式(?)を万人に開かれたものとした、方法論的な川口さんのそれを「自然農」と呼ぶのは・・・。
孤独と倫理と書物を友とする物静かな田中敬三さんが、近い将来「豆一粒の革命」などと、決して、そういった奇妙なる横断幕をかかげる事は無いと思いますが、ぼくは田中敬三の手と心によって栽培された豆を見るにつけ、また食する度ごとに、このちいさな、無数のイノチがぎっしり詰まった、無限をひそかに装填した夢のカタチが、ぼくを狂喜と妄想の渦の中に引き込み、「この豆一粒で世界(自己)を変革せよ」という声が、まるでボブ・マーリーと宮沢賢治を足して二で割ったような澄んだしゃがれ声が、どこからともなく聞こえてくるような気がするのは、なぜなんだろう?
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