2010/02/28

熊谷絵美、赴いた場処 / Emi Kumagai

photo by Emi Kumagai

この『Riwkakant(リウカカント)』のブログ、僕は写真家でもありますから、他のフォトグラファーの写真はほぼ<info>で已む無く載せる以外、アップしたことはありません。動画の方は、音楽を聴いていただく事を目的としていますので、時おり、YouTubeをご紹介させてもらっていますが、他の写真家の「写真」はまったく紹介したことがないのですね。つまり、このお気楽語記楽ブログでさえ、僕の眼や耳、総合的知覚?)美学、美意識なんてもんがばっちり働いているわけであります。(あ、前置き長いね)

今回アップさせていただいた「写真」は、僕が撮影したものではありません。
数年前に知り合ったフォトグラファー・熊谷絵美(敬称略)の「写真」、彼女がふっと赴いてしまった場処(刑)、です。

この「写真」と出会ったのは、確か2年前の1月、彼女からの年賀状、写真は、そこに在った。その場処、風景は・・・。

そして、このブログのラベル「八人の王が眠りに就く処」は、そのたった1枚の写真がヒントとなり、僕の内で、黙々と準備され、開始された写真シリーズだったのです。

いわゆる「写真家」としての才能とか個性? そんなもん僕は知らない。見たこともない。彼女が赴いてしまった場処は、そんな「才能」だの「個性」という人間界のお伽噺を無化してしまう処だったということを、皆さんには感じ取れるだろうか。

たぶん、此処で、彼女はその背筋をのばし、あまりにも無防備な状態で、名前をうしない、国籍をおとし、木々や空や草たちがそうであるように、なによりも無垢な「存在」、その一部として、ただ胸の内にてコウベを垂れていたに違いない。

祈りとは何か? 
…切なさ。だがこの切なさの裏面には、ただならぬ鳥たちの「自由」が、「愛」がみなぎっている。

現代写真・現代アート、それは言葉のアヤ、泡だ。
写真とは、「写真」とは、ただ“存在”へ迫るための鏡として在る。写真史という時間軸上の言葉の羅列にもし未来があるとするなら、もうそこにしか「見るべきこと」は無いだろう。

2010/02/26

Seal and Sade / newBLACKmusic



この2人のシンガーの共通点は、シール(Seal)、シャーデー・アデュ(Helen Folasade Adu)、両者ともナイジェリアの血をひく“混血”なんですね。

僕は、血は混ざり合った方が良い、国籍、人種という「唯物的観念」などは喪失した方が善い、という考えの持ち主なんですけど、もちろん、いわゆる「ボーダレス・チルドレン」、国籍や人種という毛布に、寝床に横たわれない、依存できない、そういったある種生々しい幻想にそのアイデンテイテイーを、居場所を確認できない人たちの“惑い”というもの、存在論的な“不安”をひどく抱えた人たちと、ニューヨークで生活していた頃、触れ合う機会は度々ありましたから、僕の考えは決して軽はずみで無いことはご了承ください。

シールとシャーデー、彼らは「やさしさ」を生きているように僕には感じられるのです。そして、“混血”を生きざる負えない彼らこそが、この世界の、「人間」の本来(未来)の姿かもしれませんよ。




ELEGANT、・・・国籍や人種、歴史的世俗的理念、観念、概念、等々、よこしまな習慣、時代遅れの宗教や神々などから開放されればされるほど、人間は途方も無い不安の谷に突き落とされますが、「やさしさ=エレガント」を携え、変容し、再生するのではないか、いや、はじめて生きだすのではないでしょうか? 
ボーダレス・チルドレン、こういった存在たちの足元、足場となる条件が、この世界・社会には整っておりませんが、故郷を喪失することによってしか人間は自由に成れない、羽ばたくことはできない、まったき<個人>と<個人>の出会いは無い、と僕は思っているのです。つまり、まだほとんどの人が、あの「愛」を、知らないのです。

2010/02/21

マイルス、最期の境地 / Sir Miles Davis


-Montreal Jazz Festival, July 1985-

この動画は、マイルス・デイビスが1985年に発表したアルバム『You're Under Arrest』の2曲目「Human Nature」のライブ演奏ですが、あの、マイケル・ジャクソンの歌、作品ですよね。
どうです?このマイルスのくずれ方、くだけ方…、音が出ていなかったり、たまにキイをはずしたり、ああ、最高だ!

僕は、基本的に「ジャズ」という音楽が好きではありません。
20歳前後にチャーリー・パーカー、コルトレーン、アイラー、モンク等々、それこそいわゆる有名どころは執拗に聴いてきたし、ジャズ喫茶なんてまだ代々木駅あたりにポツンとあったので、通ったりもしてました。が、どうも「ジャズ」という音楽ジャンル、その形式は僕の体質にはビタッと来んかったようで、暫くして全く聴かなくなりました。がが、マイルス・デイビスという音楽家はなぜか今なお大好きなんですね。もちろん、彼がその生涯に発表した全アルバムを聴いて来たわけではありません。でも、たまにドライブ中に『Bitches Brew』(1969)をじゃーんと流すのですが、このアルバムはかなりヤバい、奇跡的な“記録”、ああマイルスはなんて人にすごい親近感を抱かせてくれる「正直なヒト!」なんだと、そう思いません?

今頃、あのギョロッとした眼でどんな音色を、音の運動と、層を、視つめていることやら…。

2010/02/18

高橋竹山翁、観ていた風景 / Sir Chikuzan Takahashi



ある音楽、作品について、言葉で語ろうとすれば、ますますその音楽から離れてゆく。
言葉にならない戦慄、感動というものを、なぜ、言葉で語ろうとするのか?

恥ずかしながら僕も音楽家で、音による表現、その創造の魅力に取り憑かれ、20年以上も言葉のない音楽を作り続けて来たゆえ、言葉など、コトバ、など…。

オバンデヤスー。
翁は、舞台に上がり、演奏をはじめる前、決まってこう言った。
「おばんでやす」
今から35年程前、うちのカミさんがまだウラワカキ中学生だった頃、彼女はその郷里・高知にて翁の生演奏を聴いている。2時間近く、照明はトップから一灯、そして奏者たった一人…。
ロック音楽ばかりを聴いている年端も行かぬうら若き乙女の背筋をゾッとさせたという。連れて行く親も親だが、感涙するカミさんもカミさん、そして翁の演奏…。

三味線とは何か?
翁が弾く津軽三味線は異様なほど明るいが、弾きながら、奏でつつ、盲目の名人は一体何を、その内側で、一体どんな風景を観ていたのか? 
盲目の瞳で、風景が、銀粒色の瞬きが、きらきらと流れて逝く。が、僕の中で明確な「像」を結ばない。

樺太アイヌの楽器トンコリ、その数少ない継承者の一人である千葉伸彦(敬称略)は三味線も弾くらしい。今度お会いしたときにでも、三味線という生き物の魅力、その内なる「風景」について尋ねてみようかしら・・・。

2010/02/17

ジャニス・ジョプリン讃 / Ms.Janis Joplin



ジャニス・ジョプリンの歌声を初めて聴いたのは17、8の頃だから、これも今から30年ぐらい前の話だね。
彼女の代表的な作品と言えば「サマータイム」や「メイビ」、「コズミックブルース」「ムーブオーバー」辺りなんだろうけど、僕はね、この「リトルガールブルー」って歌が一番好きかな。
ジャニスの、まるでネイティブ・アメリカンのような激しさ、のみならず、非常に“母性的”な面が、膨らみのようなものが、きらっきらっと弧を描くようにして揺れている感じがね、「ああ…」と感慨深くさせるんだね。
テキサス生まれのソバカスだらけの芋ネエちゃんが、もの凄いボーカリストだったなんて、夢のサンフランシスコでいきなりスポットライトを浴びて、それでも不器用丸出し、まるで洗練されずに、27歳でヘロインの致死量オーバー、それであの世逝き。

彼女のようなボーカリストは、もう出て来ないだろう。

2010/02/15

郷右近富貴子の場所 / Ms.Fukiko Goukon



今宵は、以前このブログでもご紹介させていただいた郷右近富貴子(敬称略)の歌声を届けたいと思います。
それで注意深い方々には、僕のちょっとした遊び心などはすでにお見通しかと思いますが、最近このブログ内でご紹介させていただいた著名なミュージシャンのビデオ、音楽は、あくまでも僕が“過去”において聴いて来た作品、歌声であり、楽曲であります。
では、今回アップさせていただいた郷右近富貴子が歌うアイヌの唄、実はこの唄、この作品こそが僕にとって「今の歌」なのです。
なぜ、いつ作られたかも不明なアイヌの唄を、作者不詳の「ウポポ」を、アイヌの血が一滴も流れてはいない僕の身体、僕の感覚が「今の歌」であると感じるのか...。あの、僕はアイヌの宣伝マンでもなければ、その民族の一員に加わりたいとか、そのような些事、全く考えたことありませんよ。


唄ヲ 聴イテクダサイ 
ソシテ 観テゴラン 
ソレハ 私タチノ心ノ奥ノ奥ノ方ニ 
スデ二・・・在ルデショウ?


2010/02/14

井上陽水讃 / Yosui Inoue



ではでは昨晩に引き続き(?)今宵もまた美しい唄をご紹介させていただきます。
井上陽水の「招待状のないショー」(1976)です。

誰ひとり見ていない 
僕だけのこのショー
すきな歌を 想いのままに
招待状のない ささやかなこのショー
恋を胸に 闇に酔いつつ

声よ 夜の空に 星に届くように
声よ 変わらぬことばとこの胸が
遥かな君のもとへ 届くように

この唄は、リスナーへ、つまり僕たち「ニンゲン」ですが、実はニンゲンに向けては歌われていないのですね。
普通に、あまり注意せずに聴けば、いわゆる「ラブソング」、遥かな君へ向けて歌われたラブソング、ってことになりますが、「遥かな君」という表現、「星に届くように」という表現、その他諸々の言葉の選択眼と連なり、サビにおける異様な「転調」の仕方を正視しますと・・・・・・たぶん、すでに僕が何を言わんとしているのか皆さん理解したかと思われますが、古代の社会でニンゲンの「唄」、もしくは「踊り」、儀式と言うのものは、すべて神々に向けられていましたから、さすればこの陽水の「招待状のないショー」とは、民族意識を(ネガテイブな意味で)凌駕せざるおえなかった放蕩息子、つまり「自意識」の境界、そのぎりぎりの線上での歌、表現、作品ということになりますね。
いわゆるポップス、歌謡曲(?)、決してロックとは呼べない(ちょっと生ぬるい)ジャンルに位置する井上陽水という音楽家は、僕はそれこそ30年近くも(意識的に)国内外の様々な音楽を聴いてきたけれど、ちょっと異例な存在ですね。あまり知性という言葉は使いたくないんだけれど、彼ほど知性を充満させた歌、ニンゲンにとっての普遍的な<コト>を扱った歌を作り得た現代のミュージシャン(もちろん作品内における井上陽水です)は、あまり類例がありません。
たとえば、19世紀のフランスの詩人アルチュール・ランボーの代表的な作品に『地獄の季節』というのがありますが、その一節に、「俺は架空のオペラとなった。」という表現があります。架空のオペラ、この意味は「俺はオペラを歌わざる負えないが、リスナー、観客というものが1人もいないから、このショーは、このオペラは“架空”のものでしかない、“架空”としか呼べない」ということですね。で、ランボーは「声よ 夜の空に 星に届くように」と歌ったか?彼は20歳代前半には詩作を放棄し、アデンへと旅立ちましたが、それは「遥かな君」という存在を、たぶん触知できなかったからではないでしょうか。
ちょっと話が込み入ってきたので最後は気分転換に「帰れない二人」を。

2010/02/07

写真展のご案内 / EMON SELECTION Vol.1


僕の写真シリーズの内で、「the BUSH」(1994~1996)というタイトルを付した初期のモノクロの仕事があります。BUSH、雑草の意ですが、実はサブタイトルに-Biography of Light-、「光の履歴」または「光の伝記」という視覚にたいしての指示を、鑑賞者へのささやかなヒントになればと、まあ、野暮なんですけど、見所を言語化しています。
このシリーズが完成した1996年、今から14年も前の事ですが、この写真シリーズの入ったポートフォリオを持って、ホウボウのギャラリー、それこそ国内外の写真関係者のもとへプレゼンに行きました。もちろん、発表の場、機会を得ようと・・・ね。でも、「the BUSH」という写真シリーズの反応は、どれも、あまり芳しくないものでした。ですから、当時はどこにも発表する場所がありませんでした。(コノヤロー!だね。)
このシリーズが、はじめて、公の場所、ギャラリーにおいて展示されたのは2006年6月、東京は広尾にある「エモン・フォトギャラリー」という所でした。つまり、白日の下にさらされる、まで、10年間もかかってしまったわけです。
今回、来週の火曜日からはじまる「セレクション展」というのですか?そこに、「the BUSH」シリーズから6点が展示されます。どうぞ興味のある方は足を運んでみてくださいね。ちょっとアクセスがやっかいなんですが、1ヶ月近く開催しているようなので、他の写真家たちの仕事もふくめ、どうかよろしくお願い致します。

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エモン・フォトギャラリー・セレクション展の第一弾として、当ギャラリーがお薦めする4名の作家による常設展を開催致します。
展示作家は、宮原夢画、西野壮平、西山尚紀、海沼武史の4名です。

【会期】 2010.02.09(TUE)→2010.03.05(FRI)
【開館時間】 平日11:00~19:00 土曜日~18:00
【休館】 日曜日・祝日

EMON PHOTO GALLERY / エモン・フォトギャラリー
〒106-0047 東京都港区南麻布5-11-12 TOGO Bldg.,B1
tel : 03-5793-5437

2010/02/02

雪化粧 / N-04A



2.2.2010

今日は雪が降り、現場は中止。
この写真は、早朝の裏高尾。
ちなみに我が家は炬燵派なんですが、ニューヨークで生活する以前、阿佐ヶ谷での暮らしの内に炬燵というものは存在しませんでした。
帰国し、やはり炬燵が一番かな、と。
最近、カミさんはパン作りに凝っていまして、この炬燵は、パンを発酵させるのにも使われております。

雪化粧、昔の日本人はほんとうに洒落たコトバを・・・。

2010/02/01

「天国への階段」 / Led Zeppelin



ロック音楽の産みの母親は黒人のリズム&ブルースですが、その父親はアングロサクソン、白人種です。つまりロックミュージックとは、混血(種)で、そもそもその始まりからルーツレスを、放蕩を余儀なくされた、20世紀のひとり息子、その父や母のリアルな所在、「顔」を永遠に確認することの叶わぬ、孤児なんですね(たぶん)。

堀内幹のスタジオ音源、再三にわたるミックスダウンがようやく完了し、いま、僕はある「余白」の内に佇んでいますが、久方ぶりに眼を覚ました音楽虫だけはまだ眠りに就こうとしません。と、前置きが長くなった。

アップした動画は、「レッド・ツェッペリン」という1970年代のロックバンドです。有名なバンドですから皆さんはご存知でしょう。が、知っている方も、知らない方も、もう一度、ツェッペリンの音楽に触れてみてください、ね。

上記『ウィキペディア(Wikipedia)』の「レッド・ツェッペリン」にも書かれているとおり、「…1960年代のビートルズとはまた違った方法論でロックの限界を押し広げた。」バンドですがね、彼らがその音楽によって目指したものとは、たぶん、ルーツを喪失した、放蕩息子としての人間の、「自由と無限」の問題、これがテーマではなかったのか、また、これについての試行、実験、回想だったのではと、17、8の頃、熱心に聴いていた時には無意識的だったことが、なんかね、今はそんな気がするのです。