2010/02/14
井上陽水讃 / Yosui Inoue
ではでは昨晩に引き続き(?)今宵もまた美しい唄をご紹介させていただきます。
井上陽水の「招待状のないショー」(1976)です。
誰ひとり見ていない
僕だけのこのショー
すきな歌を 想いのままに
招待状のない ささやかなこのショー
恋を胸に 闇に酔いつつ
声よ 夜の空に 星に届くように
声よ 変わらぬことばとこの胸が
遥かな君のもとへ 届くように
この唄は、リスナーへ、つまり僕たち「ニンゲン」ですが、実はニンゲンに向けては歌われていないのですね。
普通に、あまり注意せずに聴けば、いわゆる「ラブソング」、遥かな君へ向けて歌われたラブソング、ってことになりますが、「遥かな君」という表現、「星に届くように」という表現、その他諸々の言葉の選択眼と連なり、サビにおける異様な「転調」の仕方を正視しますと・・・・・・たぶん、すでに僕が何を言わんとしているのか皆さん理解したかと思われますが、古代の社会でニンゲンの「唄」、もしくは「踊り」、儀式と言うのものは、すべて神々に向けられていましたから、さすればこの陽水の「招待状のないショー」とは、民族意識を(ネガテイブな意味で)凌駕せざるおえなかった放蕩息子、つまり「自意識」の境界、そのぎりぎりの線上での歌、表現、作品ということになりますね。
いわゆるポップス、歌謡曲(?)、決してロックとは呼べない(ちょっと生ぬるい)ジャンルに位置する井上陽水という音楽家は、僕はそれこそ30年近くも(意識的に)国内外の様々な音楽を聴いてきたけれど、ちょっと異例な存在ですね。あまり知性という言葉は使いたくないんだけれど、彼ほど知性を充満させた歌、ニンゲンにとっての普遍的な<コト>を扱った歌を作り得た現代のミュージシャン(もちろん作品内における井上陽水です)は、あまり類例がありません。
たとえば、19世紀のフランスの詩人アルチュール・ランボーの代表的な作品に『地獄の季節』というのがありますが、その一節に、「俺は架空のオペラとなった。」という表現があります。架空のオペラ、この意味は「俺はオペラを歌わざる負えないが、リスナー、観客というものが1人もいないから、このショーは、このオペラは“架空”のものでしかない、“架空”としか呼べない」ということですね。で、ランボーは「声よ 夜の空に 星に届くように」と歌ったか?彼は20歳代前半には詩作を放棄し、アデンへと旅立ちましたが、それは「遥かな君」という存在を、たぶん触知できなかったからではないでしょうか。
ちょっと話が込み入ってきたので最後は気分転換に「帰れない二人」を。
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