2024/10/21

〈海沼武史写真集『廻向~transfer~』と『奇蹟 Lumière 』について思う〉 つくし

 (つくしのブログからの転載より)

 


 海沼武史の写真集は、もうお手元に届いたことと思います。

この2冊の写真集について、私なりに感じたことを書いてみたいと思います。

 

横の『廻向∼transfer∼』と縦の『奇蹟 Lumière 』の2冊は、たまたま横位置の写真と縦位置および正方形の写真に分けたかのように見えるが、この二つには深い意味があって分けられていた。


横位置の本『廻向』は、横軸の世界が、そして縦位置の本『奇蹟』には縦軸の世界が流れていたことに気がついた時、私は鳥肌がたった。

 

 

『廻向∼transfer∼』は、この世界の営みだ。

チャプターⅠは、早朝や夕暮れの八王子の風景。

人々の営みの中で起こるあらゆる思いを、マジカルアワーが優しく包みこんで、私たちに静かに語りかけてくる。

チャプターⅡは、震災直後の陸前高田での光景。

悲しみと美しさが、見る人の心を押しては返す波のように行ったり来たりさせる。


 

チャプターⅢは、閉ざされた場所に立ち、そこでいつも見ている世界が映し出されている。

ある人はこれを「祈りだ」といった。

 

 

横軸とは、水平線。

エドウィン・アボットのフラットランド的に言えば、平面世界。

私たちはこの物理的平面世界の中であてもなくさまよう。

水平の世界に苦しむ私たちは出口を見出せず、チャプターⅢで天を仰ぐ。

そこに祈りがあった。

『奇蹟 Lumière 』は、縦軸。水平から垂直への移行。

 

『廻向』で仰がれた空は、『奇蹟』でいきなり青空に変わる。

そのタイトル通り「光」を捉えている。

『奇蹟』は、光、愛、神への賛歌とも言える。

 

天から降り注がれる神からのギフトが、青空、光をとらえた小仏川、光を食す植物たちやモノ、石たちに変換されて現れている。

そこに人間の苦悩はない。神はその苦悩を知らない。ただただ喜びが歌われている。


あとがきに「空とは物理的な現象世界で知覚しうる最大サイズの被写体」とある。

空が形なき被写体であるのに対し、チャプターⅤは「その空が明瞭な輪郭を纏い、『美しい存在』として自信を現す一瞬を定着させようとした」と。

まさに光が形をまとった姿。

『奇蹟』の最後は『廻向』に寄り添っている。

『廻向』は人が天を仰ぎ、『奇蹟』は神のその手が人に触れようとしている。


ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井に描かれたミケランジェロの『アダムの創造』のあの有名なシーンを思い起こさせる。

 

縦軸と横軸が交わったところにこの2冊の写真集を見る。

そこはすべてが融合し実相世界が垣間見えるところだ。

 

一見あまり人を喜ばせないかのようなこの2冊の写真集。

それを意識的に覗いていくことによって、それを見ている人自身の内面が現れて、知らないうちに解放されていくのかもしれない。


何度も見返したくなる不思議な写真集である。

 

『廻向~transfer~

判型:210×297㎜

頁数:122頁

製本:ソフトカバー

発行年:2024

限定80部(非売品)


『奇蹟 Lumière 

判型:297×210㎜

頁数:140頁

製本:ソフトカバー

発行年:2024

限定80部(非売品)

2024/10/14

写真集のメイキングレポート㉒


 お陰様で、遂に禁断の写真集!(笑)が、皆さまのご好意、お心遣いとの艶やかな融合により、この世にカタチとなって現れることが叶いました。と、やや大袈裟ですが、皆さまの暮らしの場へ贈らせていただきます。

明日郵送しますので、翌日16日水曜日には、2冊の写真集が入ったレターパックが郵便受けに配達されます。
何卒よろしくお願いいたします。


Hello  メルスィ・ボクゥ!


 
 

2024/10/10

写真集のメイキングレポート㉑

 
明日、印刷所から写真集の入った荷が届く予定ですが、郵送の手配、諸々の手続きがはかどり次第、来週中には2冊の写真集を皆さまの元へ送らせていただく事になりますので、どうかよろしくお願いいたします。
 

 

 


2024/10/04

写真集のメイキングレポート⑳


 昨日、62回目の誕生日だった。

自分の誕生日月についてはもちろんのこと、僕は他人の誕生日について、長く生活を共にしているカミさんの誕生日についてさえも全く興味がない種族で、いや、動物も自身の誕生年月日について頓着してないという意味ではそこら辺に近い生き物なんだろう。
が、昨日は、ようやく2冊の写真集の入稿が完了し、「ん?自分の誕生日に、印刷所へデータ入稿が為されたというのは、なんだか感慨深いよなぁ」と、すこし誕生日の意味について考えさせられた。

誕生日が来ると、カミさんはいつも「なんかして欲しい?」と聞く。こちらはいつも決まって「いや、別に」。時に「コンビニのケーキでも買いに行くか」とか、「んじゃ、外食にでも」と応えた時もあったが、あまり普段の日と変わらずに過ぎてゆく。
だが、そう言えば彼女は僕の誕生日には必ず、「誕生日おめでとう!」と、やや恥ずかしそうに僕に向けて放つ。では、僕が彼女の誕生日の時にはどうだったのか?どうしたのか?「誕生日おめでとう!」なんて言ったことはあっただろうか?つい気紛れに花束を買った時は2、3度あったが……。

ふと、昔ニューヨークに住んでいた頃のことを思い出した。
ブロンクスの公園内にあるドッグランで知り合ったアダムが、やはり同じ犬仲間のマットとサブリナの第一子をドックランに連れて来た際、サブリナに抱かれたその赤子に向かって顔を近づけ嘯いた。

「地獄へようこそ!」

ビットブルというアメリカでは何かと問題を起こす闘犬を相棒にしていたアダムは、実はめちゃくちゃ心優しいのだが、産まれたばかりのベイビーに向けての第一声を聞いた時、僕は「ケッサクだな(笑)」と思った。日本ではついぞそんなことを言い放った奴はいなかった。
「地獄へようこそ!」
もちろん赤ちゃんを抱えていたサブリナはひどく怪訝そうな顔をしていたが、その横にいた旦那のマット、自分の父親がベトナム経験者であるハイスクールの先生は、あらためてベイビーを愛おしげに見つめてニヤニヤしていた。

誕生日おめでとう!
それとも「地獄へようこそ!」生誕場所の選択の誤り?
誕生日おめでとう!
こう言うべきなのか、それともこの世界の狂気を嘆き、口を噤むべきなのか。
アダムのあの言葉の裏には「(この世界は地獄だけど、なんとか皆んなで支え合って、労り合おうぜ!)」という柔らかな思いが広がっていた。

たとえば、「この世界は天国ですよ」なんて言う輩がいたら、たぶん「きみ、頭変なの?」とドン引きされて、誰にも相手にされないことだろう。

この世界、この地球で産まれた者はやがて死を迎える。もしこれが覆すことの出来ない事実なら、ここで誕生することは悲劇としての終幕に向けての倹しい暮らしに過ぎないのではないか。

それでも、僕はこれから「誕生日おめでとう!」と、その月並みなひと言を放とうと思った。
それはなぜか?一体誰に向けて? 

この件に関してはまたいずれ。

 "この世界は、否定や拒絶によってではなく、祝福することにより、光の内で昇華する。"(マグマン大使)