2026/01/05

~無垢の在り処~

 

あるラジオ番組で、アメリカ在住の映画評論家の町山智浩さんが「アメリカの大手配給会社はもう(興行的に回収の見込める)アニメとホラー映画にしかお金を出さなくなった」と、イーストウッドの映画『陪審員2番』について触れ、アメリカの映画配給の現状について話していた。

映画館の密閉空間が苦手で、レンタルビデオや、今ではもっぱら配信でしか映画を観ようとしない僕がこう言うのも僭越ですが、アニメやホラー映画はどうにも好きになれないジャンル。日本を代表する文芸および映画批評家の蓮實重彦氏は「アニメーションは映画ではない」と断言してますが、僕も何となくそう思います。

ちなみにホラー映画とは、観客を怖がらせることを意図して、演出、撮影、作り出されたものですが、写真家はと言えば、撮影する際には鑑賞者について「どう反応するのか?」などと意識しません。そこが、たぶん広告カメラマンや映画撮影のキャメラマンと写真家の立ち位置、視座の決定的な違いでしょう。

写真家は、対象である被写体に何かしらの「美しさ」を感じないない限りシャッターを押さない、押せない。
誰からもアングルの指示は受けませんし、被写体との刹那の「出会い」にすべてを賭けます。だからフレーミングの気遣いとは、あくまでも写真家が現象世界の内で感じた美しさ、そのシーン、瞬間を明確にするために育成された技術のひとつに過ぎません。

写真家は、何をどう見せるかより、何がどう「見えたのか?」を重要視します。もしくは、その対象、現象の背後に眼差しを向けようとするのです。

カメラという現象世界を映し出す機能を備えた道具によりフィルムやCMOSセンサーに定着される世界観が、映画と写真ではその目指すべき、思いを向けるポイントや位相がかなり違うのです。

不遜に聞こえるかもしれませんが、写真家の写真とは、それを見る側の内的な視覚を目覚めさせることを目的とします。知覚の向こう側、僕たちの身体上の視覚から心眼へと赴こうとするのです。

とても逆説的なアプローチですが、視覚を通じて視覚のその先、「心眼」の領域へ。
ただこれは特殊なことではなく、視覚芸術全般に内在している理念です。

知覚により条件反射的に起こる知的レベルの解釈や判断を停止し、静けさの無白の内へ。心眼とは「沈黙」の中でのみ開花します。

映画表現は、見る側を経過する時間の中へ誘い込み、物理的(映画的)時間と付き合うことを要求します。また目を閉じることは許されず、ある種洗脳性の高い教育的効果を及ぼすので、この現象世界を超えゆくような「瞬間」や視座については抑制的に働きます。

では、なぜ芸術作品は物理的空間、過去現在未来と続く時間の法則からの超脱を目論むのか?
これは仏陀が説いた「生老病死」、肉体という物質が従わざるを得ない運命に対し、"眼に見えない心"が追従する必要がないからです。
つまり身体に備わった視覚から心眼への移行とは、この世界が描く限定的もしくは表層的、偶発的な形態の諸相、差異から、心が自由になることを意味します。もしくは「無限性を想起する」瞬間を与えようとします。

知覚による判断は知性によってなされますが、感情が抱く快不快と同様に、個々の身体による経験値に基づいた記憶、過去に頼っています。ただしその判断基準とは、実は身体に付与された機能と"同一化"した心が抱く恐れが原因なのです。

「恐れ」が、この世界の人間の営みの動機であり、その心を攪乱し続けています。

視覚から心眼への移行とは、時空間の法則により強要され、束縛されていた心が、あらゆる恐れから解放された本然の状態に戻る(目覚める)ことに繋がります。

覚者は、この世界を一体どんな風に見ているのか?
そして有限である写真は鑑賞者に無限を想起する機会を与えることが出来るだろうか?
 
 

 

2026/01/03

~眼差し、写真のポテンシャル~

 

日々の暮らし、身の回りの生活圏内での撮影から生まれた写真と、遠出、見知らぬ土地に行き、撮影された写真とでは、少なからず写真に浸透する撮影者の息遣いや気配、心のトーンは異なるものです。

本格的に撮影を始めた20代の頃は、自分の日常の生活圏外へと、ひたすら歩き回り、特に何かを撮りたいという被写体への拘りも捨てて、まるで獲物を求める狩人のような心理状態、いきなり飛び込んで来る光景に瞬時に反応し、撮影する。
右手にカメラ・ストラップを巻きつけ、絶えずニコンF3を握りしめ歩き回ることが、僕の初期の撮影スタイルでしたが、それはストリートフォトグラファー、もしくはフィールドカメラマンの基本姿勢、構えでありました。

ひたすら歩き続けること。

やがてある時、その撮影スタイルに疑問を抱くようになりました。
いや、撮影の為に様々な場所を歩き続けていた頃から、微かな疑問はありましたが、その疑問だけは見ないようにしていました。それは、僕が「素敵な写真だなぁ」と影響を受けた写真家は皆、「とにかく歩き続けること」このスタイルを重視していたからです。

スイス生まれのロバート・フランクは異国であるアメリカ中を旅し、異邦人の眼として『ジ・アメリカンズ』という革新的な写真集を発表しました。後、彼は撮影することから徐々に離れてゆきましたが、やがてカナダのノヴァ・スコシア州にあるマブーに居を構え、まるで隠者のような暮らしを選びました。

藤原新也は20代30代とインドや東南アジアを放浪し、『全東洋街道』という圧倒的な写真集をものにしています。

森山大道はひたすら町を徘徊し、町が放つ生々しい劇場性に魅せられ、寺山修司のテキストで『にっぽん劇場写真帖 』で鮮烈なデビューを果たします。そして『写真よさようなら』以後はしばらく迷走するも、『Daido hysteric』シリーズによって見事に甦り、終生ストリートフォトグラファーであることを貫き通します。

僕が撮影の為に歩き回っていた最中に抱いた疑問とは、なぜ、自分の生活圏の外へ出向き、自分の暮らしとは全く関係のない、見慣れない、他所の風景と関わるのか?
果たして、関われるのだろうか。
それはあまりにも無責任で、「撮り逃げ」ではないのかと。

そしてある日、当時僕は阿佐ヶ谷に住んでいましたが、近所の空き地、ビルの取り壊され雑草地帯と化した空き地と出会し、驚愕し、その場所に通い詰めることが日課となりました。天候や日時、自分の心の状態によってその草むら(被写体)の見え方が、感じ方があまりにも変化することに気づいたからです。

見慣れていたはずの光景が、突如見知らぬ表情を浮かべ、その本質を現す……。
この一瞬こそが「観る」ことだと。そしてその変化の源、背後には移り変わることを知らない圧倒的な「ヒカリ」の存在が、僕という存在を貫き、この世界の真の所在を明らかにしている。"それ"を、フィルムに定着させること。これは歩き回る撮影スタイルでは得難い「視覚」であると気づかされたわけです。

自分の生活圏内の見慣れた光景に対して日々新しく出会うこと、臨むこと、「観る」こと。それは被写体に対して責任を取ることであり、共に生きることです。また自分の深部に迫ることであり、自分の日々の生活を慈しむことへと繋がってゆきます。この撮影スタイルは「親和性による越境」と呼べるかも知れませんが、僕という個性にとってはとてもしっくり来るものでした。

昨年上梓した写真集『廻向』の1章目の撮影場所は八王子全域ですが、僕の生活圏からやや離れた土地でありながら、自分に与えられた現場、仕事場所という僕の生活には生々しく抵触していました。
2章目は岩手県陸前高田という僕の日々の暮らしとは全く関係のない、出版社から依頼された、指定された場所です。そして最後の3章目、自宅から歩いて4、5分足らずの今の職場、まさに僕の生活圏内の中心に当たる(歩き回ることが禁じられた)場所での撮影。

この3つの章で、写真家の視覚、その強度や深度が最も試される場所は3章目ですが、「試される(厳密に言ったら自分で自分を試しているのですが)」ということは、自分の内に眠っている物理的な知覚を超えた何かが「引き出される」ことでもあります。
旅における撮影は、どうしても表層上の対象物の変転、被写体の彩りの方へと視覚が惹きつけられて、物理的な現象の背後へのフォーカシングは困難なものとなります。

写真家ロバート・フランクが『ジ・アメリカンズ』でたどり着いた場所は、無常性、無常感でした。そしてその写真集の中で、ときおり子供へと彼の視線が向いた理由は、たぶん彼にとって子供たちこそが自由と希望の象徴であり、旅の疲れを癒す存在であり、また無常性を切り裂く救いのイコンだったのではないか、そんな風に思います。

写真家は、この世界の諸相に促され、包み込まれ、いったい何を見ようとしているのか。何を見たのか?
通常の視覚によって見出された、栄枯盛衰、千変万化するだけのこの現象世界に、どんな意味があるというのか。
永遠に存在するものとは?
視覚や意味の向こう側には、どんな世界が広がっているのか
 

 

2025/12/29

~融究に存つ~

 

1なる神の園では、信念を持つ必要はなった。無限と自由、愛だけが在った。

 神の外で、無数の信念が作り出された。


「愛されたい」という想いは、認証願望でもありますが、当然のごとく「自分は愛されていない」という自己評価および自己否認が前提になっています。
ただ、「自分は愛されていない」とは、一体誰が判断出来るのでしょうか?

自分という存在が、他者から愛されているか?もしくは、愛されていないか?この判断は、厳密には確証に至れません。なぜなら自分以外の他人の心の動きは、想像することしか出来ませんし、人間の感情は絶えず動き回り、時の経過と共に変化するからです。

つまり自分が「愛されていない」と判断できるのは自分だけで、その判断、思いが、「愛されたい」という願望の源です。

まず最初に「自己否定」があるのです。

自分自身を愛せない者は、他者からの愛を求めますが、他者も、自分を愛せないゆえに誰かからの愛を求めます。

自己否定から始まる他者からの愛の希求は、いっ時の喜びの瞬間や期間はあっても、永遠に満たされるわけにはいきません。なぜなら、自己の否定は、世界に原因があるのではなく、自分自身による決断だからです。

「自分は愛されるに値しない存在である」

自己愛という言葉がありますが、自分を他者との関係性を排除した上で全的に自分自身を愛することは不可能です。なぜなら、愛とは「関係性」の賜物だからです。

「自分は愛されるに値しない存在である」という思いが、あらゆる人間存在の意識の根底にあります。
自己否定とは、劣等意識であり、自己嫌悪、罪責感とも言い換えることができますし、いわゆる選民思想や優越感などは、その裏面には必ず自己否定やこれに類する自己判断、自己判定が動いているのです。

これは何故か?

自分と他者との関係とは、横に広がろうとする関係性ですが、縦軸の関係もあります。これは天もしくは神と繋がろうとする関係性です。

他者を愛する。
何の見返りを期待せず、愛する。
相手からは何も求めずに、特定の個人のみに向かうのではなく、自分が知覚したすべての存在を愛する。
無償の愛と呼ぶのでしょうか?
もし意識を絶えずそこに向けようと努めるなら、自分の内側にあるその荒唐無稽な脈打つ愛が、無限への想起と繋がり、意識の根底にある執拗なる自己否定、「自分は愛されるに値しない存在である」を溶解させることでしょう。

自己否定とは、ある種の「裁き」です。では、誰が自分を裁くことが出来るのでしょうか?(もちろんこの視座は外的な法的世界でのことではなく、あくまでも心的次元のことです。)

裁かれる者と裁く者が同一人物であることは本来その関係構造上、不可能なことですが、この自己矛盾を回避する為に、僕たちは「空想上の神」を捻出しました。そして裁く者の役割りをその空想上の神に与え、自己ジャッジという機能を作り出しました。しかし「裁く神」とは、神という言葉が示す定義上、裁く働きを持っている存在は決して「神」とは呼べませんので、裁く神とは意識が作り上げた「概念」にすぎません。

では、創作された神イメージ、「裁く神」つまり「裁く自分」と「裁かれる自分」という自己矛盾、誤認識を、なぜ必要とするか?

自己否定のカラクリを明視しようとする試みは、人間存在の心の盲点を修復する行為となります。

自己を否定するという心の動き、その根源的な原因を明るみにし、言葉によって説明することはかなり厄介なことですが、無謀にも結論だけ述べてしまえば、「自己否定」という衝動は、この世界や社会との、個別意識における遭遇や関わり合いによって生じたことではなく、この世界に産まれることを選んだ者たちの「信念」なのです。

その信念を持たない人間はそもそもこの時空間によって構成された世界には産まれません。

自己否定を知らない心、魂は、たぶんこの世界に生まれる必要がないからです。つまり、自己否定の由来、その理由とは、全体性、神(超越的存在)の否定ではないのかと、推察できます。

繰り返しますが、自分の心、存在性を否定、裁くことが出来るのは、自分以外にはありません。

僕たちはこの世界の、仏陀が説いた輪廻転生という夢の中の流離人であり、「確かにここに自分は存在している」という自己実感の条件として、ひたすら自己否定を続けることを選んだのかも知れません。
 
 
 

2025/12/25

〜愛について〜


 

「愛とは何か?」
 
この問いの回りには、愛の感情を誘発した相手の姿形を看過し、自分の内に湧き起こる「愛それ自体」への観察、そしてその考察へ向かおうとする意思を禁じる何かがあります。
 
愛とは、相手(対象)によって触発された感情なので、具体的な行為による経験にこそ価値があり、そもそも「愛それ自体」を考察の対象にすることは観念上の遊戯であると。
 
愛の対象、彼または彼女のイメージ、外的な形象やそこから生まれる知覚内容などから離れ、自分の内に芽生えた、「愛そのもの」を観照しようとすることの意図とは何だろう?
たとえば、人間が抱く憎しみについて省察してみてはどうか?
これは考えるまでもなく、憎しみとは愛の不在に過ぎないので、人間の業や狂気、愚かさなどを描く文学や映画の表現世界にあたれば良いです。

闇が光の不在であるように、愛と光は近似的な関係、働きを持つので、愛について考えることはそのまま光の原理、その本質を思考することへと繋がってゆきます。
自分の内側で沸き起こった「愛それ自体」の考察または観照は、ある壮大な世界への扉を開くことになりますが、やがて心は自らの出自(アイデンティティ)を想起することになります。

数年前から、長期に渡った体調不良を契機に、僕は柄にもなく愛について考えるようになりました。
それ以前は、外的な対象(相手)との出会いをきっかけにして、自然発生的に湧き起こった感情や思いを、この知覚の舞台で直接的に身体表現することだけが実りある行為だと思っていました。
知性による「愛それ自体」を考察の対象にするのはいかがなもの?
自分の内側を観察して、愛を誘発した相手の姿形を手掛かりに、愛の感情認識だけの世界に入って行くことは単なる自己満足、妄想?それは相手(対象)を無視した「愛」に対する冒涜ではないのか?と、まぁ、皆さんもそうだと思いますが、漠然とそんな風に考えていました。

愛について考えること、考え続けることは、否が応でも「神(超越的存在)」について考えることへと移行します。
なぜなら、愛の感情の発源地はそこに在るからです。
つまり、愛とは、自然発生的にこの世界が獲得した概念、アイデアではなく、神からの「贈り物」として、僕たちの心の中に置かれたのではないのか?

ちなみに僕は、この地上に現存する組織的、形式的宗教にはまったく興味がありません。
通常、そのような輩は無神論者と呼ばれていますが、無神論者とは、安易な信仰を解せぬ実証主義、現実主義者です。ただ、神について考えることを不毛であると思考(観照)停止するなら、愛の本質への貫入は断念せざるを得ませんし、これによって得られる人間存在への飛躍的な視座を手にする機会を放棄することでもあります。

なぜなら、様々な宗教が提示し、イメージ化している神や仏ではなく、「抽象としての(1としての)神」を措定し、これを軸に思考を展開することは、未整然の知覚内容がパズルのように整いはじめ、自意識の巧妙さや出鱈目さをクールに外から観察できるようになるからです。
この世界創造の原因とその目的、意識誕生の意味について、そしてまた決して移り変わることのない愛の出自、由来についての理解に迫ることが出来るのです。

たぶん、『君たちはどう生きるか』と問うことには意味がなく、この現象世界と人間の本質を一望できる可能性を秘めた、愛についての考察と観照とは、実にスリリングな内的な冒険となるでしょう。

この世界は、時間と空間に限定された形態への一時的な愛の「影」に満ち溢れています。
身体上の五感によって知覚認知される、時の経過と共に過ぎ去ってゆく愛と喜び、楽しみの向こう側には、広大無辺な実相世界が広がっています。
それぞれの知覚と思考を踏み台にして、この見慣れた世界から飛び立つことは、いつでも、そして誰にでも可能なことなのです。

(未推敲)
 
 

2025/09/26

海沼武史写真展『而今』トークショウ vol.1~vol.2

 


 

自分の展覧会で、誰かを招き、トークショウをするのは初めてのことです。
  
昔、展覧会期中に、装丁家の故・坂川栄治氏をお呼びし、彼との対談を企画しましたが、タイミングが合わずに流れてしまったことを、今、ふと思い出します。
 
写真家は被写体を必要とします。
対象が無ければ、写真は存在できません。
写真家は、被写体との思いがけない出会いによって心が揺さぶられ、シャッター切り、その記録が、一枚の写真として現われます。
しかし撮影をしていない、普段の日常生活を送っている僕にも、様々な人間との「出会い」があり、時に、強く揺さぶられる瞬間はあります。
 
蜂須賀公之、中村明博、内田和男、僕の心を見事なまでに揺さぶり、強い印象を与えてくれた彼らを己の展覧会に招くこと……。
 
心のシャッターが切られた。
 
僕にとってこのトークショウとは、高尾駒木野庭園という名称を持った舞台、この舞台自体が、インスピレーションの庭であり、もう一つの「写真」であると。そしてそれを公にする。それがトークショウを開催した意味なのです。
 
写真家は、対象(被写体)と共に生きるのです。
 
 
 

 

2025/08/28

写真集『インスピレーションの庭』発売中!

 

この写真集『インスピレーションの庭』は、9月15日(月)~23日(火)まで開催される高尾駒木野庭園で販売いたします。

直接ご購入希望の方は、下記のメールにてお問い合わせください。郵送、もしくは(近隣の方は)手渡しをします。
 

『A Garden of Inspiration インスピレーションの庭』

判型:210×297㎜

頁数:108頁

写真点数:91点

製本:ソフトカバー

発行年:2025

定価:3,500円(税込)

 
写真集1部・定価3500円+送料430円(レターパックライト) 合計3,930円
(写真集2部まで・送料430円)
 
〜お振込先〜
みずほ銀行
店番号:161
普通預金:1733565 
名義:カイヌマタケシ
 
郵送先のご住所とお名前、お電話番号をお知らせください。
 

 
写真集『インスピレーションの庭』は、1995年から2010年までに撮影した幾つかのシリーズの中から代表的なカットを選び、撮影年月日にはあまり囚われずに、一枚一枚の写真が放つ微妙に異なる響きやメッセージに寄り添い、纏め上げたものですが、音楽のベストアルバム的な離散感は与えないように、ページとページをどのように紡いでゆき、展開させれば、ひとつの大きな世界が立ち現れてくれるのか、随分苦心しました。
昨年発表した2冊の写真集はチャプター毎に区切った、時系列によるオーソドックスな編集スタイルでしたので、今回は少し新しいフェーズに挑戦してみました。
ところで、写真家の写真集とは、映画や小説などと比べますと、一般的にはあまり手にする機会のない、決してポピュラーなジャンルとは呼べません。それでもこれまでに数多くの写真集が発表されて来ましたが、ややもすれば一部のコアな読者層に向けた趣味嗜好性の強い写真集ばかりが出版されて来たような気もします。
「より開かれた可能性と甚深な内容を持った写真集とは?」
それが今回の僕のテーマのひとつでした。そしてこの写真集『インスピレーションの庭』の本望は、皆さんにとっての"直観の庭"となること、これに尽きると思います。
写真集でしか表せない、味わえない魅力というものを、存分に愉しんでいただけたら、大変光栄に存じます。
 

 




2025/08/23

海沼武史写真カタログ/Takeshi Kainuma Catalogue 2025

 






 

海沼武史写真展『而今』2025年9月15日(月・祝)〜23日(火・祝)無休

*本展会場にて、(お一人様一部)ご自由にお持ち帰り下さい。

 

 

2025/08/12

海沼武史写真展『而今』 / Takeshi Kainuma Exhibition 2025


 

海沼武史展『而今』
2025年9月15日(月・祝)〜23日(火・祝)無休
開閉時間 9:00〜16:30 入場無料 
 
場所:高尾駒木野庭園
住所:東京都八王子市裏高尾町268-1
TEL :042-663-3611 
 
【トークショウ vol.1】
9月20日(土) 開始14:30〜16:00終了 
 海沼武史 + 蜂須賀公之(作家ナチュラリスト) 
ゲスト・中村明博(額装ディレクター展示設営コーディネーター)
 
【トークショウ vol.2】
9月21日(日) 開始14:30〜16:00終了
 海沼武史 + 内田和男(カウンセラー) 
ゲスト中村明博(額装ディレクター展示設営コーディネーター)
 
※トークショウに関しては、当日中止になる場合も御座いますので、どうかご了承ください。 
 
 
 

 
 
共催:高尾駒木野庭園指定管理者・駒木野庭園アーツ