1なる神の園では、信念を持つ必要はなった。無限と自由、愛だけが在った。
神の外で、無数の信念が作り出された。
「愛されたい」という想いは、認証願望でもありますが、当然のごとく「自分は愛されていない」という自己評価および自己否認が前提になっています。
ただ、「自分は愛されていない」とは、一体誰が判断出来るのでしょうか?
自分という存在が、他者から愛されているか?もしくは、愛されていないか?この判断は、厳密には確証に至れません。なぜなら自分以外の他人の心の動きは、想像することしか出来ませんし、人間の感情は絶えず動き回り、時の経過と共に変化するからです。
つまり自分が「愛されていない」と判断できるのは自分だけで、その判断、思いが、「愛されたい」という願望の源です。
まず最初に「自己否定」があるのです。
自分自身を愛せない者は、他者からの愛を求めますが、他者も、自分を愛せないゆえに誰かからの愛を求めます。
自己否定から始まる他者からの愛の希求は、いっ時の喜びの瞬間や期間はあっても、永遠に満たされるわけにはいきません。なぜなら、自己の否定は、世界に原因があるのではなく、自分自身による決断だからです。
「自分は愛されるに値しない存在である」
自己愛という言葉がありますが、自分を他者との関係性を排除した上で全的に自分自身を愛することは不可能です。なぜなら、愛とは「関係性」の賜物だからです。
「自分は愛されるに値しない存在である」という思いが、あらゆる人間存在の意識の根底にあります。
自分という存在が、他者から愛されているか?もしくは、愛されていないか?この判断は、厳密には確証に至れません。なぜなら自分以外の他人の心の動きは、想像することしか出来ませんし、人間の感情は絶えず動き回り、時の経過と共に変化するからです。
つまり自分が「愛されていない」と判断できるのは自分だけで、その判断、思いが、「愛されたい」という願望の源です。
まず最初に「自己否定」があるのです。
自分自身を愛せない者は、他者からの愛を求めますが、他者も、自分を愛せないゆえに誰かからの愛を求めます。
自己否定から始まる他者からの愛の希求は、いっ時の喜びの瞬間や期間はあっても、永遠に満たされるわけにはいきません。なぜなら、自己の否定は、世界に原因があるのではなく、自分自身による決断だからです。
「自分は愛されるに値しない存在である」
自己愛という言葉がありますが、自分を他者との関係性を排除した上で全的に自分自身を愛することは不可能です。なぜなら、愛とは「関係性」の賜物だからです。
「自分は愛されるに値しない存在である」という思いが、あらゆる人間存在の意識の根底にあります。
自己否定とは、劣等意識であり、自己嫌悪、罪責感とも言い換えることができますし、いわゆる選民思想や優越感などは、その裏面には必ず自己否定やこれに類する自己判断、自己判定が動いているのです。
これは何故か?
自分と他者との関係とは、横に広がろうとする関係性ですが、縦軸の関係もあります。これは天もしくは神と繋がろうとする関係性です。
他者を愛する。
何の見返りを期待せず、愛する。
相手からは何も求めずに、特定の個人のみに向かうのではなく、自分が知覚したすべての存在を愛する。
無償の愛と呼ぶのでしょうか?
もし意識を絶えずそこに向けようと努めるなら、自分の内側にあるその荒唐無稽な脈打つ愛が、無限への想起と繋がり、意識の根底にある執拗なる自己否定、「自分は愛されるに値しない存在である」を溶解させることでしょう。
自己否定とは、ある種の「裁き」です。では、誰が自分を裁くことが出来るのでしょうか?(もちろんこの視座は外的な法的世界でのことではなく、あくまでも心的次元のことです。)
裁かれる者と裁く者が同一人物であることは本来その関係構造上、不可能なことですが、この自己矛盾を回避する為に、僕たちは「空想上の神」を捻出しました。そして裁く者の役割りをその空想上の神に与え、自己ジャッジという機能を作り出しました。しかし「裁く神」とは、神という言葉が示す定義上、裁く働きを持っている存在は決して「神」とは呼べませんので、裁く神とは意識が作り上げた「概念」にすぎません。
では、創作された神イメージ、「裁く神」つまり「裁く自分」と「裁かれる自分」という自己矛盾、誤認識を、なぜ必要とするか?
自己否定のカラクリを明視しようとする試みは、人間存在の心の盲点を修復する行為となります。
自己を否定するという心の動き、その根源的な原因を明るみにし、言葉によって説明することはかなり厄介なことですが、無謀にも結論だけ述べてしまえば、「自己否定」という衝動は、この世界や社会との、個別意識における遭遇や関わり合いによって生じたことではなく、この世界に産まれることを選んだ者たちの「信念」なのです。
その信念を持たない人間はそもそもこの時空間によって構成された世界には産まれてきません。
自己否定を知らない心、魂は、たぶんこの世界に生まれる必要がないからです。つまり、自己否定の由来、その理由とは、全体性、神(超越的存在)の否定ではないのかと、推察できます。
繰り返しますが、自分の心、存在性を否定、裁くことが出来るのは、自分以外にはありません。
僕たちはこの世界の、仏陀が説いた輪廻転生という夢の中の流離人であり、「確かにここに自分は存在している」という自己実感の条件として、ひたすら自己否定を続けることを選んだのかも知れません。
これは何故か?
自分と他者との関係とは、横に広がろうとする関係性ですが、縦軸の関係もあります。これは天もしくは神と繋がろうとする関係性です。
他者を愛する。
何の見返りを期待せず、愛する。
相手からは何も求めずに、特定の個人のみに向かうのではなく、自分が知覚したすべての存在を愛する。
無償の愛と呼ぶのでしょうか?
もし意識を絶えずそこに向けようと努めるなら、自分の内側にあるその荒唐無稽な脈打つ愛が、無限への想起と繋がり、意識の根底にある執拗なる自己否定、「自分は愛されるに値しない存在である」を溶解させることでしょう。
自己否定とは、ある種の「裁き」です。では、誰が自分を裁くことが出来るのでしょうか?(もちろんこの視座は外的な法的世界でのことではなく、あくまでも心的次元のことです。)
裁かれる者と裁く者が同一人物であることは本来その関係構造上、不可能なことですが、この自己矛盾を回避する為に、僕たちは「空想上の神」を捻出しました。そして裁く者の役割りをその空想上の神に与え、自己ジャッジという機能を作り出しました。しかし「裁く神」とは、神という言葉が示す定義上、裁く働きを持っている存在は決して「神」とは呼べませんので、裁く神とは意識が作り上げた「概念」にすぎません。
では、創作された神イメージ、「裁く神」つまり「裁く自分」と「裁かれる自分」という自己矛盾、誤認識を、なぜ必要とするか?
自己否定のカラクリを明視しようとする試みは、人間存在の心の盲点を修復する行為となります。
自己を否定するという心の動き、その根源的な原因を明るみにし、言葉によって説明することはかなり厄介なことですが、無謀にも結論だけ述べてしまえば、「自己否定」という衝動は、この世界や社会との、個別意識における遭遇や関わり合いによって生じたことではなく、この世界に産まれることを選んだ者たちの「信念」なのです。
その信念を持たない人間はそもそもこの時空間によって構成された世界には産まれてきません。
自己否定を知らない心、魂は、たぶんこの世界に生まれる必要がないからです。つまり、自己否定の由来、その理由とは、全体性、神(超越的存在)の否定ではないのかと、推察できます。
繰り返しますが、自分の心、存在性を否定、裁くことが出来るのは、自分以外にはありません。
僕たちはこの世界の、仏陀が説いた輪廻転生という夢の中の流離人であり、「確かにここに自分は存在している」という自己実感の条件として、ひたすら自己否定を続けることを選んだのかも知れません。


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