2009/06/01

プロモーションビデオ / new IDENTITY


床絵美 CD 『ウポポ』より
from "UPOPO" Toko Emi-solo CD



床絵美+千葉伸彦 CD 『ハンター』より
from "HUNTER" Toko Emi and Nobuhiko Chiba-duo CD



千葉伸彦 CD 『トンコリ』より
from "TONKORI" Nobuhiko Chiba-solo CD

2 件のコメント:

はっちい さんのコメント...

というわけで、「コメントのコメント」をどうやって付けるか分からないのであった。

ので、前回のとまたいでコメント。

野菜を野草に近付けるというのはおもしろいね。そして自分自身も。で、畑の中でもがいている姿というのも。そうなっていくよね。有機農業を生業としているやつらは、もっと野菜として見ているのだろうけど、やっぱり元のところにはそれがあり、しかし商売していく上ではなかなか口には出せない。悪い意味じゃなくてね。やっぱりあいつらは「いい野菜」を作ろうとしている。

あったりまえのことなのに、武史みたいなのは初めて聞いたよ。僕も「里山の再生」とかやってるんだから、もっとかんがえなきゃなね。まあボランティアは自然の風みたいなところがあるから、かなりゆだねられるけど。

今回のアイヌの音楽、映像。
やっぱり明るくもなければ暗くもないよね。
いつから音楽はメジャーとマイナーに分かれたんだろうね。

アイヌ音楽なんかは、民俗学的に解釈されて、なんとかの神にささげたんだとか説明され、「ああそうですか」となることが多いような気がするけど、僕はむしろこれが現代に対してどういう示唆を持ち得るかかんがえちゃう。

武史に言われてはっとしたんだけど、つまり僕たちがなくしてしまったエレガントな時間、上質(本物・素)なものを感じ取る空間、世界がここにあるんじゃないかってこと。

身内が死んだら御愁傷さまとか言われて、悲しい気分になったりするけど、もっと生命の実感みたいなのがあって、オヤジが死んだときは、手のひらから蝶を逃がしたようで、すごくすがすがしかった。素敵なことだったんだよ。そういうふうに感性を無垢にでききる場、そこで自然や命と対話できる場がないんだよな。

お世話になったとか、父は偉大だったとかいうまえにさ、魂が蝶になる。その瞬間の素晴らしさを見なきゃ。

ファンとしてわがままなお願いをするけど、もっとロングの映像あったらみたいな。カットが少ないってことだけど。

リウカカント・海沼武史 / Takeshi Kainuma さんのコメント...

以前、はっちいが「音楽には本来意味はなくて、魂の果てまで吹きあがるためだけのものだった。」と書いたよね。僕はその時「ああっ!」って感じたの。感動したというか・・・。
野菜も、音楽と同じでさ、たぶん魂の果てまで吹き上げてくれる野菜こそが、本当は「いい野菜」なんだよね。作りこまれた音楽より(ああ、僕の音楽はまだまだ「野菜」だね)、ぼっとそこでノウノウと生まれ、育ってるぞ!!って野草たちこそがソウル・フード、Soul Musicって言うか・・・。はっちいがBE-PALで連載している「風景の皿」は、いわゆる楽器というものを必要としないジョイントでありライブなんだね。

アイヌ音楽については・・・、さすがだね、「僕はむしろこれが現代に対してどういう示唆を持ち得るかかんがえちゃう。」ってなことしか、実は僕も考えてないんです。
僕はアイヌではないからね、彼らからすればかなりキワキワなことをやっているんだけれど、ごちゃごちゃ言うアイヌがもし出てきたら、「この毒され文明人め!!」って罵ってやろうかと思っております。(嘘です)

狩猟採草生活、カッコいいと思うんだけどな。
でもアイヌのかつての生活を模倣するとか、ネイテイブ・アメリカンのふりをするとか、ラスタマンになるとか、そんな事ではないんだけどね、そこら辺の微細の事々、はっちいは分かっていると思うけれど、僕はめんどくさがり屋だから「芸事感覚を磨きましょう」なんて雑な事しか今は言えないね。

「魂が蝶になる。」
シェアするに足りることって、そこだけなのにね。