「愛とは何か?」
この問いの回りには、愛の感情を誘発した相手の姿形を看過し、 自分の内に湧き起こる「愛それ自体」への観察、 そしてその考察へ向かおうとする意思を禁じる何かがあります。
愛とは、相手(対象)によって触発された感情なので、 具体的な行為による経験にこそ価値があり、そもそも「 愛それ自体」を考察の対象にすることは観念上の遊戯であると。
愛の対象、彼または彼女のイメージ、 外的な形象やそこから生まれる知覚内容などから離れ、 自分の内に芽生えた、「愛そのもの」 を観照しようとすることの意図とは何だろう?
たとえば、人間が抱く憎しみについて省察してみてはどうか?
これは考えるまでもなく、憎しみとは愛の不在に過ぎないので、 人間の業や狂気、 愚かさなどを描く文学や映画の表現世界にあたれば良いです。
闇が光の不在であるように、愛と光は近似的な関係、 働きを持つので、愛について考えることはそのまま光の原理、 その本質を思考することへと繋がってゆきます。
自分の内側で沸き起こった「愛それ自体」の考察または観照は、 ある壮大な世界への扉を開くことになりますが、 やがて心は自らの出自(アイデンティティ) を想起することになります。
数年前から、長期に渡った体調不良を契機に、 僕は柄にもなく愛について考えるようになりました。
それ以前は、外的な対象(相手)との出会いをきっかけにして、 自然発生的に湧き起こった感情や思いを、 この知覚の舞台で直接的に身体表現することだけが実りある行為だ と思っていました。
知性による「愛それ自体」を考察の対象にするのはいかがなもの?
自分の内側を観察して、愛を誘発した相手の姿形を手掛かりに、 愛の感情認識だけの世界に入って行くことは単なる自己満足、 妄想?それは相手(対象)を無視した「愛」 に対する冒涜ではないのか?と、まぁ、 皆さんもそうだと思いますが、漠然とそんな風に考えていました。
愛について考えること、考え続けることは、否が応でも「神( 超越的存在)」について考えることへと移行します。
なぜなら、愛の感情の発源地はそこに在るからです。
つまり、愛とは、自然発生的にこの世界が獲得した概念、 アイデアではなく、神からの「贈り物」として、 僕たちの心の中に置かれたのではないのか?
ちなみに僕は、この地上に現存する組織的、 形式的宗教にはまったく興味がありません。
通常、そのような輩は無神論者と呼ばれていますが、 無神論者とは、安易な信仰を解せぬ実証主義、現実主義者です。 ただ、神について考えることを不毛であると思考(観照) 停止するなら、愛の本質への貫入は断念せざるを得ませんし、 これによって得られる人間存在への飛躍的な視座を手にする機会を 放棄することでもあります。
なぜなら、様々な宗教が提示し、 イメージ化している神や仏ではなく、「抽象としての( 1としての)神」を措定し、これを軸に思考を展開することは、 未整然の知覚内容がパズルのように整いはじめ、 自意識の巧妙さや出鱈目さをクールに外から観察できるようになる からです。
この世界創造の原因とその目的、意識誕生の意味について、 そしてまた決して移り変わることのない愛の出自、 由来についての理解に迫ることが出来るのです。
たぶん、『君たちはどう生きるか』 と問うことには意味がなく、 この現象世界と人間の本質を一望できる可能性を秘めた、 愛についての考察と観照とは、 実にスリリングな内的な冒険となるでしょう。
この世界は、時間と空間に限定された形態への一時的な愛の「影」 に満ち溢れています。
身体上の五感によって知覚認知される、 時の経過と共に過ぎ去ってゆく愛と喜び、楽しみの向こう側には、 広大無辺な実相世界が広がっています。
それぞれの知覚と思考を踏み台にして、 この見慣れた世界から飛び立つことは、いつでも、 そして誰にでも可能なことなのです。
(未推敲)
