花入
(銘)岩窟の花器
この花器は、ニューヨークで生活していた頃に作陶されたものです。
20数年ぶりにまた作陶を始め、様々のフォルムを持った花器を現在制作中ですが、毎回毎回轆轤の前ではあらかじめイメージは持たずに、「どんな形が生まれて来るのやら?」と、まるで即興演奏を愉しむかのように、阿保になって臨んでいます。
花瓶-。
別に花を生けることを習慣化している訳でもありませんが、花瓶とは、「花を生けて美し、花を生けなくとも好し」かなと、それが花瓶の理想の姿であると勝手に思い込んでいる節があります。
しかし、伝統とは何だろう?
伝統を守るとは、伝統から守られる為でもあるよなと、話しを脱線させますが、伝統とは、命の通わない形式主義に陥る可能性を孕みつつも、美や人間存在の本質を見失わず、忘れない為の「要石」の役割りを担っています。
ただ、伝統への前のめりな、過剰なる依存心は、ややもすれば他の伝統の様式や意味内容との差異を強調し、葛藤や軋轢を生む要因にもなります。
伝統とは、たぶん、緩やかに付き合いつつ、その形にはあまり縛られず、その伝統を生んだ心たちの想いの方へとそっと近づいてみることが肝要で、その伝統が必要とした説明的、修辞的言語や形については看過し、ただただその伝統の内に在る「愛」に思いを馳せること、これが最も重要なことであるような気がします。
クルアーン(コーラン)の記述者やタナハ(ヘブライ語聖書)の記述者らの熱き信仰は、言葉を知らぬ、また差異や違いを必要としない、認識しない神の国に届くのか?
熱烈なイスラム教徒、ユダヤ教徒、そして仏教徒……、この世を超えた神仏に対する内なる想い、彼らの内部で弾けた絶対存在に対する「愛」それ自体は、どれも同じであり、そこに絶対的な違いはないはず。
花瓶-。
別に花を生けることを習慣化している訳でもありませんが、花瓶とは、「花を生けて美し、花を生けなくとも好し」かなと、それが花瓶の理想の姿であると勝手に思い込んでいる節があります。
しかし、伝統とは何だろう?
伝統を守るとは、伝統から守られる為でもあるよなと、話しを脱線させますが、伝統とは、命の通わない形式主義に陥る可能性を孕みつつも、美や人間存在の本質を見失わず、忘れない為の「要石」の役割りを担っています。
ただ、伝統への前のめりな、過剰なる依存心は、ややもすれば他の伝統の様式や意味内容との差異を強調し、葛藤や軋轢を生む要因にもなります。
伝統とは、たぶん、緩やかに付き合いつつ、その形にはあまり縛られず、その伝統を生んだ心たちの想いの方へとそっと近づいてみることが肝要で、その伝統が必要とした説明的、修辞的言語や形については看過し、ただただその伝統の内に在る「愛」に思いを馳せること、これが最も重要なことであるような気がします。
クルアーン(コーラン)の記述者やタナハ(ヘブライ語聖書)の記述者らの熱き信仰は、言葉を知らぬ、また差異や違いを必要としない、認識しない神の国に届くのか?
熱烈なイスラム教徒、ユダヤ教徒、そして仏教徒……、この世を超えた神仏に対する内なる想い、彼らの内部で弾けた絶対存在に対する「愛」それ自体は、どれも同じであり、そこに絶対的な違いはないはず。


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