2025/01/30

空気としての音楽 the Aerial Music

 

ウィキペディアでは、アンビエント・ミュージック(環境音楽)について「このジャンルは、シンセサイザーなどの新しい楽器が広く市場に導入された1960年代から1970年代にかけて生まれた」とあります。

さらに「伝統的な音楽の構成やリズムよりも音色や雰囲気を重視した音楽のジャンルである。正味の構成、ビート、構造化されたメロディを持たないこともある」。

なるほど。

グーグルでは、「対峙して聴く音楽とは異なり、場と一体化した音楽空間に身を置くという音楽」。対峙して聴く音楽、通常の音楽鑑賞、芸術鑑賞とは対峙してこそ得られる体験、それが醍醐味と言うものですが、これは詩でも絵画でも芸術作品全般に言えることで、鑑賞者の基本的な態度でしょう。内観や思索も、自分の心や考え、感情に対峙することなので。

「環境音楽は、集中して聴かせるというよりも、むしろその場に漂う空気のように存在することを目的としています」ともある。

たとえば、自然の中に分け入り、そこで耳に入って来る川のせせらぎや小鳥たちのさえずり、風が吹けば樹々たちや葉っぱが触れ合う様々の音色……。

「聴く」のではなく、「訪れる」音に気づく、という状態。

聴覚を通じて聴覚ならざらぬ、そこに心が関与することによって始めて聞こえて来る、見えて来るもの。


テープ速度を遅くしたり、または自動生成による音楽やアルゴリズム作曲法、シンセサイザーやコンピュータの台頭によって、音楽の作り方、作曲法の選択肢は限りなく広がり、これに伴い19世紀には全く耳にすることの無かったサウンドを私たちは手にしました。

しかし、私たちはひとつである心に気づいたのだろうか。

 


2025/01/29

Huna フナ

 


風邪ひいて具合が良くないので、このリマスタリングした「Huna」についてはこちらをどうぞ。

 

 

2025/01/27

thank you 祝福

 


音楽ジャンルの中には、「ニューエイジ・ミュージック」や「ヒーリング・ミュージック」とカテゴライズされたものがあります。

40年ぐらい前は、喜多郎というシンセサイザーを駆使したミュージシャンなどが有名で、そのジャンルの代表的な人物でした。が、僕はその手の音楽が肌に合わず、ほとんど聴いてはいませんが、ブライアン・イーノが提唱したアンビエント・ミュージックのレコードはよく聴いていました。

イーノの音楽は革新的で、多くのミュージシャンに影響を与えましたが、「聴くことの豊かさと自由を」提示した、それまでの音楽の歴史にとって新しい視点を、聴点を明らかにその作品の中で示し得た、重要な仕事を残した人だと思います。ただ、その作品内の作曲者の心の視座、これは坂本龍一さんの音楽にも共通する部分ですが、特に"方向性"は無く、つまり「神とは何か?」「愛とは何処から発現したのか?」を放棄したうえでの実践なので、とても心地の良い温泉にずっと浸かり続ける感じが、「音楽」の中にじっと閉じ込められてしまう感じが、ちょっと麻薬的と言うか、村上春樹的でもあり、途中から聴かなくなりました。

音楽の目的とはその音楽を聴き終わる、聴き終えた後に何が残るのか、もしくは聴いている最中に何が拓くのか、すべての音楽には始まりがあり終わりがあり、音楽の真の目的とはその音楽を聴き終わった時から始まる何か?思い出されるサムシング・グレートではないだろうか。

しかし、その始まる何か、想起される何かの為に、わざわざ外的な音楽を聴く必要はあるのだろうか?という膝カックン。


ただ、この「thank you 」という曲は、上記した三つのジャンルの中には収まりたくないのです。

 

 


2025/01/26

裸の鹿 Native Opera


 音楽の面白さとは、これは小説や絵画、ファッション、あらゆる表現ジャンル全般に言えることですが、現実の人間の生きた社会生活の場面ではなかなかな生じ得ない出会いやドラマを演出、創作できることです。


文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが『野生の思考』という著作で取り上げた"ブリコラージュ"という概念があります。これは「ありあわせの道具、材料を用いてモノをつくること」を意味するのですが、この「Native Opera」という作品は、様々のメーカーのサンプル音源を多用し、重ね、編み上げ、そこにアメリカン・インディアンの独特な歌唱をリードとし、モンゴルのホーミー(喉声)をコーラスとして背後に添わせ、2020年に制作したものです。

つまり、まさに音楽のブリコラージュ。

ありあわせの音源を使い、夢幻の音楽世界を創出すること。

ただ、制作当時は、"ブリコラージュ"という概念については知らず、サンプル音源を使用しながらそこに手弾きのフレーズを混ぜ、イマジネーションの交流を深めてゆけば一体どんな世界が展開するのか?見えて来るのか?という興味、遊び心や実験精神みたいなものがありました。


そもそも楽器とは、音楽を表現する為に、様々の音を鳴らせるよう調整され、工夫が施され、時間をかけ作り出された音楽に仕える道具ですが、すべての楽器が"人為的"な音源装置、道具という意味では、スタインウェイのグランドピアノも電気的に音を合成するシンセサイザーも等価です。

たとえば写真機がフィルムカメラなのか?それともデジタルか?という問いは、すでにあまり拘るべき問いではなくなりましたが、音楽については一般的なリスニング環境が千差万別、出音の状態や印象はバラバラであるにも関わらず、今なおアナログ神話は生き続け、それは別段悪いことでもありませんが、そもそも音楽とは人為的な道具によって成立するものなので、どんな楽器を使ったとしても、最も重要なことは、「人為的なものを通して人為的ではない」本源へと迫り、その豊穣な響きや彩り、動きをどうやって表すことができるのか?もしくは思い出し、融和する、ここに尽きるかと思います。

写真は瞬間を捉えた光景の定着ですが、時間芸術である音楽は、時間を利用しながら一瞬の場所へ、まるで時空を超えた狩人のように、超時制を捕まえようとします。

 


2025/01/23

Key of Life リウカカント

 

床絵美とのユニット〈リウカカント〉は、現代的なアレンジや構成による音響空間、その舞台上に、アイヌ民族の歌を立たせ、彼らの伝統曲が内包する豊かさや可能性を開示しようとする試みでしたが、この動画「Key of Life」という作品は、「♪ハーウサ、ハーオイ、サーオイ、サーオー」というアイヌ語の歌がひたすらリフレインされるシンプルなもの、なので床絵美の声以外にも、近所に住む友人や子供に協力してもらい、2009年に録音、制作したものです。

レファレンスとして、僕はあまり他の音楽家の歌や曲を参照しませんが、この「Key of Life」は、1985年にアメリカの錚々たるミュージシャンが結集し、発表された「We Are The World」という音楽作品が描こうとした世界観、これが念頭にありました。

そして「Key of Life」というタイトルに関しては、僕の大好きだったアルバム、スティーヴィー・ワンダーの名盤『Songs in the Key of Life』からで~す。

 


2025/01/21

intercourse 能


 "すべての見えるものは、見えないものにさわっている。
聞こえるものは、聞こえないものにさわっている。
感じられるものは感じられないものにさわっている。
おそらく、考えられるものは、考えられないものにさわっているだろう。"

(ノヴァーリス)

 

『intercourse』という主旋律から音楽的メロディーが抜け落ちたこの作品は、一般的にはすこぶる人間の耳を戸惑わせるかも知れません。
ただ、この音楽を作った者は、決して聴者に対して挑発的な気持ちや企みなどは持ち合わせず、制作中は、「いいな、いいなぁ」と、ぞくぞくしながら音を選び、時間経過に耳を凝らし、与えられた直感に素直に従いました。
ちなみにこの音楽作品は1994年に作ったものですが、当時はドイツの文筆家ノヴァーリスの『青い花』やルドルフ・シュタイナーの著作などを読んでいたので、そこら辺の書物からの影響はあったかも知れません。
また、一時期、夜、虫の声にじっと耳を澄ますことに言い知れぬ悦びを感じていたので、虫たちの鳴き声、その音が放つ揺らぎや真空への誘い、等々、そのサウンドからの啓発は確実にあったと思います。
また、今回YouTubeにアップロードするにあたりリマスター作業していたら、ふと、「こんな楽曲で能の舞台が見れたら面白いだろうな~」と。

 


2025/01/20

ハルノ haluno (feat.Toko Emi)

 



2007年頃、家の近くに釧路出身のアイヌの歌い手・床絵美が越してきた。

オオカミ犬を飼っていたDJノブヤを介して知り合い、生まれてはじめてアイヌの歌「ウポポ」という存在を知った。
彼女がコーラスの一人として参加したOKI(オキ)さんのアルバム「NO-ONES LAND」( 2002年)を聴き、彼女の声やアイヌの伝統曲が持つ独特な明度に魅かれ、思わず、「ウチで、君の唄を録音しない?」と、念のため名刺代わりに僕のCD『時空の破片』を渡した。

後日、快い承諾を得て、ゆらゆらと、ご近所さんとのお付き合い感覚で、彼女との音楽を通じての交流が始まった。


自分以外の誰か他のヒトの歌や演奏を録音し、ディレクションしたのは床絵美が初めてのことだった。

「こんな感じで録れたけど、聴いてみて」と、彼女の歌声を録音する度、ラフミックス音源をCD-Rに焼き、ぶらっと徒歩で3分、彼女が住む家を訪ねた。

そんなやり取りがしばらく続いた後、アイヌの伝承歌だけを集めた彼女のソロアルバム1枚が生まれ、しばらくして彼女の妹さんとのユニット「カピウ&アパッポ」のアルバムを1枚、そして僕とのユニット、リウカカント名義での2枚のアルバムを制作し、自主販売ながら発表した。


他者の音楽、演奏を録音することとは、その彼らが持っている様々の色彩や波動に感応し、また彼らが開く存在論的フィールドの内へ参拝することだが、これはかなりスリリングな体験。

ある被写体に反応してシャッターを切るという撮影行為とどこか似てるけれど、たった1人での音楽制作では得難い、何か波のような有機的な輪郭を持った歓びへと繋がる。


その後、トンコリ奏者の千葉伸彦さんやシンガーソングライターの堀内幹、床絵美の祖母・遠山サキさんのソロCD制作のお手伝いなどを続け、それは僕にとって珠玉の時間となった。


でも今は、つとめて誰かの音楽制作の協力をしたいとは思わない。

他者の音楽を扱う、そのためのディレクションをするということは、途方もない緊張を強いられ、充分な時間と体力、優しさが求められるからだ。

ただ、またある出会いが僕の心に火を点けるかも知れないが……。

 


2025/01/17

宇宙遊泳 Solitary Spacewalk


 この『宇宙遊泳 -Solitary Spacewalk-』という作品は、『バラード -ballad-』の制作から2年後の1986年、たまたま友人の知り合いからYAMAHAのDX7を10日間貸してもらう機会を得、はじめてシンセサイザーという楽器に触れ、ウキウキしながら気に入った音色を探し出し、短期間で制作されたものです。

曲によってはギターやベース、自分の声などを足していますが、全1曲?で27分、16パートあるこの作品は、当時、アルバイト帰りに足繁く通っていた銀座の「ギャラリー・ケルビーム」という画廊のオーナー梅崎幸吉氏に気に入っていただき、一時期、その画廊内でバックグラウンドミュージックとしてずっと掛かっていました。


「ギャラリー・ケルビーム」の主宰者であり画家でもある梅崎幸吉さんいう人物は、20代の僕に決定的な影響を与えてくれた、いわば恩師のような方です。

彼が拓いた土壌で、僕は美術と哲学への造詣を徹底的に深めさせてもらいました。

学力のなさゆえか(笑)大学に進学するつもりもなかった逸れ者にとって「ギャラリー・ケルビーム」とは、まさに唯一無二の大学、寺子屋?みたいな掛け替えのない場所でした。梅崎さんは極北の(個人)教授として、また心優しい兄貴分として、いつも暖かく接してくれました。 

ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽をこよなく愛した彼に自分の音楽を評価してもらえたことが、1991年に発表したファーストCD『時空の破片』へと繋がってゆきます。


思えば、幸いなことに、20代の僕には2人の恩師がいました。

一人は、梅崎さんであり、もう一人は写真家の師匠である中本佳材氏です。

中本さんからは写真のことのみならず、(手負いの野獣のように生きていた僕に)人間の社会生活にとって大切な倫理や義についても教わりました。

彼との出会いなければ、昨年発表させていただいた2冊の写真集は成り立たなかったと思います。


若い時分には気づきませんでしたが、様々の出会いとは、一見偶然のような素振りを見せますが、実は人知では想定し得ない天から与えられた奇跡じゃないかと、今は強く感じます。
 
 

2025/01/16

鳥のライン birdline

 

僕が10代の頃は、カセットテープとレコードの時代でしたが、当時は何軒かのレコード屋へ頻繁に通い、店主に顔を覚えてもらい、「じゃあ、一曲だけ聴かせてあげるね」と、お勧めのレコードを視聴させてもらうだけで興奮していた学生時代。

特に60年代から70年代に発表された洋楽、ロック音楽のレコードには魅了され、その時代の音楽を中心に聴きまくっていました。 

なので、僕が作る音楽は、ロック音楽からの影響をかなり受けていると思います。

後、ロックのみならずジャス、レゲエ、現代音楽、民族音楽と、あらゆるジャンルのレコードを、自宅の安物のレコードプレーヤーで聴いていました。僕らの世代は、今と違い、レコードを聴くことぐらいしか現実からの逃避?は叶わなかった。

レコード盤に録音された音楽を、個々人の生活空間の中で聴くことができる、それぞれのタイミングで楽しむことができるという、19世紀にはなかった20世紀に現れた新しい音楽鑑賞法は、やがてウォークマンの出現により、家の中だけではなく屋外でイヤーフォン刺して歩きながら聴くことができるようになり、さらに現在ではYouTubeなどで世界中の音楽をタダで聴くことが許されてしまった。

レコジャケを一枚一枚睨みつけては、「果たしてこれはどんな音楽なんだろう?」と、ドキドキしながらジャケ買いした時代は瞬く間に終わってしまいました。

レコード、カセットテープ、MD、CD、DAT、音響データ、配信と、音楽が記録されたメディアや音楽を聴くための道具、ハード面は著しく変化しましたが、これはあくまでもテクノロジーの進展であり、音楽作品そのものの出来栄え、その内容の進化進展ではありせん。

と言うのも、録音芸術としての音楽作品の黄金期は、すでに1970年代をピークとして、1960〜80年代に発表された様々のジャンルのアルバム、たかだか30年という短い間に発表された数々のレコードによって達成されてしまったからです。

もちろんこういった発言は、若い音楽好きのリスナーをカチンとさせるかも知れません。が、あらゆる音楽を聴き込んできた、もしくは真摯に音楽に取り組んできたミュージシャンにとってこの判断は周知の事実かと思います。

では、なぜ、そのような何の得にもならない独善的な感想を述べるのか?

この意味合いは?

それは、音楽の録音物の黄金期が過ぎ去ってしまったこの現代に、あらためて、音楽する意味、意義を、今を生きる音楽家、リスナーの方々がひとりひとり自ら深く問う必要があると感じるからです。


音楽とは何か?

なぜ音楽を作るのか?

なぜ音楽を聴くのか?

この問いそのものは、黄金期を過ごしたかつての音楽家の内部には殆ど生じ得なかった問いであり、深く思考するには至らなかった問いです。

「何のために音楽を作るのか?」

「何のために音楽が必要なのか?」

この問いを突き詰めてゆくと、やがて「何のためにこの世界はあるのか?」という問いへと導かれてゆきます。

そして「自由とは?」

「愛とは?」という根源的な問いに行き着きます。


かつては、暇な貴族を喜ばすためにお城に呼ばれた演奏家たち。

外部へと追い出した〈神〉に向けて執り行われる儀式に仕えた音楽家、演奏家たち。

大衆へ、一時の興奮と喜びを与える為に開催される無数のコンサート、爆音の中でのレイヴ、肉体の祭り、饗宴の数々。

音楽家は、いつの時代も、人々へのゴマスリ業務に徹してきました。

なぜならリスナーがその程度のものしか音楽家に求めなかったからです。

自由と無限の愛を、唄や音の真空の編み物によって表現する役割を担った音楽家が、この社会的構造の中では、いまだにいちサービス業者としてしか存在できないのでしょうか?
 
 

2025/01/13

sudeni スデニソレハソコニアッタ


 この世界に「美しい花」というものは存在しない。しかし、美しい花を見出すことのできる生命体はいる。

人間だけが、花を見て「美しい」と感じる。

これはなぜか?

それは、人間の心の中に初めから〈美しい花〉が存在しているからだ。


同様に、この世界の「自然」とは、美しくもなければ醜くもない。

四季折々の営み、その表層的な変化のある断面を取り出し「美しい」と感じることはできる。が、そもそも自然界、その総体とは弱肉強食と縄張り争いがうごめく残酷な面をその内部に隠し持っている。

では、絵に描かれた〈自然〉とは何なのか?

絵に描いた餅はしょせん食べられないと、さも食べられる餅にこそ価値があり的な考えに縛り付けられている動物やヒトは多いが、絵、芸術とは本来犬猫には必要ではない人間種だけの心の食べ物であり、実は「自然」から心を取り出し、移り変わることのない源泉の美を、1枚の画布に、その聖性と歓びや神秘を抽出し、再生させることが出来る機能と役割を与えられたのは芸術家だけだ。


つまり「絵画」そして「音楽」によって、この自然界が初めて天上へと復活する。


だが、すべての人間が潜在的芸術家である

 


2025/01/12

rebirth

 

この『rebirth』という曲は、TASCAMの8ch カセットテープ用 MTR(マルチトラックレコーダー)を使用し、YAMAHAのSY77や打楽器、エジプトやニューヨーク等でのフィールドレコーディングによる環境音などを混ぜ、1996年に制作したものです。 

たとえばこの作品を聴いて映像を喚起する方はいらっしゃると思いますが、映画音楽、劇伴と呼ばれている音楽ジャンルに関して、それは僕が考える「音楽」の範疇には入って来ません。

なぜなら、ある映像、シーンのために作られた映画音楽は、あくまでも効果音、映画のための装飾であり、映像やシーン、ストーリー抜きの純粋なリスニング体験が叶わないからです。
与えられた映像を思い出しながら音楽を聴くのではなく、その音楽によって自分の内側から何が見えて来るのか?また、聞こえてくるか? もしくは、呼び覚まされるのか?

音楽を聴くという体験にとって最も重要な点は、ここにしか無いと僕は考えています。

 自由に作り出された音楽は、聴き手の内に、それぞれの個性と記憶を尊重しつつも、当人らがまだ気づかぬ新しい「自由への道」を照射しようとします。

 


2025/01/10

安息の日 no man's sky

 

~音楽の作り方~

現在のDAWによる僕の楽曲制作は、DAWを単なる録音機として扱い、即興演奏を主体に、さほど積極的なエディットを施さず、すぐさま仕上げてしまう場合と、様々な楽器の音色をMIDIに書き込み、トライアンドエラーを繰り返し、その1つ1つの各チャンネルをきめ細かく操作して、気の遠くなるような長い時間をかけ制作するパターン、この2種類の作り方をしています。

この『安息の日 -no man's sky- 』は、演奏中に各パラメーターを動かしながら、即興演奏による一発録りです。

 
私とは誰か?
私とは、〈私-意識〉が作り出した分節した(小文字としての)私。
あなたとは?
あなたとは、この(小文字としての)私を存在させる為に〈私-意識〉が作り出した私の一部、私の万華鏡。
では〈私-意識〉の生みの親とは誰か?
大文字としての私とは、誰か?

「私とは誰か?」という問いと、「この世界とは何か?」という問いは、同一の問いです。
なぜなら、この世界が無ければ私の身体は存在しえないので、「私」という意識が生む「私とは誰か?」という問いそのものが生まれないからです。
また、この私が居なければ、私にとってこの世界の有用性は消えますので、世界そのものの価値も無に帰する。
つまり、私と世界は〈同一〉であり、この世界とは、私であり、私が、この世界の原因だと言えるのです。
 
 

2025/01/09

バラード ballad


 この『バラード ballad』という音楽作品は、TASCAMの4chオープンリールデッキを使用し、多重録音により制作しました。 
 
自身の声の重奏を主体とし、鐘の音やギター、マイクスタンドへの打音等を加え、雨の音などの外音も取り込み、1つの音響空間の創出を試みたものです。 
 
ロックやフォーク、ソウルミュージックなどの影響受けた歌を書き、歌っていた僕が、はじめてインストゥルメンタル音楽の世界に入るきっかけとなった作品でもあります。
  
当時、ガラス清掃のアルバイトをしながら不定期に都内のライブハウスでアコギ1本で歌を歌っていた者が、『バラード ballad』という何とも摩訶不思議な音楽をなぜ作ろうと思い立ったのか? 
 
それは1984年のある夏の正午。仕事中、銀座の美術ギャラリーでたまたま見かけた町山京子という作家のインスタレーション作品との出会いが、『バラード ballad』制作へと僕を駆り立てました。

「もし、この展覧会場に音楽を流すとしたら、どんな感じのものが合うのだろう?」と、
突然閃いたのですが、ある外的な視覚情報が制作の動機となったことは、後にも先にもこの時限りです。
 
 
時間と空間の法則によって成立しているこの世界、この法則はなぜ生まれたのか?もしくは必要とされたのか?ーー何のために?
宇宙の起源とされるビックバンの原因をあれこれ推測できたとしても、それが一体何の、誰の役に立つと言うのだろう。
ビックバンは「意識」の誕生、流出であると言う説もあるが、この仮説には物理学的なアプローチでは近づけない、肉体や五感、つまり時間と空間の法則から自由になる為のヒントが隠されている。 

2025/01/06

風の家 house of wind


 過去の音楽作品、録音物をあらためて聴き直し、今現在の聴感でリミックス、リマスターを施す作業を続けていると、制作当時には気づかなかった、敢えて意識化しないポイントを残し作業を進めてきた理由や、それでも半意識内に留めて置いたそのポイントの内訳?その音楽作品に流れている世界観のあらましが、明瞭に、意識の明るみに浮上して来る。

「そっか、なるほどね〜」と、自分自身の心の特性だったり、志向性、願い事、思いの総体のようなものが意識の波打ち際で言語化されてゆく。


たとえば、僕は楽器演奏のための正規の教育は受けておらず、すべて独学なのですが、ある楽器を扱う、演奏するための技術を習得する為には、それなりの練習期間が必要となります。

これはスポーツ選手も同様で、試合に向け、本ちゃん、演奏会に向け過酷な練習を自らに課します。

では写真家は?

写真家に練習って必要? 撮影するための道具、カメラを上手に使いこなすための練習など、演奏家やスポーツ選手の膨大な練習量と比すれば冗談みたいなものですよね。

とにかくシャッターを切り、あがりを確認し、またシャッターを切る、この連続、無限の繰り返し(笑)。写真家にとってはこのシャッターを切る瞬間がすべてであり、絶えず本番の状態に身を置きます。そしてその撮影行為の只中で、自分が目指す、赴きたい、または信じる世界に近づこうとするのです。

僕の音楽制作、DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)による音楽作りの態度もこれに近いものがあり、演奏家やスポーツ選手が求めるような特別な技術というものは必要としません。なぜなら、僕の音楽は、演奏家の音楽のように、確かな演奏技術によって裏打ちされた、誰か他人が作曲した楽曲をミスることなく再現し、その作品が持つ深みや彩り、可能性を明らかにし、伝えることを目指してはいないからです。

特化した技術によって競い合い、そこから生じる排他性、特別性、オリンピック的なコンテストという制度、制約にはあまり魅了されないのです。


両耳に向けて

スピーカーから放たれる

身体の眼には見えない音たちによって構成された世界、時間に寄り添い、空間に広がる何か不可思議な心のカタチ

音たちが知らせる、向こう側の世界への架け橋を、この世の様々な音たちを絵具として用い、ただただ描き出そうとしているのです。
 

もしくは、源泉から漏れ出してくる光のような"何か"を、音たちによって捕まえ、「音楽」というカタチを与えること。

 


2025/01/04

インディアン・サマー indian summer

まだ20代の頃、フォークギター1本で歌っていたことがあった。

歌うこととは、「啼き叫ぶことだ」と勘違いしていた若者が、35年近く前の歌声に耳を澄ましていると、そこには居た。

昔のライブ音源をそのまま使うのは気恥ずかしさもあり、バックにうっすらとシンセで音を足し、野原、空域を作ってやった。

やがて彼は、人前で歌うことが嫌になり、自分の声帯や歌が要求する形式に居心地の悪さ、制約を感じ、より自由なインスツルメンタル音楽の世界に魅了されていった。

唄と「音楽」は違う。

なぜなら、唄は、人間の「声」という諸楽器には持ちえないリアリティーと、「言葉」という明確な意味内容の提示により、音楽が、あくまでも唄を支える背景となってしまうからだ。

 


2025/01/02

scene#4


 世界は静けさに誘われて、すべての音たちは静まり、やがて明るい無白のスペースが縦横に拡がり、そこに目に見えぬ神は飛び込んで、音楽家の耳や手を使い、あの世の歌を採譜することだろう。

 


実験音楽について / Experimental music


 〜実験音楽についての雑感〜

音楽作品を深く味わおうと思う時、人は自ずとその瞳を閉じ、心を鎮め、ひたすら耳を澄まそうとするものですが、1952年にジョン・ケージが発表した作品《4分33秒》は、音楽を鑑賞しようとする者たちの心的な態度、まず耳を澄ます"以前"の、音楽に対するこれまでの固定観念を白紙に戻そうとする試みであり、問いかけでした。

そもそも前衛芸術、アバンギャルド(avant-garde)
とは、伝統的な様式や既存の価値観に挑戦する姿勢を指す概念ですが、ジョン・ケージやクセナキスが提示した中国の易、チャンス・オペレーション、UPIC(ユーピック)や確率論などを用いた作曲法とは、19世紀までの西洋音楽の歴史には存在しなかった新しい作曲技法であり、これは「音楽とは何か?」という根本的な問いを含みつつも、音楽鑑賞における「耳を澄ます」以前の状態、鑑賞者がすでに持っている、持たされていた観念的な呪縛、思い込み、知覚の制約などを解き放とうとする実験でもありました。

そして、「美しい音楽は人を心地よくする」
的な考えや感覚から解放された作曲家および鑑賞者は、さらに次の段階へと進み、その一見制限なき自由な音楽作品、これまでに無かった音の響きや連なりに触れて、この世界における音楽の役割、その根源的な意味を明らかにしようとしたのです。

"空の下で、樹のことばを、聴くように見、見るように聴く。"(
長田弘)

ところで、20世紀に作曲され、
演奏された数多の実験音楽について感じる個人的物足りなさは、当の作曲家たちが、ほとんどの前衛もしくは実験的な音楽作品が、壊すだけ壊して、音楽鑑賞の真の醍醐味、自由となったその聴感を通して再び「耳を澄ますこと」の大事を放棄したように感じるところです。新しい方法論、アイデアによって生み出された音楽作品と言う結果について、その作曲技法だけに注目がゆき、音楽という時間芸術が呼び覚ますであろう音の向こう側への繊細なる感受を蔑ろにして来たような気がするのです。

ジョン・ケージが思い描いた夢、音楽は、
楽器による演奏という形態に拘らなければ、実はこの現象世界の事物や生き物たちが偶然に鳴らす無数の音たちによって満ちており、瞬間瞬間、今まさに上演されています。
またクセナキスの、
クラッシック演奏者たちに多大な技量と心理的な緊張を強いる作品群は、AIによりさらに複雑緻密に計算され、採譜され、自動演奏可能な時代となりました。

では、人間が作曲する、音楽を作り、聴く意味とは?

"音楽の究極の目的とは、神を思い出す為の手段となること。"(
不詳)

無白を得て、あらゆる音の先、
音楽の始原への感受の内に溶け込んだ作曲家または鑑賞者は、一体これからどこに向かうのでしょうか?

この世界に生まれたすべての音、人間が作り出した音楽は、
ゆくゆくは、すべてあの光り輝く始原の沈黙によって飲み込まれてしまうかも知れません。音楽とは、いわば、ひとつの、苦し紛れの〈予期〉なのです。

それでは、芸術作品の究極の目的とは何でしょう? 
それは、美の開示であり、神(源泉)への想起となります。
音楽作品とはその為の手段のひとつです。
そして、
やがてその目的が遂げられたなら手段は不要となるのです。