2025/01/04

インディアン・サマー indian summer

まだ20代の頃、フォークギター1本で歌っていたことがあった。

歌うこととは、「鳴き叫ぶこと」と勘違いしていた若者が、35年近く前の歌声に耳を澄ましていると、そこには居た。

昔のライブ音源をそのまま使うのは気恥ずかしさもあり、バックにうっすらとシンセで音を足し、野原、空域を作ったやった。

やがて彼は、人前で歌うことが嫌になり、そして自分の声帯や歌が要求する形式に居心地の悪さ、制約を感じ、より自由なインスツルメンタル音楽の世界に魅了されていった。

唄と「音楽」は違う。

2025/01/02

scene#4


 世界は静けさに誘われて、すべての音たちは静まり、やがて明るい無白のスペースが縦横に拡がり、そこに目に見えぬ神は飛び込んで、音楽家の耳や手を使い、あの世の歌を採譜することだろう。

実験音楽について / Experimental music


 〜実験音楽についての雑感〜

音楽作品を深く味わおうと思う時、人は自ずとその瞳を閉じ、心を鎮め、ひたすら耳を澄まそうとするものですが、1952年にジョン・ケージが発表した作品《4分33秒》は、音楽を鑑賞しようとする者たちの心的な態度、まず耳を澄ます"以前"の、音楽に対するこれまでの固定観念を白紙に戻そうとする試みであり、問いかけでした。


そもそも前衛芸術、アバンギャルド(avant-garde)とは、伝統的な様式や既存の価値観に挑戦する姿勢を指す概念ですが、ジョン・ケージやクセナキスが提示した中国の易、チャンス・オペレーション、UPIC(ユーピック)や確率論などを用いた作曲法とは、19世紀までの西洋音楽の歴史には存在しなかった新しい作曲技法であり、これは「音楽とは何か?」という根本的な問いを含みつつも、音楽鑑賞における「耳を澄ます」以前の状態、鑑賞者がすでに持っている、持たされていた観念的な呪縛、思い込み、知覚の制約などを解き放とうとする実験でもありました。

そして、「美しい音楽は人を心地よくする」的な考えや感覚から解放された作曲家および鑑賞者は、さらに次の段階へと進み、その一見制限なき自由な音楽作品、これまでに無かった音の響きや連なりに触れて、この世界における音楽の役割、その根源的な意味を明らかにしようとしたのです。

"空の下で、樹のことばを、聴くように見、見るように聴く。"(長田弘)

ところで、20世紀に作曲され、演奏された数多の実験音楽について感じる個人的物足りなさは、当の作曲家たちが、ほとんどの前衛もしくは実験的な音楽作品が、壊すだけ壊して、音楽鑑賞の真の醍醐味、自由となったその聴感を通して再び「耳を澄ますこと」の大事を放棄したように感じるところです。新しい方法論、アイデアによって生み出された音楽作品と言う結果について、その作曲技法だけに注目がゆき、音楽という時間芸術が呼び覚ますであろう音の向こう側への繊細なる感受を蔑ろにして来たような気がするのです。

ジョン・ケージが思い描いた夢、音楽は、楽器による演奏という形態に拘らなければ、実はこの現象世界の事物や生き物たちが偶然に鳴らす無数の音たちによって満ちており、瞬間瞬間、今まさに上演されています。
またクセナキスの、クラッシック演奏者たちに多大な技量と心理的な緊張を強いる作品群は、AIによりさらに複雑緻密に計算され、採譜され、自動演奏可能な時代となりました。

では、人間が作曲する、音楽を作り、聴く意味とは?

"音楽の究極の目的とは、神を思い出す為の手段となること。"(不詳)

無白を得て、あらゆる音の先、音楽の始原への感受の内に溶け込んだ作曲家または鑑賞者は、一体これからどこに向かうのでしょうか?

この世界に生まれたすべての音、人間が作り出した音楽は、ゆくゆくは、すべてあの光り輝く始原の沈黙によって飲み込まれてしまうかも知れません。音楽とは、いわば、ひとつの、苦し紛れの〈予期〉なのです。

それでは、芸術作品の究極の目的とは何でしょう? 
それは、美の開示であり、神(源泉)への想起となります。音楽作品とはその為の手段のひとつです。
そして、やがてその目的が遂げられたなら手段は不要となるのです。