2008/11/16

試写/映画『金糸雀(かなりや)は唄を忘れた』


先の投稿でもご紹介させていただいた映画『金糸雀は唄を忘れた』の監督(+編集・脚本)・赤羽健太郎氏が、我が家までお越しになられ、監督ご持参のPCとHDに収められた映像データを、僕が普段使用している22型ワイド液晶モニターへ送り、本日、ささやかな試写上映会が、近所に住む床絵美(この映画の出演者の一人であり、またその歌声を聞かせている)とその子供達、そしてカミさんも交え、拝見させていただきました。

僕は、スタッフの一人として、この映画制作に積極的に参加しわけではなく、たんなる「楽曲提供者」に過ぎませんので、今はここにやたらなことは書けません。批評、または感想は、この映画を見る鑑賞者一人一人に委ねたいと思います。
が、一言、野暮なことを書かせてもらうならば、もしこの映画をじっくりと味わいたいなら、鑑賞者の心は「静まりかえる」必要があります。しかしこれは、製作者サイドの不躾な要求ではなく、あらゆる芸術、「作品」というものに、触れるための基本的な態度というものでしょう。心が、静まり返らなければ、本来、モノは観えてはこないし、それは、隠された「告白」はしてくれないからです。

この映画『金糸雀(かなりや)は唄を忘れた』は、かなり抑制の効いた「編集」が施されていました。この「抑制」の利かせ方は、監督は30歳ですが、そこに監督の美学、美意識を感じることが出来ます。また、音楽の使い方、これを導入するタイミング、手さばきが、とても上品で、エレガントです。

「金糸雀は唄を忘れた」・・・。カナリアというのは、現代人である僕達を指すメタファーですが、僕達は、一体、「唄(inochi)」を取り戻すことが出来るのだろうか?
ただひとつ言える事は、監督であり人間・赤羽健太郎は、この映画作りの全工程によって、ようやく、あの「唄」を取り戻しつつあるのかもしれません。

2008/11/15

Yuta in Bronx


ユタ♂ at John's Run

最近のテレビ番組、ドラマ、CMなどは、軽はずみに、人間の心情面に訴えかけようとする作風、そんな類の演出または台詞が著しく増えたなあ〜と感じるのは僕だけでしょうか?
「繋がってる」とか、「ぼくがきみを守るから」とか、「(何々)・・・だから」とか、なんだろうね、「信じているから」とか・・・、いちいち言葉にせざるを得なくなったんだろうね。
僕などは、たぶん皆さんご存知なように、ニンゲンの「負の感情」というか、ネガテイブな局面を、その暗がりをかなりこまめに探索してきましたから、この21世紀という「感情の時代」について、・・・・いやまて、ユタについてすこし書こうと思っていたんだ。
ケモノはいいよなあ、自然体で。
余計な言葉、未来の不安というものを持たない完全無欠のシンプルライフ、そう「一張羅(イッチョウラ)」だよね。
僕らはたぶん余計なモノを持ちすぎてしまったのかもしれない。が、いわゆる自給自足生活をはじめるってのもなんだかちがう気がする。その理由は、たぶん長くなりそうなのでここには書きませんが、いま、じぶんの足元、眼前に広がる場所、此処で、つかめない者は、たぶんどこいっても、どんな暮らしぶりに変えても、ほんとうに確かなこと、死の恐怖を蹴飛ばしてしまうくらいの「生の横溢」や銀河即我々体験、もしくは「ん~、世界はマーヤ(幻想)だったのか、でもサイコーさ」などなど、けっして手にすることは出来ないでしょう。犬の姿形をとったユタは、そんなことを僕に言葉ではなしに「態度」で教えてくれました。
この表情、イイでしょう。犬だって、「人間」なんですよ。

2008/11/14

Daguar in Bronx


ダグア ♂ - at John's Run

・・・いちおう、アメリカの闘犬です。かなり強いです。
この「John's Run」という名のドッグランの親分でした。
うしろに見えますのはそのオーナー、アダム。男優ショーン・ペンのような気質の男でした。
写真を整理してたらほいっと出てきたので、気まぐれにアップしてみました。
(木製テーブルの上、タバコ箱の上になぜか(?)置かれたセルラーフォンの形がやや時代を物語っております。)