2011/03/14

想う事

音楽とは、体験するもの。未知を、体験する処。それ以外に、音楽に意味はない。価値はない。
人間にとっての時間や空間に色付けするための、彩を与えるためだけの、娯楽としての音楽に、これを作り続けることに、どんな意味があるというのか。
「音楽」と、音楽のまったくない状態、意味の、不在、あの「沈黙」と呼ばれている時間や空間を越え出てしまった処で体験しうる意識の状態、「沈黙」と、音楽に耳を澄ましている状態とは、突き詰めてしまえば、なんと仲良く、似通い、相伴っているのだろう。

敬愛している音楽家は誰かと問われれば、僕は真っ先にジョン・セバスチャン・バッハと応えますが、バッハの数多の仕事、作品群があり、聴く機会がもてたからこそ、僕の音楽上の実験が許されるのではないか、いや、音楽を作る意味など、その必要性など、そもそも10年以上も前から感じられなくなった僕が、音楽上の実践というある種の愚行をこうして今なお続けているのも、すでにバッハの仕事があるからだと、これは詭弁かもしれない、でも、そのように、この途方も無い人間の、かりそめの、文明生活を続けてゆく、生きながらえてゆくというこの不毛感を、また不毛と感じる僕の感情と思考のからくりを暴露するまで、の、延命行為・・・。

東日本にて、大きな地震があった。僕はその光景を平板なテレビ画面を通してしか見ていない。

僕らの自意識は、すでに地球という生命体の規模を超えてしまったようだ。人の命は地球より重いのだろうか。地球があるからこそ、僕たちが今ここにある、生息しうるという歴然とした事実、あまりにも当たり前の事実は忘れがちだ。
そしてさらに、実際、地球があるから生じたに過ぎない僕たちの自意識、心と名づけられた虚体、個人名、そして恐怖・・・そこから去来する、噴出する歓びや哀しみや・・・、愛とか、憎しみであるとか・・・もし、真に、人命救助を第一に志向する本能が僕たちの内で生き生きと躍動し、自意識や人間の心などを凌駕していたなら、そもそも原発やこの文明の姿は、無かっただろう。貨幣などという抽象物の発案もない。意味や、価値を与えてしまったことも。
また、これまでこの地球上で繰り返されて来た、僕たち人間のみが引き起こす「戦争」という茶番など、宗教など、神などという空想事さえも、瞬く間に消滅していたはずだ。

僕たちは木々のように、そして小鳥たちのように、ただ生まれ、死ぬ。それだけでも、なんと美しい事か。
身体上の本能的恐怖が、絶えず心理的恐怖にまで飛び火し、僕たちの思考や感情、自意識を錯乱させ、膨張させる。恐怖に、実態のない架空の生命を与える。そしてこのからくりを看破しない限り、僕たちの哀しみなど、愛と呼ばれている感情の、想念の動きなど、真実ではないだろう。甚だ個人的な、自意識が呼び覚ました自己愛の変種に過ぎないのだろう。つまり、僕たちはまだ真実を生きていない。もしすでにこれを生きられていたなら、真実という言葉はない。
この地球上で、ほんの短期間、居候させてもらっているだけに過ぎない存在、ちいさくて、眩いばかりの僕たち人間ができることなど、実は、何も無いのだ。そして、この何も無いという直知、直覚だけが、はじめて、たぶん、それぞれが、それぞれの瞬間において、コウベを垂れる瞬間を与えてくれる。地球上で、「本来の人間」の営みの法というものを、教えてくれる。

 

 

1 件のコメント:

lily さんのコメント...

この地球上で、ほんの少し居候させてもらっているに過ぎない存在・・・人間は自分達を絶対的なものにし過ぎているだけで、本来は、極当たり前の自然との付き合い方なのかもしれませんね。forecastききました。結構好きです。