先日、書家・紫花さんから依頼され、彼女のプロフィール用のポートレイトを撮影しました。
2年前の夏、僕は彼女のプロモーションビデオ『書家・紫花/calligrapher Shika』を制作しましたが、レンズ越しに彼女を見詰めるのは、もう久しぶりのことです。故、それなりに緊張しますし、撮影中は極力私的な感情を抑制し、ただただ、彼女の“書”からは見出し難いであろう、またはプロモーションビデオにおいては薄めざる負えなかった田中紫花という人間存在のエスプリを、凛とした、清澄な芳香がふっと溢れ出す瞬間を、待ったのです。
人を撮影するという行為、これは一体どういう意味があるのだろう?
こういった問いは、たぶん写真家として決して手放してはならないような気はしますが、ポートレイト撮影時の現場の醍醐味とは、被写体も撮影者も予期せぬ瞬間が場を拓く「一瞬」にあります。
被写体が、女性であるか、または男性であるとか、こういった身体的文化的コード、その条件付けられた性別観念を超えてしまう、そういった“視”が起こってしまう瞬間・・・、うまい言葉が見つかりませんが、ポートレイト撮影は、風景と向かい合う姿勢、態度では近づけない何か、魅力、作法があります。
「表情」、もしくは種々の「ポーズ」という引き出しをもったフアッションモデル、撮影慣れしたタレント、鏡の好きなナルシスト、俳優さん以外は、まずカメラという冷たい機械を前にして、その無表情なレンズには抵抗感をいだきます。「撮影」という不自然、その滑稽さに耐えられない、これはある意味で正常な反応であり、被写体、人は、柔らかな羞恥心から、なかなか「素」の表情は見せてはくれないものです。そこで、凡庸なカメラマンは、その不自然さを無化しようと、軽はずみな言葉を投げ、被写体の自己愛などを刺激し、乗せ、誘導し・・・、「存在」はますます上辺だけのもの、表面的なものとなります。浮わついた言葉によって現れてくるだろう被写体の顔、表情とは・・・、ああ、僕はまったく興味がもてないですね。
話は変わり、ムービーとスチールのちがい---。ムービーで描ける事とスチールでしか表せない事、これはね、ほんと恐ろしいぐらいあります。ファインダーやレンズを通し、この三次元世界を二次元化して描く、この機能は同一ですが、実際は、まったくの別ジャンルですね。と、当たり前の事実を書いているのですが、どうもこの“事実”について、強烈な自覚を持っている人、視覚を得ている人はあまりいないようです。
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