2009/07/24

MIHO MUSEUM について / Mihoko Koyama

まだニューヨーク生活していた頃、懇意にしていた画家の友人の妹分が、或るとき、分厚い美術館のカタログを僕に見せてくれた。その図録は、日本から送られてきたもので、タイトルは『MIHO MUSEUM』、2巻にわたる豪華な代物で、その内容に触れ、僕はかなり仰天させられました。
カタログには、古今東西の名品、作品群が、これでもか!というぐらい、独特な緊張感をもって網羅され、そのトーンは、熾烈であるとともに、厳密な“眼”の存在を予感させ、こういった美術館カタログと出会うことは非常に稀なこと、「ようやく、日本においても、これほどまで高水準の美術館が誕生したのだ」と、僕は思わず感動してしまい、すぐさまその妹分に「これください!」と叫んでいた。最近、このブログで、美にまつわる話が続いたので、これも流れかなと思い、この『MIHO MUSEUM』という美術館について少し書きます。

この美術館は、滋賀県甲賀、信楽町の山奥にあります。設計者は20世紀のアメリカを代表する(らしい)中国系アメリカ人建築家I.M.ペイ氏、宗教団体「神慈秀明会」の会主・小山美秀子(こやま みほこ、1910年5月15日 - 2003年11月29日)のコレクションを展示するために、1997年11月に開館したようです。つまり、日本人の大好きな新興宗教団体が経営する美術館ということになります。ちょっと胡散臭い背景ですが、今は、そんな事はどうでもよく、ただこの美術館、小山美秀子の眼力、その眼の利かせ方は瞠目に値する、大変なものだと、先に明言しておきます。
長い間、僕もそれなりに美術館巡りはしてきましたが、ほとんどの美術館、世界のどの美術館をのぞいても、良いモノとつまらぬモノが混在する場であり、「あっ!」と驚愕作品の横に平気でどうでもいいような代物が(歴史的には価値があるのでしょうが)ポケーと無造作に陳列されている、これが現状で、鑑賞者としては、その度に肩透かしをくらったような、騙された気持ちになるものなのです。なぜなら、鑑賞中は全感覚がフル稼働だから、「つまらぬ作品は倉庫にでも仕舞っておけよ!」だし、「目を利かせることが館長のシゴトだろ、一体誰がチョイスしやがったんだ」なーんて、わざわざ美術館まで足を運ぶというこちら側の労力、意識について、すでに無感覚になっている美術館サイドの高慢な態度、プロ意識の欠如・・・、それで僕はあまり特別な展示物がない限り、ほとんど美術館には足を向けなくなりました。
数年前、僕は一度だけ、この『MIHO MUSEUM』を訪ねてました。
アクセスがすこしやっかいなのですが、たいへん素敵な所でしたよ。
機会あれば、再び訪れてみたい。
ただし、I.M.ペイ氏の建築はミスチョイスだったと思いますが・・・。(たぶん小山美秀子の指名ではない。であるなら、彼女にとって器はなんでも良かったんでしょうか。たぶん、娘さんの知恵、客寄せです)
『MIHO MUSEUM』は、至極、粒ぞろいの作品群がならび、普段あまり使用していない集中力を引き出してくれます。高次元鑑賞することの出来る、稀有な場となっています。
小山美秀子の、国境に捉われない、文化文明の色彩、特色、様式という表面的な事々に惑わされない審美眼はまったく見事であり、あえて言うなら、超人的であり、その視線はまったく真摯に張り詰めています。彼女には、しばしコレクターが陥るあの感傷の寄り道、作品を自身の感傷の拠り所にすることにより曇らされる眼、心の弱さというものが一切無く、たおやかで、優雅で、厳しく、その選択はほぼ狂いを知らないようです。ゆえ、その姿勢は、逆に“狂気”を孕んでいます。
たとえば、茶器、茶道具にたいする小山の審美眼、これは日本独自の、たいへん高度なまなざしを要求されるものですが、そのコレクションを拝見するに、やはりまったくブレていません。幾つかの平面作品については、「おや?」というものもありますが、それでもこれは全コレクションの一割程度に過ぎません。いずれにせよ、「茶器をめでる」、その隠された、慎み深い姿を前に、厳かに観入し、その内にて遊び、「花」をそっと捕まえるまなざし、特異な精神の動きは、西洋人には不可能だと思いますが、こういった感性を大事に想い、これを保持しようとした民族は、この日本という島国以外に在るのだろうか?否、在っただろうか?話が脱線してますが、僕は、とりあえず日本人なので、これまでのアート史、世界のアートシーンをみるにつけ、ピカソの絵、仕事ほどには、北斎の仕事、肉筆画の凄みがほとんど評価されず、ダ・ヴィンチのようには俵屋宗達の画がまったく認知れていない、この日本が生んだ最大級の天才の仕事が世界ではまったく評価されていない現状が、とても訝しい。
話がまた逸れましたが、あらゆる点において、『MIHO MUSEUM』は個人ミュージアムとしては世界1、2かと思われます。
ただ残念なことに、1点1点の「見せ方」が凡庸、通俗的なので、そこはもっともっとこだわって欲しかった。内館デザインも凡庸であり、それぞれの作品に見合った状況、「フレーム」は作り得ていません。照明、光の当て方、まわし方も甘いような気がする。別に奇抜なことをやれ、個性的たれ、というのではなく、粋を極めて欲しかったのです。それほどまでに、彼女の収集した作品は恐るべき作品、ブツであった、ということです。
「美に触れる」というのは、ある種感覚が開放された状態にあるから、“すべて”視えてしまうわけです。ちょっとした手抜きや優等生的身振りが巨大に感じられてしまうものなのです。
事実、あれほどまで優れたコレクションの数々を一つの場所で一気に鑑賞できるのは、実際、奇跡的なことです。
自然が絶えず美しいのは当たり前。では芸術とは、作品鑑賞とは、“人間”の仕事の美しさに触れるための唯一の機会ではないでしょうか。これは“無限”に触れることでもあり、鑑賞者一人一人の存在の深層、中心に座す“美”に触れることでもあるのです。
しかしながら、『MIHO MUSEUM』とは、神慈秀明会の信者のお布施を湯水のごとく使っての建設であり(たぶん)、眩暈がするような莫大な金をばらまき購入したコレクションの数々であることには違いありません。これについては、ある種複雑な気持ちになりますが、信者の方々は一体どのように感じているのでしょう? たとえば、「皆さんのお布施によってダ・ヴィンチの最後の晩餐を購入することができました」であるなら、きっと皆様は納得、満足することができるのでしょう。が、・・・難しい問題です。小山美秀子のコレクションは、超玄人の眼差しによって厳選され、収集されたものですから、信者の方々はまったくの“個人の眼”、“孤の眼差し”を取り戻し、これに触れるしかありません。彼女が見抜いた「美」とは、そうやって捕まえることしかできないからです。あの世が、さらさら見え隠れするような、あの艶やかな「美」のふくらみは・・・。

もちろん、宗教団体は僕とって無縁の場所ですが、『MIHO MUSEUM』は神慈秀明会という宗教法人がスポンサーであり、信者さんがこつこつとお布施をしてきたゆえの成立・・・が、国立西洋美術館、上野の森美術館、東京都美術館、ジブリ美術館、等々、「そんな器と内容じゃあどうしょうもねえだろ」という本音もあり・・・、難しいです。
本来は、国が、日本人の眼力の特殊性、強い日差しには弱い青い眼、そのような目の質、眼力では見逃してしまうであろう美への眼の利かせ方、妙意妙味を、美術館というカタチにより、それこそルーヴル美術館じゃないけれど、世界を「あ!あ!あ!」と3度ぐらい唸らせるほどの、他国から人々が「日本のあの美術館を見るためだけに来ました」と嘆息させる内容をもった美術館を作らなければと思います。
・・・が、この日本には、“サイコー美術館”は、そもそも必要ないのかもしれません。僕は、たまたま、こっちの世界、美の世界に裸足で踏み込み、魅了され来ましたから、このような文章を書いていますが、名画または名作、優れた作品に触れること、鑑賞すること、もしくは創作することなど、実は本来の人間の最終“目的”ではないのではないか。宗教と芸術、その他、諸々の人間の営みは、すべて、真剣な、余技に過ぎないのではないか。ちょっと誤解を生む、最後に混乱させてしまうような発言ですが、先ほども類することは書きました、宗教や芸術とは、“方便”であり“きっかけ”に過ぎないのではないか、そしてこの生は、夢のまた夢・・・。
最近とみに、そう感じるのです。


すべて消え往く、それは
よし、、。?ここ

ナニガノコルカ・・・




#3 (370×555mm)
photo by Takeshi Kainuma 
 
 
 
 
 

2009/07/22

美の人、坂川栄治 / Eiji Sakagawa

坂川栄治という人を知っていますか?
出版にたずさわっている方なら誰もが「はっ!」ですが、一般的には「む?」かもしれませんね。僕も数年前までは「だれ?」でした。
坂川栄治とは、日本を代表する(って言い方も説得力ありませんが)装丁家の一人、現行スターであります。つまり誰もがすでに彼の手がけた仕事、装丁した本は眼にしているはず。
装丁、ブックデザイン以外にも、彼は写真についての著作『写真生活』(晶文社)や、照明や手紙の有り様についての本、小説なども出しております。アートデイレクターであり、かつては写真ギャラリーを経営し、また映画や絵本の批評文、紀行文、等々と、その感覚の射程はかなり広範囲、多義にわたっています。僕も一度だけ、このブログに掲載しましたが、新井満の『良寛』(世界文化社)にて、ご一緒に仕事をさせていただきました。
坂川さんの事務所は、南麻布の奥まった物静かな場所にあるのですが、知人の紹介でアポを取り付けひとり訪ねていったのは昨年のこと。西洋風の、清楚な、築数十年ぐらい経つ二階建ての一軒家。たぶん、あのあたりは大使館が多いから、かつてどこかの小偉い大使が「日本家屋には住まん!」などと駄々を捏ね、作らせた住居を坂川さんが見つけ、「ここを事務所にしーよ、お」と、その創作の現場にしたんだと思います。それでその室内模様は・・・(ここここを参照)。
室内というのは、ひそか主(あるじ)の趣味というか心模様を、内的な風景というものをあらわしてしまいますが、はじめて、彼の事務所をお邪魔したときの興奮、というか柔らかなショックは今も忘れられない。
壁という壁、一面に写真や版画が飾られている。(ここは写真ギャラリーか?)。長距離列車の座席のようなちいさな待合室には世界中の数多の写真集がずらりその分厚い背表紙を見せている。
アメリカ暮らしを後にし、再び日本で生活をはじめ、ひさしく味わっていなかった匂いや光景が「むん」と僕の五感に侵入し、なんとも言えない至福のひと時を、その事務所内部は演出していたのです。
「いやるなー。いやらしいなー」と僕の半分は不良少年モードに入り、もう片方は、「こういう審美眼をもった人がまだ日本に居るんだ。業界におるんだ!」という、正直、ホットした気持ち、・・・。
坂川栄治とは、正真正銘、美の人ではないのかと、僕は観じる。
美について、これを享受することにおいて、あれほどまで貪欲な人を僕はあまり知らない。
センスがあるとか無いとか、「洒落たご趣味ですね」なんて褒め言葉、そのような形容詞は、美の人にはまったく通用しない。彼は、政治思想とは無縁な古典的アナーキストであり、経済的なバランス感覚を修得したリアリストでもある。
戦国の千利休とは、またベクトルのちがう個性をもった“目利き”の一人ではないかと思う。
現代のような洟垂れカルチャーが横行する時代相上において、うつくしいモノやコトについてあれほどまで貪欲でいられること、商業ベースの待った無し!の仕事を真摯に、軽やかににこなし、“ディレッタント”としても在ることは、至難の技ではないだろうか? いわゆる、お金持ちが堂々と趣味の悪さを爆発させるこの時代に、「審美眼ってナニ?」と、美について日本人が(ついでに現代アーチストまでもが)これほどまで感受力を低下させてしまった時代に。投資目的で絵画を買う?ふざけるんじゃありませんよ。貴方の、まだ見ぬ精神の絶頂のために買ってくださいよ。
もちろん、坂川さんは芸術家ではないから、美のため、芸のために破綻することはないのでしょう。美のために破綻する?芸術家でない者が、美のために破綻するようでは人格的に弱い、脆弱だと僕はかんがえる。田中一光、白洲正子亡き後、風雅なる人、坂川さんはそんなトーンがよく似合う人だ。では、彼の孤独はどこにあるのか?熊のプーさんのような外貌で、他人を思い切り油断させつつ、そのちいさな眼の奥は、いつも煌々と野生の輝きを放っている。なぜ、彼はあれほどまで無邪気に、スキップしながら「横断」しようとするのか?
その秘密は、たぶん彼が書いた私小説『遠別少年』の行間に散りばめられていることだろう。僕はまだ読んでませんが・・・。たぶんそこには、美とは、汲み取る技術であり、やさしさであり、ニンゲンが、心静めることによって生まれる精神の妙法、自我(エゴ)、自意識を少々遠慮することにより現れる謙譲の舞台、その舞台上での開放の儀、不変エクスタシーの予感ではないのかと、爽やかに告げられていることでしょう。

「美即我・(唯我独尊)」

坂川さんは誰よりもそのことをうまく知悉しているだけなのかもしれません。


酒に注いだ水のように
寄り添うて一つに溶けた我と汝
汝に触れるもの悉くまた我にも触れる
境目をなくした我と汝


ハッラージ (西暦922年没)
井筒俊彦『イスラーム思想史』(中公文庫、1991年)より
 
 
 
 

2009/07/20

額装ディレクターの誕生 / Akihiro Nakamura

絵画にとっての「額装」、その由来というか来歴について、僕はあまり定かではありませんが、「額職人」という職業が歴史上初めて登場した国は、たぶんフランスかイタリア辺りだったのでしょうか。

写真という表現媒体が、印刷物や個人宅から離れ、アートギャラリーや美術館に展示されるようになったのは前世紀、1950~60年代からだと思います。
が、当時の写真愛好家または関係者が、1枚の写真がオークションにかけられ1千万円近くの高値で落札される時代が来るとは夢にも思わなかったことでしょう。
写真の価値をいかに高めるか?
これは写真家サイドの発想ではなく、当時のアート・デイーラーやギャラリスト、美術関係者たちのアイデア、手法の功績でしょう。1点ものの絵画、数点ものの版画(版が駄目になるまで)、何枚でも複製可能な写真・・・、では写真プリントの価値を高めるためにはどんな夢を付与する必要があろうか?
版画のエデイション機能を模倣する。
オリジナルプリントと命名し、「写真家みずからが焼いた写真」と「プリンター(ラボ)が焼いた写真」との差別化を図り、さらに「いや、素材は写真、印画紙だけれど、現代美術として扱う」・・・。
これらは、商売上の工夫であり、言わば、いかがわしいトリックでもありますが、写真家の仕事を「真摯に見ていただきたい」であり、「写真家の仕事、作品も、絵描きや版画家に劣らず、注目に値するもの」を社会化、一般化せんとした努力の賜物かもしれません。

写真が、印刷物や個人宅から独立し、ギャラリーや美術館に展示されるようになり、これまで、様々な写真の見せ方、展示法が模索されてきました。特に1960~70年代は、写真を裸のままピン止めだけするものや、大判のプリント、絵画でも版画でもない写真専用のフレームの研究、シンプルで機能的、直射日光や紫外線をきらう写真の保護を十分かんがえたフレーム、等々・・・。
では、「現代写真」の額装についての思考・嗜好、その動向は?
特に名画と呼ばれている絵画作品の装飾的な額装、その意匠から逃れるべく、アート否定の身振りをさりげなく主張しようとするスタイルが主、クールであり、マッティングやフレームを拒絶し、写真をそのまま「アクリル密着」するだけというシンプルなものが主です。が、これは単に1960~70年代のピン止め写真のバージョンアップ、最新技術に寄り添った振る舞いに過ぎません。

本来「ただ写真を見ればよい。作品を味わえばよい」だけですが、どうもこれが難しい。
ですから、写真の額縁とは、ある一人の鑑賞者へ向け、一枚の写真を見つめてもらうための、ある種の視覚体験に臨んでいただく為の舞台装置に過ぎません。故、慎重に、丁寧に、額装者はこれに気を配る必要があります。

マルセル・デュシャンやヨーゼフ・ボイスの仕事は、見る側に様々の言葉と思考を促す、誘発する類いの作品なので、美術批評家などに愛されますが、絵画でも版画でも写真でも、「美は人を沈黙させる」という言葉を、時代はどこかに置き忘れてしまったようです。
美術批評家、美について書く、アートについて所見を述べるとは、本来、誰よりも正確に、その作品に触れ、言葉もしくは思考の臨界点へと赴き、そこで強烈な沈黙を強いられ、さらにその不可思議な沈黙に耐えつつも、あえて語ろうとする知覚のスペシャリスト、すさまじい耐力、精神の持ち主、もしくは愛の所有者だと思います。

最近、僕はある「額装ディレクター」との知遇を得ました。
彼は額職人ではありませんが、写真、絵画、版画などの作品を手にし、彼の全感覚、直覚によってその作品を理解し、あの不可思議な沈黙を守りつつも、作品が希求したフレーム、さらに言うなら作品にとって必要な「状況」をデレクションするという高度な技を生まれつき所有している方です。

下記の写真は、その1点ですが、この複写、スタジオではなく自宅にて簡単に撮影されたものなので、現物、額装のうつくしさ、重量感、等々がまるで伝えられておりません。
 (中村氏、大変申し訳ない。)



写真:海沼武史
photo by Takeshi Kainuma
額装ディレクター:中村明博
frame director by Akihiro Nakamura

額サイズ:539型 780x609インチ
・パウダーカラー 3mmマット ブック式
・調湿紙
・無反射ガラス、等々

2009/07/07

写真家・清野賀子の死 / Yoshiko Seino


写真:清野賀子
photo by Yoshiko Seino



先日、知人が画廊をひらいたという案内状をいただき、茅場町まで足をのばした。
その際、その知人から写真家・清野賀子(せいのよしこ)が自殺したことを知らされた。
ぼくは、清野さんとは一度も面識なく、たんに数年前に彼女のファースト写真集『THE SIGN OF LIFE』を六本木の書店にて見かけただけという、緩い、一方的な関係だったが、「・・・ドイツの新しい風景写真の流れ、影響を受けている。でも、なかなか誠実な仕事、美しい中性的な人だな」という感想だけは持っていた。
だが、同じ職に就く者にとって他人の仕事などはしょせん人事で、「さあ、この後、どこへ往くのさ?」と、すでに彼女が赴いた意識の場所、<風景>を見てきた自分にとっては、彼女の仕事はさほど斬新なものではなく、「これからが大変なのさ」と、ただただ先輩面した想いだけが不遜にもぼくの中から生まれて来ていた。
新しく画廊のオーナーとなった知人は、清野賀子さんとは「ウツ友達だったの」と漏らした。「今まであんな泣いたことは無かったよ」と続けた。
ぼくは、なぜかその時、まったく面識の無い清野賀子をとても身近に感じ、その知人に対してかなり饒舌になってしまった。
それで思わず、画廊の棚にそっと、さりげなく置かれた清野賀子の写真集『THE SIGN OF LIFE』を手にしていた。なにかを確かめようと、もう一度、眼を通していた。

ひとりの写真家が自殺した理由を、他の写真家が問うことは無意味なこと、言葉なしの挨拶を交わすこと、送ることしか許されていないだろう。
そして、写真集『THE SIGN OF LIFE』が残された。
直訳すれば、「命の徴(しるし)」。
彼女ならたぶんこう呟くかも知れない。
「これが、わたしの見て来た風景、光景・・・わたしが求めてきた。ようやくここまで来て、来ル事ガデキテ、見ツケタノサ、コレガ、“命の徴”ナンダ」と。
清野さんが赴いた場所、たどり着いた所は、明るくも、暗くもなかった。そして、楽しくもなければ、悲しみもなかったはず。しかしそんな事態に耐え切れずに、彼女はその風景に言葉を紡ぎ、物語を纏わせることもできただろう。写真家が、特に男の写真家がふっとやらかすあの「懐かしい」という感情を誘発させる視点へと、情景へと逃げ込むことも容易かったと思う。が、彼女の誠実さ、真摯が、これを許さなかった。
まるで、絶筆となったゴッホの最期の作品「カラスのいる麦畑」のようなトーンを秘めた<風景>の場所、意識の縁にまで、彼女はとつとつと赴き、粋がって「サイン・オブ・ライフ・・・」などと口ずさみ、(かっこ良すぎるんだね)、「ほら、存在についての写真集、ね」と世に問うてみたが、さほど話題にならず、その数年後、みずから果てた。
いや、厳密に言えば、2008年に「a good day, good time」というタイトルで微妙にその位相を変えようとする写真展を開いたが、たぶん、こういった延命法、もしくは情感がはしゃぎだそうとする写真は許せなかったのだろう。彼女にとって「リアル」ではなかったのかも知れない。ただただ生きようとする、見極めようとする彼女にとっては、自身の存在を放れるほどの光景ではなかったのか。
やがて清野賀子は「写真家として死ぬ」ことだけを、ひとり静かに選んでいた。

清野賀子さん、ご冥福を祈る。