2009/07/22

美の人、坂川栄治 / Eiji Sakagawa

坂川栄治という人を知っていますか?
出版にたずさわっている方なら誰もが「はっ!」ですが、一般的には「む?」かもしれませんね。僕も数年前までは「だれ?」でした。
坂川栄治とは、日本を代表する(って言い方も説得力ありませんが)装丁家の一人、現行スターであります。つまり誰もがすでに彼の手がけた仕事、装丁した本は眼にしているはず。
装丁、ブックデザイン以外にも、彼は写真についての著作『写真生活』(晶文社)や、照明や手紙の有り様についての本、小説なども出しております。アートデイレクターであり、かつては写真ギャラリーを経営し、また映画や絵本の批評文、紀行文、等々と、その感覚の射程はかなり広範囲、多義にわたっています。僕も一度だけ、このブログに掲載しましたが、新井満の『良寛』(世界文化社)にて、ご一緒に仕事をさせていただきました。
坂川さんの事務所は、南麻布の奥まった物静かな場所にあるのですが、知人の紹介でアポを取り付けひとり訪ねていったのは昨年のこと。西洋風の、清楚な、築数十年ぐらい経つ二階建ての一軒家。たぶん、あのあたりは大使館が多いから、かつてどこかの小偉い大使が「日本家屋には住まん!」などと駄々を捏ね、作らせた住居を坂川さんが見つけ、「ここを事務所にしーよ、お」と、その創作の現場にしたんだと思います。それでその室内模様は・・・(ここここを参照)。
室内というのは、ひそか主(あるじ)の趣味というか心模様を、内的な風景というものをあらわしてしまいますが、はじめて、彼の事務所をお邪魔したときの興奮、というか柔らかなショックは今も忘れられない。
壁という壁、一面に写真や版画が飾られている。(ここは写真ギャラリーか?)。長距離列車の座席のようなちいさな待合室には世界中の数多の写真集がずらりその分厚い背表紙を見せている。
アメリカ暮らしを後にし、再び日本で生活をはじめ、ひさしく味わっていなかった匂いや光景が「むん」と僕の五感に侵入し、なんとも言えない至福のひと時を、その事務所内部は演出していたのです。
「いやるなー。いやらしいなー」と僕の半分は不良少年モードに入り、もう片方は、「こういう審美眼をもった人がまだ日本に居るんだ。業界におるんだ!」という、正直、ホットした気持ち、・・・。
坂川栄治とは、正真正銘、美の人ではないのかと、僕は観じる。
美について、これを享受することにおいて、あれほどまで貪欲な人を僕はあまり知らない。
センスがあるとか無いとか、「洒落たご趣味ですね」なんて褒め言葉、そのような形容詞は、美の人にはまったく通用しない。彼は、政治思想とは無縁な古典的アナーキストであり、経済的なバランス感覚を修得したリアリストでもある。
戦国の千利休とは、またベクトルのちがう個性をもった“目利き”の一人ではないかと思う。
現代のような洟垂れカルチャーが横行する時代相上において、うつくしいモノやコトについてあれほどまで貪欲でいられること、商業ベースの待った無し!の仕事を真摯に、軽やかににこなし、“ディレッタント”としても在ることは、至難の技ではないだろうか? いわゆる、お金持ちが堂々と趣味の悪さを爆発させるこの時代に、「審美眼ってナニ?」と、美について日本人が(ついでに現代アーチストまでもが)これほどまで感受力を低下させてしまった時代に。投資目的で絵画を買う?ふざけるんじゃありませんよ。貴方の、まだ見ぬ精神の絶頂のために買ってくださいよ。
もちろん、坂川さんは芸術家ではないから、美のため、芸のために破綻することはないのでしょう。美のために破綻する?芸術家でない者が、美のために破綻するようでは人格的に弱い、脆弱だと僕はかんがえる。田中一光、白洲正子亡き後、風雅なる人、坂川さんはそんなトーンがよく似合う人だ。では、彼の孤独はどこにあるのか?熊のプーさんのような外貌で、他人を思い切り油断させつつ、そのちいさな眼の奥は、いつも煌々と野生の輝きを放っている。なぜ、彼はあれほどまで無邪気に、スキップしながら「横断」しようとするのか?
その秘密は、たぶん彼が書いた私小説『遠別少年』の行間に散りばめられていることだろう。僕はまだ読んでませんが・・・。たぶんそこには、美とは、汲み取る技術であり、やさしさであり、ニンゲンが、心静めることによって生まれる精神の妙法、自我(エゴ)、自意識を少々遠慮することにより現れる謙譲の舞台、その舞台上での開放の儀、不変エクスタシーの予感ではないのかと、爽やかに告げられていることでしょう。

「美即我・(唯我独尊)」

坂川さんは誰よりもそのことをうまく知悉しているだけなのかもしれません。


酒に注いだ水のように
寄り添うて一つに溶けた我と汝
汝に触れるもの悉くまた我にも触れる
境目をなくした我と汝


ハッラージ (西暦922年没)
井筒俊彦『イスラーム思想史』(中公文庫、1991年)より

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