2010/03/30

余白の折り目 / sweetest route




(ちょっと小話ー。)

〈写真の世界〉に在籍している、写真界に職を置くものにとって、ロラン・バルトの『明るい部屋』、ゲルハルト・リヒターの『写真論/絵画論』、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』、これらの著作は、写真について語られた、論考された、非常に代表的な、お馴染み3点テキストですが、実は、あまり大したことは描かれていないんですね。もちろん、《写真》に携わっている方、またはこれから係わろうとしている方々にとっては必読の書、だとは思いますが、《写真》そのものに近づくためのルート、これは、難事と言ったら難事だし、いや、単純と言ったらほんと単純な事なんですが、どうも彼等には描き切れなかったようです(ある種の人々は自身の視覚の密度、その射程範囲の限度を補うためについつい複雑に考える、言葉による思考を利用することを好む、そしてますます《写真》から遠ざかる)。
では、他人の表現をとやかく言う前に、僕がその《写真》そのものに近づくためのルートを示せ、という事になるのですが、「野暮だな」と知りつつ、僕はこのブログにおいて“間接話法”により、いや、間接話法に頼るしか実の処ないんですが、ずっと描き続けていたのですね…(誰もやらないから)。「写真へのルートだと?だからなんなんだ!」と言われたら、まさしく、だからなんてーことはない、でも、気づきませんでした?

 

 

2010/03/27

ゴダールの岸辺にて / on the JLG bank



意外に感じられるかも知れませんが、今回アップさせてもらった「映画」は、ジャン=リュック・ゴダールの『時間の闇の中で』という作品です。
彼の作品は、よく「難解」と言われていますが、通常の、たとえばハリウッド映画などの映画鑑賞法をそこに求めずに、彼が作り出す、生み出す、編み上げる映像と音の世界に注視し、謙虚に、おごそかに参入する技さえ見い出せれば、実に気持ち良い、強烈な作品を作り続けている作家の一人なんですね。
もちろん、以前このブログに書いたように、僕は「映画」というものをほとんど見なくなったので、今回アップしたゴダールの作品は、たまたまyouTubeにて見つけたもの、それで、久方ぶりに「グッドくるぜよ!」ってなもんで、今回、唐突にご紹介させてもらいました。(ちょっと泣けてくる作品ですよ。)

ゴダール映画について、作家・JLG氏について書くことは、机上で遊ぶことを好む人々が散々やらかしておりますから、別に僕がここで無闇に言葉を費やす必要は感じませんが、ただ彼らの論述はほぼ自己満足のぬかるみにはまり込み(つまり“整理”し、解説しているだけ)、ジャン=リュック・ゴダールという映像作家を思い切り新鮮な土壌に連れ出してしまおうという、ニンゲンとの付き合い、個人と交遊する上で、なにかを理解、交感しようとする際に忘れてはならぬ「至上のやさしさ」、もしくは論者としての恋の企み、恋するゆえの「企み」がほぼ欠如していますね。
I always think it necessary.
この言葉は、上記の作品の冒頭で、暗闇の内にある男に指示した台詞なんですが、、、。

ゴダールの他、僕はイランの映像作家アッバス・キアロスタミの仕事も好きな方でしたが、もちろん、好き嫌いで作品・仕事のレベルを判断している訳ではなく、ゴダールやキアロスタミが不在の20世紀の映画界なんて実際、考えられない、ほんとツマラナイと思う。

ゴダールの岸辺にて
そこから、(かなり困難です)
旅に出ようとする者は、一体
誰?

『ライフライン』ビクトル・エリセ(2002年)

2010/03/24

海沼武史 写真作品展 / Takeshi Kainuma Exhibition


海沼武史展 『雅楽山禮図 / GarakuSanraiZu』
期間:2010年4月2日(金)~4月30日(金)
場所:珈琲自家焙煎の店『ふじだな』
時間:10時~18時(最終17時)  定休 / 水・木 臨時休業20日

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日頃から、懇意にさせてもらっている珈琲自家焙煎の店『ふじだな』にて、写真展を開催いたします。
この、高尾の山々に囲まれたちいさなお店に写真を飾らせてもらうのは、これで3度目となります。
額装および写真のキューレイトは、以前このブログでもご紹介した中村明博、故、このショーは、僕にとっては都心のコマーシャルギャラリーでやるのと何ら変わらない展示であり、重要事であります。
気分転換に、高尾の観光がてら、どうぞ立ち寄ってみてくださいね。


2010/03/21

鹿の肉を食べたさ。/ the night of the deer

昨夜は、風が強かった。

下倉夫妻(アゲと絵美)に呼ばれ、かれらの家の前で、鹿の肉を食べた。
舗装されてはいない、土の、柔らかな温もりのうえで、火の番をするのは男の仕事、アゲが「ナマで食べられるんだけどさ、両面をさっと焼いて・・・」と、北海道を駆け巡っていた野生の鹿の肉を焼いてくれた。
夜の、懐かしい暗がりを壊さぬようにと、抑えられた蝋燭の明かりの輪の内側で、「どんどん食べて、、、わさび醤油が合うんだよ」。
たしかに、わさび醤油との相性はバツグンだった。
そして絵美は、アルコールをやらない僕に、アイヌのシケレベ茶を煎れてくれた。彼女が煎れたお茶を、すこし甘味のあるシケレベのお湯割りを、僕はなぜか肌身で味わっている(?)、そんな感覚に揺られながら、言葉にならないイメージの侵入に、いつもすこしだけ不安にさせられた。
キャンプ用のテーブルの上には、カミさんの作ったベーグルや、畑で採れた野菜、絵美のおにぎり等々が並んでいたが、僕はガツガツと、鹿の肉だけを食べていた。
山に住み、どんな呼吸で、どうやって走り抜け、なにを見、感じながら、いつ、殺されたのか?
いにしえの人が、特別の、儀式の日にだけ、動物の肉を有り難くいただく、いただこうとした気持ちの動きが僕の中に入って「今夜は、野菜とかベーグルなど食べてはいけない!」などと豪語すれば、アイヌの歌い手・絵美は、いい感じに焼けた蓮根を目前で揺らし「えーっ、蓮根も食べなきゃ。見通しが良くならないよ~」と、日本の正月ではよく耳にする言葉を無邪気に放つ。

人間の世界では、土着だのブルースなどと、やや草臥れた心達のいろはにほへと、そういったテイストに対する愛着というか、そんな所にみょうなリアリテイーを感じてしまうムードはあるが、本物の土着、本当の野生とは、実はかぎりなく清潔で、ピュアで、純度の高い生活、混じりけの無い、全身に風をはらんだ、情念などという人間界のお伽噺が入り込む余地の無い、清浄な姿ではなかったかと、たぶん半月ほど前には北海道の荒野をびゅんびゅん走り回り、跳ね回っていたはずの鹿が、その肉が、僕の身体の内へと潜り込み、生命の、あの生暖かい音楽が全身に広がって、あるメッセージを、原野のイメージと供に残していった。

風の強い夜だった。
四方八方から、遠くの方で、それぞれの渦の巻き方で遊び、そのダンスを、声を、静かな樹々たちとの協奏で知らせ、唐突に、思いのまま僕たちの元へ、なんの合図もせずにやって来ていた。
下倉夫妻は、意図せず、いや、風のように、鹿が、大地があるからそこを走り回るように、なんら意図を持たなかったからこそ、たぶん、僕とカミさんに、未知の、原初の領域を拓いてくれたのだった。

夜だった。

2010/03/13

八人の王が眠りに就く処 / in the dream of the Creator


最近、不愉快なことがつづき、なかなか思うように仕事のペースが掴めず、右往左往していたところ、ちょっと気まぐれにGoogleで「マイルス・デイビス語録」と検索したら、彼の言葉が幾つか紹介されていた。

「ミュージシャンは変わるさ。変わるだけのイマジネーションが無いヤツは、本当の意味のミュージシャンじゃないね。」

素敵な発言ですね。
でも、これはミュージシャンだけに当てはまる言葉ではなく、画家、フォトグラファー等々のあらゆる表現者にとっては自明の理、・・・否、もしかしたら、この世を生きるすべての人間に求められた、普通に自身に課さなければ「ツマラナイ!」、倫理的態度ではないでしょうか。

「オレは過去にやってもうすっかり分かってしまった事は、2度とやらない。」

僕は40歳を過ぎた辺りから、ほとんど「映画」というものを見なくなったのですが、テレビも見ない、小説も読まない、人様のCDも買わない、聞かない、年を追うごとに益々この兆候は著しく、徹底しモノに成ってきて、時にその理由を訊ねられると、「つまらないから」と応えていますが、このような態度、感慨は傲慢でしょうか?でも、過去に散々感覚のすべてを這わせてきた事々、分かってしまったことの内へ、また繰り返し戻ってゆくことほど退屈で、不毛なことは無いと思う。

ある人は、僕に、おなじことを繰り返せ、と言う。なぜなら、分かりやすいから。前例のないモノや事は、まず評価されないよ、と。
そして人は、楽しみたいと言う。でも、「それ以上、どう楽しみたいのさ?どれほど楽しんだら気が済むのよ?」
人は、物事の本質や意識の極限に向こうことなどまるで興味なく、快適で、凡庸なイメージの連鎖、単純な思考内に収まる安穏としたイメージの領内、夢見心地、その繰り返しの内で満足するものなのよ、なぜなら、安心できるじゃない?むずかしい表現と付き合っている余裕はないんだよ、みんな忙しいんだからさ・・・と。
ヨユウ?
イソガシイ?
まるで貴族のような享楽、ゴラクぶりを手にした僕らのこの21世紀の暮らしぶり・・・、あ、誰もが個人名をぶら下げて自己主張可能なこの時代に??

インタビュアー「あなたの音楽とは?」
マイルス・デイビス「統制された自由」


顔のない創造主の夢の内外で、教義しらずの佛サマの掌で、物事の本質だの、極限への指向・嗜好性なんか、別段新しくも何ともない狩人の祈りに過ぎないが・・・。

春だというのに、僕はなんだかとても哀しいのだ。

 

 

2010/03/07

堀内幹の「祈り」 / the Prayer of Kan Horiuchi



年始から、堀内幹(ほりうちかん)のソロCD制作のお手伝いをし、こちらの方でもすこしご案内させてもらいましたが、今回アップした動画は、じつは、マスタリング・エンジニアに渡すための音源の最終微調整をしていた昨夜、突如、このブログをご覧になっている皆様方に堀内幹の「祈り」というスタジオ音源をいち早く、ぜひ聴いていただきたい!と、いつものように熱病発作は起こり、それですぐさま彼の了解をえ、最初は24bit48kHzの音源をMP3ファイルに変換した“音”だけを載せるつもりでしたが、音楽のみをこのブログ・ページ貼り付ける方法がよく分からず、ならば「Windows Media Playerに読み込んで・・・」のはずが、アルバム『one』の宣伝にもなればと、ちょこっと撮りためてあった映像などを付けてみました。ですが、基本的には、音だけ、音楽だけに意識をこらし、聴いてみてくださいね。(「祈り」は本来6分15秒の曲ですが、動画の方は4分03秒、つまり途中でフェードアウトしています。)
たぶん、現在の日本のミュージックシーンにおいて(なんてもんがあるの?)、堀内幹というミュージシャンは、もっとも真摯で、凄まじい熱気をはらんだ方だと、僕は思っています。

2010/03/04

雅楽山禮図-2 / GarakuSanraiZu


身体が疲れていると、どこにも、余計な観念が入り込む隙は無かった。
日中の仕事において、気を張り、さまざまな神経があらゆる予測できぬシーンに対応し、この自意識が無駄な思考、雑念を呼び寄せる場を持たない日には、僕はフォトグラファーとしてではなく、一個の独特な存在として、(どう表現したら良いだろう)、生きた。
長年の繰り返しによってインプットされた習慣、もしくは本能に近い行為となってしまったか、定かでないが、僕はこの半年間、一個の独特な存在として、ただただシャッターを切り続けていた。
ほって置けば、知らず知らずの内に、誰もが自己憐憫の揺り籠に乗せられてしまうこの時代に、あざとい甘口のトリックを見破ってしまえば、「死」という現象は、なんと懐かしい匂いがする、「生」の孤児のように、夢のような彩りを与えてくれるのか・・・僕の内へ。
今日、マックで、昼休みにカフェラテを飲んだ。
僕が媚を売らなくても、あらゆる映像が、宣伝が、情報が、イメージが、表面的な明るさでもって(その内側は真っ暗で何も無いが・・・)、人々を勧誘しているのだから、その気にさせ、振り回してくれるのだから、僕が同じような手法でもって、俗俗させる事を、浮ついた夢を捏造しなくても、良いだろう? 
どこにも連れ出してはくれない夢、ただ呆然と、椅子に座り指を咥え、次は何を与えてくれるのか、ただ待ち続けるだけの心では、本来、「夢」は見破れない。
だから僕はあの夢を横切って、どこよりも、なによりも、あかるい極限に身を任せたいと思ったのだ。なぜなら、それが古の、生来の人間の状態、在り様だからだ。