2010/03/04
雅楽山禮図-2 / GarakuSanraiZu
身体が疲れていると、どこにも、余計な観念が入り込む隙は無かった。
日中の仕事において、気を張り、さまざまな神経があらゆる予測できぬシーンに対応し、この自意識が無駄な思考、雑念を呼び寄せる場を持たない日には、僕はフォトグラファーとしてではなく、一個の独特な存在として、(どう表現したら良いだろう)、生きた。
長年の繰り返しによってインプットされた習慣、もしくは本能に近い行為となってしまったか、定かでないが、僕はこの半年間、一個の独特な存在として、ただただシャッターを切り続けていた。
ほって置けば、知らず知らずの内に、誰もが自己憐憫の揺り籠に乗せられてしまうこの時代に、あざとい甘口のトリックを見破ってしまえば、「死」という現象は、なんと懐かしい匂いがする、「生」の孤児のように、夢のような彩りを与えてくれるのか・・・僕の内へ。
今日、マックで、昼休みにカフェラテを飲んだ。
僕が媚を売らなくても、あらゆる映像が、宣伝が、情報が、イメージが、表面的な明るさでもって(その内側は真っ暗で何も無いが・・・)、人々を勧誘しているのだから、その気にさせ、振り回してくれるのだから、僕が同じような手法でもって、俗俗させる事を、浮ついた夢を捏造しなくても、良いだろう?
どこにも連れ出してはくれない夢、ただ呆然と、椅子に座り指を咥え、次は何を与えてくれるのか、ただ待ち続けるだけの心では、本来、「夢」は見破れない。
だから僕はあの夢を横切って、どこよりも、なによりも、あかるい極限に身を任せたいと思ったのだ。なぜなら、それが古の、生来の人間の状態、在り様だからだ。
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