2010/03/21

鹿の肉を食べたさ。/ the night of the deer

昨夜は、風が強かった。

下倉夫妻(アゲと絵美)に呼ばれ、かれらの家の前で、鹿の肉を食べた。
舗装されてはいない、土の、柔らかな温もりのうえで、火の番をするのは男の仕事、アゲが「ナマで食べられるんだけどさ、両面をさっと焼いて・・・」と、北海道を駆け巡っていた野生の鹿の肉を焼いてくれた。
夜の、懐かしい暗がりを壊さぬようにと、抑えられた蝋燭の明かりの輪の内側で、「どんどん食べて、、、わさび醤油が合うんだよ」。
たしかに、わさび醤油との相性はバツグンだった。
そして絵美は、アルコールをやらない僕に、アイヌのシケレベ茶を煎れてくれた。彼女が煎れたお茶を、すこし甘味のあるシケレベのお湯割りを、僕はなぜか肌身で味わっている(?)、そんな感覚に揺られながら、言葉にならないイメージの侵入に、いつもすこしだけ不安にさせられた。
キャンプ用のテーブルの上には、カミさんの作ったベーグルや、畑で採れた野菜、絵美のおにぎり等々が並んでいたが、僕はガツガツと、鹿の肉だけを食べていた。
山に住み、どんな呼吸で、どうやって走り抜け、なにを見、感じながら、いつ、殺されたのか?
いにしえの人が、特別の、儀式の日にだけ、動物の肉を有り難くいただく、いただこうとした気持ちの動きが僕の中に入って「今夜は、野菜とかベーグルなど食べてはいけない!」などと豪語すれば、アイヌの歌い手・絵美は、いい感じに焼けた蓮根を目前で揺らし「えーっ、蓮根も食べなきゃ。見通しが良くならないよ~」と、日本の正月ではよく耳にする言葉を無邪気に放つ。

人間の世界では、土着だのブルースなどと、やや草臥れた心達のいろはにほへと、そういったテイストに対する愛着というか、そんな所にみょうなリアリテイーを感じてしまうムードはあるが、本物の土着、本当の野生とは、実はかぎりなく清潔で、ピュアで、純度の高い生活、混じりけの無い、全身に風をはらんだ、情念などという人間界のお伽噺が入り込む余地の無い、清浄な姿ではなかったかと、たぶん半月ほど前には北海道の荒野をびゅんびゅん走り回り、跳ね回っていたはずの鹿が、その肉が、僕の身体の内へと潜り込み、生命の、あの生暖かい音楽が全身に広がって、あるメッセージを、原野のイメージと供に残していった。

風の強い夜だった。
四方八方から、遠くの方で、それぞれの渦の巻き方で遊び、そのダンスを、声を、静かな樹々たちとの協奏で知らせ、唐突に、思いのまま僕たちの元へ、なんの合図もせずにやって来ていた。
下倉夫妻は、意図せず、いや、風のように、鹿が、大地があるからそこを走り回るように、なんら意図を持たなかったからこそ、たぶん、僕とカミさんに、未知の、原初の領域を拓いてくれたのだった。

夜だった。

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