2010/10/19

“Love”って何さ / LOVE ?


“Love”って何さ

ラヴラヴ・・・って軽々しく
言葉にしなきゃおさまらないほど
僕らは冷たく 此処は
凍えそうなのか

季節はめぐる
まるで何事もなかったかのように・・・


“Love”って何さま

「愛してるよ」なんて
よくもまあ言葉にできるものだね
アイも 恨み辛みもない
何も無い だから全てがひらく
眠っている
きみも僕もいない


その美しさに
ただ討たれていること

2010/10/17

アントナン・アルトーの受難劇 / Antonin Artaud




アントナン・アルトーの受難劇 (Aug/28/04)

----ネガテイブな亡霊ごっそり背につけアルトーさん
底で何してんの?

「・・・私は彼女を抱く。彼女に口づけをする。ある最後の圧力が、私を引き止め、凝結させる。私の腿の間で、教会が私を止め、嘆くのを感ずる。
(中略)・・・いや、いや、私はこの最後の壁を押し開く。かつて私のsexを監視していた、アッシジの聖フランチェスコは今や離れ去る。聖ビルイッタが私の歯を開く。聖アウグスチヌスが、私の帯を解く。シエナの聖カタリナが、神を寝入らせる。」*

エクリチュールのデルタ地帯
照れ隠しの自己劇化
苦痛に酔うケンタウロス
自虐への耽溺は
中世以来の信徒の流行

「・・・一切の文章表現は豚のやるような仕事だ。
曖昧なものから出発して、それが何であろうと、とにかく己の思考の中に生ずるものを明確にしようと試みるような連中は、まさしく豚野朗である。」*

五歳の時 彼は脳膜炎前躯症を患い 九死に一生を得たが 後 神経症の兆候を示すようになり 生涯 身体的苦痛と狂気の極限で生きた 詩人にして前衛演劇の実践者 アントナン・アルトー  晩年は 八年八ヶ月におよぶ入院生活(精神病院のハシゴ) そして千九百四十六年 最後の宿・ロデーズの病院から退院 その二年後 永眠五十二歳。

風の上にありか定めぬ塵の身はゆくへも知らずなりぬべらなり 
(古今和歌集)

狂気とは何か? 
ヒトを無闇に姦淫し 
憎悪に駆られ
ヒトを殺めた経験のない者が
せいぜい公園で無法の雄叫びを上げ
ちょいと小部屋の片隅でアヘン吸い
(ゴッホは、片耳を削いで愛する者へ贈った・・・)
高ぶった神経を弛緩させようと
ほんのりよい気持ちを貪っていただけの男が
時に熱に魘され文章書き
ウンチなんかしませんよ!
なんて顔したマドモアゼルが群がる都心部へ
ショーウインドウを真似た
数多の装飾的な恋愛劇に亀裂を
古代のカミナリを走らせようとした男が
ある日“精神分裂病”というモダンな病名を宣告され
半ば強制的 ほぼ暴力的 
柵で仕切られた白い巨塔に連行され
そこの大親分から狂人初心者マークをペコンと御でこに張られ
狂気とは何か?
そして院内では サドマゾ愛好家もびっくりするような
原始人も腰を抜かすであろう最先端の治療法
電気ショック療法とクスリ漬けの日々
ああ これが本物の<残酷劇>
舞台は客席不在の白を基調とした病室X
これではノーマルな人間も
アブノーマルな人間さえもが
正真正銘の狂人へと変容できる
・・・狂気とは何か?
それはどこにある?
どこにあったのか?

「かつては、魂は実在していなかったし、
精神もまたそうであった、
意識にいたっては、誰もそんなもんについて考えたこともなかった、
それにまた、破壊されるやいなや再び組み立てられる、まったくの戦闘状態にある要素だけでできた世界においては、思考はどこにあっただろうか?」*

『神の裁きと訣別するために』
こんなタイトル(書名)を考えつく者は
たぶん敬虔な裏クリスチャンか
骨の髄までバイブルのお伽噺に洗脳された隠れ信者
ザ・西洋人!以外には考えられまい
(日本のクリスチャンとは憧れちゃんレベル 踏み絵を踏むべきか踏まざるべきか 絵に描かれた偶像神を前にして思い悩むなんて 悪魔が見たら さぞかしぶっ魂消ることだろう)
アルトーさん
貴方の歯軋りは全くのヨーロッパ仕込み
そう考え 離れてみることもできた
文明がこしらえた架空の夜は
神経衰弱者から南国の放神を奪い
機敏な魂たちを磔にかける
『ヴァン・ゴッホ 社会が自殺させた者』
こういったタイトル(書名)を思いつく者は
本来 純朴なる魂の持ち主か
沈黙を愛する 生まれる時と場所を誤った羊飼い・・・

「・・・卑劣な猿どもや、濡れしょぼった犬どもから成る人類を前にすれば、ヴァン・ゴッホの絵は、魂も、精神も、思考もないような時代の、次々と結ばれまた離れる原初的な要素以外の何も無いような時代の絵と思われたことだろう。」*

神経の秤=アルトー
神経の秤に引っ掛かって来るモノやコトなど
実は高が知れている
そこに質量を感じてしまうのは
己がひどく西欧文明に毒され
キンジュウソウモク(自然)から切断されてしまったからだと
そう考えてみることもできた

「・・・人は、無限のために生きることもできるし、無限によってのみ満足することができる。この地上と諸天体には、無数の偉大な天才を満足させられるだけの無限がある。」*

ふりかえる
灼熱の眼は
ひるがえる
黒いマントの裾
水気を含んだ
初老のガラス細工
そよ風が
無限定を
引き寄せた
未明の刻
無数の星々が散りばめられた
深紅の底なし絨毯
硬直したカラダは
惑星メトロノーム
小刻みに震え
意味を剥ぎ取られた
黒い穴のあいた襟首から
二頭の幻獣が
熱に侵された彼の頭上をめがけ
その外部思考まで食いちぎる


*アントナン・アルトー『ヴァン・ゴッホ』粟津則雄訳(ちくま学芸文庫)
 
 
 
 

2010/10/13

日川キク子 Kikuko Hikawa / 阿寒 AKAN


日川キク子 Kikuko Hikawa : 唄 Vocal


日川キク子さんの第二弾PVのご紹介をさせていただきます。
撮影に協力してくれた様々な方々、阿寒に住む人々の温かな心情に感謝いたします。
そして僭越ながら、この動画はアイヌの若い唄い手の皆さまへ贈らせていただきます。

*film and soundscape by Takeshi Kainuma  海沼武史

2010/10/10

日本の伝統音楽 / Japanese traditional music

今日は、日本の伝統音楽をご紹介します。

この動画は、神奈川県川崎市にある洗足学園音楽大学による「伝統音楽デジタルライブラリー 」から、世界の伝統音楽をハイビジョン映像で収集するという企画のまず第一弾「邦楽」に焦点をあてたものらしいですが、面白いなあとおもい、その一部をアップさせていただきました。
なかなか、邦楽演奏の場に足を運ぶ機会をもてない方のために、いわゆる日本の民族音楽(?)、伝統音楽の魅力をすこしでも感受していただければ、もちろん、僕は洗足学園音楽大学の回し者のではありませんが、ちょっぴりワクワクしてしまいます。(おいしいモノやコトはみんなでシェア)。

彼ら、ぶれる事をまったく知らぬ演奏者のパフォーマンス、奏でる音色の内に人柄が、品位が、その人性の総体が現れてしまいますが、超カッコいい!と思いませんか。
僕がウワーッ!って感じで映像を撮りたいくらいです。たぶん小生が撮影したら、「今」の音楽として、「今」の事として“作品化”してしまうんだけどなあ。そしたらどういうことが起きるのか?
音楽のジャンル分けという横暴が、ご都合主義が仲良く横死し、伝統であるとか、古典音楽であるとか、そんな音楽の入り口に取り付けられた看板、よくある装飾語を消しにかかる、一等重要な問い、人間にとって音楽とはなにか?人間の音楽とはなにか?という“問い”だけをさらり残そうと思っているのですが・・・。

昨日、たまたま菊地成孔のインタビュー記事で、「今の音楽には毒が足らない、もっと毒を盛れなきゃ」みたいな発言を見かけたのですが、なんかとっても古臭いことを言っているなあと感じてしまうのは僕だけでしょうか。
とにかく下記の動画、音楽を聴いてみてください。毒だの悪意だのへったくりだの、そんなこたあ作品、表現にとってはどうでもいい糸くずみたいな与太、ということがすぐさま直覚できるかと思います。


「讃歌」 箏:吉原佐知子



「波頭」 大皷:荒井ふみ子 鼓:西川啓光 


 
琵琶:田原順子 ヴァイオリン:水野佐知香

2010/10/08

on 床絵美 & リウカカント radio / FM in 沖縄


昨日に引き続き、今日は床絵美の電話による「FMたまん」ラジオ番組生出演、その収録音源をお届けいたします。


2010/9/26 pm 5:00-pm 6:00

2010/10/07

on 堀内幹 radio / FM Taman 76.3 M㎐ Okinawa

2010/9/26 am10:00-am11:00


先日、沖縄本島最南端にあるFM局「FMたまん」にて堀内幹のCD『one』が紹介されましたと、このブログでご案内させてもらいましたが、その音源を(カセットテープ!でした)をいただいたので、皆さんに聴いていただきたいと思います。
ただ、その音質が、遠い沖縄からの電波を、ここ東京の裏高尾の山の麓にてなんとか傍受したような、ミステリアス、ちょっと近頃では耳にできないアナログ感が炸裂しております。ので、スイッチ・オ~ン!!
それと、これは急きょお知らせが入ったラジオ生番組だったので、堀内幹をおさえることができず、代わりに僕が出演するはめになってしまいました。
ああ、恥ずかしい。
トーク、めちゃくちゃ下手です。緊張~る、ですた。
阿寒に行く準備をしていた前日に、いきなリーン!だよ。
(ごめん、幹ちゃん、うまく喋れませんでした。)

それで、下記の文章は、『堀内幹 / one 』のCDレビューです。
どうぞ読んでみて下さい。
例えのミュージシャン名がね、ちょっと気に入りませんが・・・違うんじゃないかな。



今月最も個性が際立っていたのが、堀内幹『one』。
基本的にギターの弾き語りなのだが、時にトルコのサズやペルシャのタールのような、あるいは津軽三味線のようにも聴こえたりするギター・ストローク(サワリを付けフレットレスに自分で改造した無間棹なるギターか(?)がとてもパワフルだし、語るように絶叫するヴォーカル・スタイルにもついつい引き込まれてしまう。
日比谷カタンのペイガニズムと三上寛のパッションと因幡修次の縄文性を併せ持ったシンガー・ソングライターってとこか。要注目。

(松山晋也 「CDジャーナル」 2010年10月号から)


96年から東京でライブを始めた堀内幹は、初のスタジオ録音CD『one』(9monote 9MNT001)を発表。
アコースティック・ギターに加え、それを三味線や琵琶のようにサワリ付でフレットレスに改造した楽器の自称”無間棹”でも弾き語る。
リフレインする曲にブルースの流れも感じたが、しっとりした曲も荒ぶる魂がみなぎる曲もスケールが大きく、打楽器みたいに演奏する骨太のヘヴィな音に激しくえぐられる。
町田康が切迫感を増した如きデリケイトな野武士をイメージする歌声も吹きすさび、言葉の意味性以上に瞬間瞬間の鳴りのインパクトが強烈で、鈍く光る音の美しさに息を呑むのだ。
写真家でもある海沼武史のプロデュースも功を奏し、広大な野外でのレコーディングにも聞こえるダイナミックな音作りと、声と弦の響きの一つ一つに意思が脈動する仕上がりも素晴らしい。
二つ折りの紙ジャケット仕様の約46分8曲入り。

(行川和彦 「ミュージック・マガジン」 2010年10月号から)


*余談ですけど、僕の先輩に15年以上お付き合いさせてもらっているアブストラクトのペインターがおります。
ひとりの絵描きとして、僕は先輩の仕事、作品を敬愛し続けておりますが、彼は大の音楽好きでもあり、それこそ60年代70年代の本物のロックを聴き込んできた方です。
僕より一回り近く年上であるその先輩が、先々月、うちに遊びに来てくださったんですが、そのとき、こんなことを仰っていました。

「ブログ、たまにのぞいて見ているよ。それでさ、日川キク子さんってほんとすごい人だね!あと、堀内幹さん。彼はなんだかジミヘンみたいなサウンドを鳴らす人だね。ライブ、見てみたいなあ。」

ジミヘンみたいなサウンド、先輩はあまりくどくど説明しない人なので、ちょっと翻訳させていただくと、・・・堀内幹は、ジミ・ヘンドリックスの音楽から感じられるようなエネルギー、バイブレーションに近いなにかを放射している、という意味です。

2010/10/05

沖縄・久高島の思い出 / accident in Kudaka


僕がはじめて沖縄の地を踏んだのは確か2002年の頃だから、今から8年前の事。以来、沖縄とは無縁だね。
当時、僕はニューヨークで生活していたから、長い時間のフライトの末、アメリカから入国するという、ちょっと厄介な入り方をしました。
なぜ沖縄に向かったかと言えば、その頃、まだ寝起きを供にしていた犬のユタ、このユタという名前は沖縄では“口寄せする者”、つまりシャーマンのことを指すのですが、名付け親であるカミさんが異様にそこらへんの事情に精通していて、「沖縄にね、久高島という小さな島があるんだけれど、そこに行ってみない?」と囁かれ、彼女がプレゼンスする旅行はいつも快適なものだったから、「よし、行こう、行こう!」と。透き通るような海を眺めながらのんびり海水浴、僕が沖縄についてイメージしていたのはその程度のものでした。

久高島に入り、僕らはある中年のカップルと出会いました。
この夫婦は、旦那さんのお母さんがユタより各が上(?)である“ノロ”、そのノロを育てるという役割を担った中心者、中枢であり、息子さんである彼自身も母親の能力を濃厚に受け継いだ雰囲気を発散させ、また現在のパートナーである奥様も口寄せする人という、いわば最強の霊的カップル?、なんて表現は不味いですが、ちょっと辺りの風景をすとーんと静けさの中に落とし込むような摩訶不思議なエネルギーを放つ二人連れに、なぜか出会ったのでした。

「今、私たちは・・・と・・・を融和させるため・・・をしているところですが、もし宜しければ貴方たちもご一緒に同行していただけませんか?」

あまり細かく書きたくないので、ぐいぐい省いてゆきますが、久高島に着いたその夜、僕たちは島で一泊するつもりで、ある民宿を予約していましたが、そのカップルの旦那さんのお母さんが生前住んでいたという家に、「今はもう誰も住んでいませんから」と、「(泊まりなさい)」となり、さらに彼らのひそやかな道行き、儀式へと、同行することに・・・。どのくらいの時間を供に過ごしただろうか、太古の、真っ暗な夜の海を見つめながら、波の音が全身を貫通するという不可思議な体験、訳も分からず、ただただ彼らに付き従い、神秘的な時空間をギフトされ、ちょっと口外できない、公にされていない幾つもの聖地、場所に案内され、いや、連れて往かれ、僕は生まれてこのかたあれほどまで濃密な時間を過ごしたことが無かったな、ひたすらコウベを垂れ続けた日はなかったと、彼らとの道往きで見た無数の光景と霊妙なサウンドは今なお僕の内側を巡り続けています。

霊的な話、神秘的体験、事象について、人によっては煙たがる、拒絶する人も多いので、僕はあまり直接的には、そこら辺の事を話して来なかったけれど、いや、たぶん、こう見えても、小生、極端に他人から理解されなくなることを恐れていたんだね。
でも、この恐れというものが、僕の中で徐々にほどけ、さらに、神秘的な体験、霊的現象等について、ほとんど重きを置かなくなった自分が今ここにあり、なんて言ったら良いのか、気が向けば話せばいい、乗らなきゃ口をつぐめば良し・・・。
“それ”は、在るとも言えるし、無いとも言えるから。

(話変わり)最近、たまたまカミさんが点けていたテレビのニュースで、朝昇龍が引退するシーンを見かけましたが、彼は、その最後に土俵ギワで、まるで大地に口づけするかのように、そこに深々と口を寄せたのです。
祭事や儀式というものは、その場で暮らす民をまとめるために、その風土が生んだ、育てた形、有効に働くひとつの手段でもあり、またそれ以上の、他所のものがとやかく言うものではない“It”を圧縮した必然としての形式なのですが、朝昇龍がただ一人、単独で、土俵ギワに接吻するシーンは、僕の心をひどく討つものがあり、なんだろう、「存在感覚」とでも言うんでしょうか、現在の日本社会ではなかなか見え辛くなった、味わえなくなった、全的に喪失したものとは、この「存在感覚」なんだなあと、朝青龍の所作に触れ、強く感じたのでした。
存在感覚とは、自身の根底を揺るがすような体験、あるシーンとの対峙、出会い、注視、傾聴により引き起こされる知覚、全的感覚の謂いですが、いろいろ問題を無邪気に引き起こし、びくびく見え見栄の建前社会に成り下がった日本の上っ面の形、常識、マナーと呼ばれているものの犠牲者であった朝昇龍が、最期に途方も無い美しさだけを置いて去ってゆく姿は、たぶん、今の日本人には誰も真似できないだろうなと、これは切ない現実認識でありますが、「じゃあどうすの?」って話し・・・、いやいや、人はそれぞれの道を往けば良いのです、僕もミチを往きますから、思いが観念に逃げ込む前に・・・。


++++++++++++++++++++++++++++++++

では、今夜の未完成楽曲をーーー。
タイトルは「huna」。funaではないよ、フナ。

以前、このブログでも案内しましたが、10月末まで開催されている「海沼武史x中村明博」展のDMに使用した写真、あれはハワイのカウアイ島で撮影されたものですが、その島での出来事がこの音楽作品のモチーフになっています。

 

 

 

2010/10/04

阿寒滞在記 / theshorttrip


阿寒湖 lake Akan



現在、僕はPCの前で阿寒滞在中に収録した日川キク子さんのビデオ編集を終え、彼女のファミリーへのDVD郵送の手はずも整え、ややほっとしているところです。
日川キク子さんのPV制作、これは、殊更誰かに頼まれたものではなく、今回、録音・録画させていただいた筋を通す、というかささやかなお返しになれば……いや、僕の内で唐突に渦巻くものあり、その声に、衝動に突き動かされただけなのかも知れません。

二泊三日の阿寒アイヌコタン訪問。
地元に住んでいらっしゃる友人たちの暖かな心遣いの元、ゆったり揺られ、甘えさせてもらい、かなりスリリングな愉しい時間を過ごさせてもらいました。

今回の旅の目的は、日川キク子さんへ「ソロCDを作りませんか? そのお手伝いをさせていただけませんか?」という話をするのが主目的でありました。
有り難いことに、キク子さんは快く引き受けてくれました。
が、現実問題、このCDはいつ完成するのか、いや、それ以前に、CD制作のための具体的なプラン、見取り図が見えてこず、今、僕はなにも考えられずにいます。

あるシンガー、もしくはミュージシャンのソロCD作りのお手伝いを一人きりで行うということは、たぶん皆さんには想像できないと思われますが、凄まじいパワーと知力、直観力、配慮等々が要求されます。これは当然、自分のアルバムを作る以上のパワーと、厳しさ、やさしさ、刻々とした作業となります。ただ、他者のフィールドに赴くということは、信じられないほどの光景、非常に不可思議な旅を僕に約束してもくれます。他者の内で煌々と静かに燃え上がる“無限”に触れてしまう瞬間、ちょっとうまい表現が見つかりませんが・・・。でも、正直、「日川キク子」さんについて語らせていただくならば、彼女は七十三歳ですが、今だ一枚もその歌声を収録した音源がこの世に存在しない、纏まった作品集(CD)が無いという驚きが僕の中心にあります。また、他のミュージシャン、もしくは録音技師、音楽プロデューサー、さまざまな方々が彼女の歌声の神秘に触れ、早急に、彼女の数多のウポポ(唄)を録音し、世に問うべきではないのかという気持ちが強くあります。

ところで、僕がアイヌ民族音楽の研究者を好かない理由をすこし書かせていただきます。
彼らは、アイヌの唄を研究対象にし、もしくは「資料」としてこれを扱い、まるで自身の研究成果を披瀝する事を主目的とし、または、第一発見者であることに学問的優越感をおぼる小癪な私欲が見え隠れするからです。
ある個人が、ある巨きなものと出会い、もし感動を覚えたなら、理屈はさておき、これをいち早く世に放とうとするのが人間の本能というものです。故、学者とは、“今、生きて在る”ものを、整理し、噛み砕き、纏め上げ、悉く「伝統」という枠の中に収め、博物館送りにし、アイヌの唄に内在する恐ろしいくらいの可能性、「未来性」に賭けようとはしない。単に過去を懐かしむための作業に終始する方々……。
まあ、でも、研究者も大学も必要なんでしょうね。ただ、その仕事、主旨とか内容はさておき、言語による表現そのものが、うつくしいものであれば。「今」を、リアルに明るみにするものであれば。

日川キク子さんのソロCD、これは僕の不遜な夢に過ぎないのだろうか?
数多の娯楽音楽が量産され続ける節操無き現在のミュージックシーン、意味のない歌声が横行するこの聴覚世界にあって、彼女のソロアルバムを、ただ誰よりも待望しているだけなのかも知れません。